8.
うちの居間がこんなに静かになったことって、あっただろうか。
昼の間はたいてい母がそこにいて、台所と行き来したり、テレビを点けていたり、何かしらバタバタしているし、
夜には父がのんびりと晩酌をして、ニュースやナイターを見ながら母と話をしている。
なのに今はいつもの倍の人数がいても誰の声もしないし、外から聞こえる雑音の他は
壁にかかった時計の音だけがやけに耳について、あたしはそこに時計があったことに改めて気付いた。
――ケンちゃんの部屋でお酒を飲んだあと、気が付いたら朝になっていた。
何もなかったように普通に朝ご飯を食べ、昼頃まで部屋で過ごして、家の近くまで送ってもらった。
あたしが勢いにまかせて言ってしまったことなんて忘れているのかなと思った時
『一応、そのつもりだってこと、近いうちに叔父さん達に話すから』とだけ言ってケンちゃんは帰って行った。
その『近いうち』っていつなんだろうと思っているうちに新学期が始まってあたしは無事に三年生になり、
ケンちゃんは相変わらず忙しくてたまにしか会えず――あっという間にゴールデンウイークになった。
そして、今日の昼過ぎに電話が来て、一度実家に帰ったケンちゃんが二時頃にうちに来た。伯母さんと、良くんを連れて。
ひさしぶりに会った良くんは、あたしを見ると肩をすくめて『仕事が八時からだっつったら、呼び出された』と言った。
で、吉村家と野上家の六人が揃うという珍しいことになり、最初のうちはお茶を飲んだりにぎやかにしていたのだけど。
「夏菜が卒業したら、俺達、結婚しようと思う」
ケンちゃんが突然言った言葉に、誰もが押し黙ってしまって、二分近い時間が経つ。
一番驚いていたのはうちの両親で、他の四人は父か母のどちらかが口を開くのを待っている感じになっていた。
「……静子」
沈黙を破ったのは伯母さんだった。ちょっと笑いを含んだ声に呼ばれて、母が顔を上げる。
「え?」
「なんか、そういうことみたいよ。聞いてた?」
「ええ、はい。――お父さん」
腕を組んで天井を見上げていた父が、黙ったままで母のほうに目を向けた。
「えーと、どうしましょう」
「どうしましょうって……賢一と夏菜は、そのつもりなんだろう」
こちらに向けられた視線に、あたしとケンちゃんが同時に頷く。それを見た良くんが口の端で笑った。
「なんだよ、けしかけてたんじゃねぇの?」
「イヤね、そんなことないわよ――まあ、そうなったら……それでも……」
「あのね」
あたしは息を吸い込んで、両親の顔を見比べた。
「来年になったらまた考えるけど……できたら、大学院に進みたいと思ってるの。
で、そのあと就職して――だから、ちゃんと奥さんになれるのは、もう少し先だけど」
「まーくんは、それでいいの?」
「うん」
笑って頷いたケンちゃんが、あたしと目を合わせた。
「夏菜が就職するまで待ってもいいんだけど、俺もいい年だしさ。
――それに、実を言うと、また異動になるかも知れないんだ」
「え、そうなの?」
知らなかった。目を丸くしたあたしに、ケンちゃんが頷く。
「そうなると思う。前にいた事務所で辞めたヤツがいて――いろいろ変わったんだけど、落ち着かなくて。で」
そこまで言うと、少し大げさに肩をすくめて両手を広げて見せた。
「結局、俺が戻ることになるらしい」
「え、じゃあ、前のとこに?」
「そう。向こうから出てく人とかもいて、しばらくバタバタしそうだけど。この前課長から打診が来た」
「なんだ、じゃ、帰って来んのか」
つまらなさそうに言った良くんに、ケンちゃんが眉を寄せる。
「悪かったな」
「だったらここに住めば?」
「え?」
「うち。わざわざ部屋借りることないじゃん」
えーと、それは、伯母さんと同居するってことかな。……それでもいいけど、少しは、二人でいたいなー、とか……。
「いや、でも」
「まあ、そうね。私は一人だし、どこかに消えましょうか?」
おどけて言って腰を浮かせる伯母さんに、ケンちゃんが苦笑した。
「またそういうこと言う。あの家はお袋の名義じゃないか」
「だから、兄貴の名義に書き換えればいいってこと」
「ちょっと待てって。いきなりそんなこと言ったって」
「分かんねぇかな。お袋がこっちで、叔父さん達と住めばいいだろ? で、兄貴と夏菜は隣で新婚さんしてれば?」
良くんの言った言葉に、またしても場が静まり返る。……まさか、こうなるとは思わなかった。
「そうか」
今度は父が声を上げた。
「そりゃいいな。うん。二階が空くんだから、義姉さんがこっちに住めばいい。広さもちょうどいいだろ」
「ええ、まあ……そうね」
何となく飲み込めていない顔で、母が頷いた。
「そうしてくれると、俺も安心っつうかさ」
良くんらしからぬ台詞に、全員の視線が彼に集まる。
「悪いけど、俺、もうしばらくフラフラさせてもらうから。そのうち落ち着くと思うけど。
――みんな一ヶ所に固まっててくれると、楽だし」
「お袋が一人でいるのが心配だって、素直に言えば?」
笑ってそう言うケンちゃんを睨んで、良くんがため息を吐く。
「――ま、どうせまだ仕事は続けるんだろ? 一人でメシ食ってもうまくないんじゃないの」
ふてくされたような言い方だけど、伯母さんを心配する良くんの気持ちは伝わって、何となく場が和んだ感じになった。
母と伯母さんが目を合わせて、困ったような顔で笑い合う。
「――迷惑じゃないかしら」
「まさか。姉さんが一人で寝起きしてるよりずっといいわ」
「そうだそうだ。うん」
「お父さん、夏菜が遠くに行かないでくれるから嬉しいんでしょ」
周りでどんどん進んでいく話に、あたしはケンちゃんと顔を見合わせて苦笑した。
「――どうする?」
「どうもこうも、それが一番いいみたいじゃないか。……確かに、俺は帰りが遅いことも多いし、出張もあるし、
おまえが一人でいるより安心だけどさ」
「心配しなくても、お邪魔はしないわよ」
すまして言う伯母さんに、ケンちゃんも負けずに言い返す。
「そうしてくれる? 邪魔されたくない時はインターホンも切っとくから」
吹き出したのは良くんだった。
「やってらんねぇ」
前に来た時は、秋だった。
展望台から見える春の夕焼けは、ほんの少し白い絵の具を落としたみたいに柔らかく霞んでいる。
あの時ケンちゃんの腕の中で見た、澄んだ夕焼け空。夏の合宿で先輩と並んで見た、蜂蜜のようにまとわりつく夕陽。
ケンちゃんの隣で手すりにもたれて見る空は、また違った表情であたしを包んでくれた。
一応、婚約っていうことになるのかな。
来年、ケンちゃんの異動が決まり次第こっちに引っ越して来て、あたしと伯母さんは入れ替わりに引っ越すことになる。
それから籍を入れて、あたしが卒業したら式を挙げて――とんとんと決まっていく話が、あたしはまだ消化しきれていない。
じゃあ、そんな方向でいこうか、と話がまとまりかけた時に、ケンちゃんが改めてうちの両親を見た。
『俺もまだまだ未熟だし、夏菜は学生だし――心配かけると思うけど、一緒にやってくから。……夏菜を、俺に下さい』
膝に手をついて頭を下げるケンちゃんに、両親もあたしも一瞬言葉を失い――父は、黙ってケンちゃんの肩を叩いた。
良くんが、けっ、と笑って、伯母さんに頭をはたかれた。
その良くんを送って行きがてら車で出かけて、ひさしぶりにこの展望台にやって来た。
「……なんか、決まっちゃったね」
「なあ。ここまで話が進むとは思わなかったよ」
「良くん、大活躍?」
「あとが怖いような気もするな」
そんな話をしているうちに、空はゆっくりと夜に融けていこうとしている。
自己主張の激しい赤がだんだんと薄められて行き、端のほうから青い闇に飲み込まれて行く。
頭の中ではずっと、二月にケンちゃんの部屋で聴いた曲がリフレインしていた。
「ねえ」
「ん?」
「ひとつ訊いていい?」
「何だ」
ケンちゃんの腕にもたれるようにして、言葉を探す。
「――藤村さんのこと」
「……あいつの、何?」
「何があったのかな、って……ダメだったら、いいよ」
「いや」
苦笑したケンちゃんが、あたしの腰に腕を回した。
どこかから花の香りがする。風が木を揺らす音。遙か下のほうから、車の走る音が聞こえる。
「俺と藤村だけど……前に、このまま付き合うことになるのかと思うようなことは、あった。
互いに恋愛感情がないわけじゃなかったと思うけど……結局、今の状態が一番ってことかな」
「そう」
二人が交わした、優しい視線。ひとつの事を言えば、全部分かり合えるような空気は、ケンちゃんの一部になっている。
「で、あいつは……ちょっと人間関係でいろいろあって、それは俺にも少し関わってて……今回の異動になった」
言いづらそうに言葉を選んだケンちゃんが、あたしの顔を見て小さく笑った。
「ごめん、その辺はまた、ゆっくり話すよ」
「うん。分かった。……それで、最近落ち込んでた?」
「……うん」
そう言ってあたしの後ろに回ると、背中から抱きしめる。
「あのさ……去年、おまえが具合悪くなった時……できたかもって言われて、ちょっと嬉しかった」
「……えっ?」
「うん。で、違ってて、ああまだ早いし、これでいいんだって思ったけど……がっかりもした」
振り返って彼の表情を見たいけれど、あたしを抱きしめる腕は、それを許さなかった。
「おまえが体調崩したのは、いろいろ原因があるだろうけど。
進学のこととか……あとやっぱり、俺が、不安にさせてたと思うから」
「……そんなこと」
「おまえいつも、俺の負担にならないようにしててさ。それで俺は助けられてるんだけど、あのことがあって……自覚した」
「自覚?」
腕の中で身じろぎをして、少し緩んだ隙間からケンちゃんの瞳を見上げる。
遠くを見つめる横顔に夕陽が反射していて、どんな顔をしているのか分からない。
「もっと年の近いヤツのほうがいいんじゃないかとか、俺に縛り付けることになるんじゃないかとか……そんなことはもう、
どうでもいいって思った。どうやってもおまえを離すことは、できない。だから、何があっても、俺に――守らせてほしい」
少しづつ、闇がその濃さを増していく。青く沈んでいく空気に包まれて、あたしはケンちゃんの鼓動に耳を澄ませた。
「で、橋本がさ」
「え? 橋本さん?」
「うん。あのバカ、おまえ見て浮かれやがって。従妹だって言っちまった俺が悪いんだけど
――会わせてくれとか言い出すし」
笑ってそう言うと、腕を緩めてあたしの顔を覗き込む。
「はっきり言っとこうと思ってたから、あの時呼び出されてちょうど良かった」
「……少しは、妬いた?」
「うん。……ほんとは、夏菜の大学の……先輩の話だって、頭に来た。
部活で野郎に囲まれてるのも、バイトで帰りが遅くなるのも、気に入らなかった」
言ってることと裏腹に、おかしそうに笑ってあたしの髪に頬を付けた。
「ああもう、これ以上ダメだと思ってたら、おまえが嫁に来たいって言ってくれたからさ」
「あれは……だって、つい」
「嘘だった?」
「そ、そうじゃないけど。ずるいよ、飲ませるんだもん」
「おまえが溜め込むからだろ。とにかく言いたいこと言わせようと思って。まさかああ来るとは思わなかったけど」
あたしの肩に手をかけて振り向かせると、額を合わせて瞳を見つめる。
「……俺は、どこにも行かないから。喧嘩になってもなんでも、言いたいことは言ってくれよ」
「うん」
「で……えー……結局、おまえに言われてばっかりだから……夏菜」
顔を離したケンちゃんが、いきなり姿勢を正して真面目な顔になった。
「俺と、結婚してほしい」
空の端に赤みがかったグレーを残して、夜がすべてを覆いつくす。眼下に広がる街並みに、ひとつひとつ灯りがともる。
「……はい」
見つめ合う瞳がゆっくりと細められて、あたしは背中を引き寄せられた。
この腕の中が、あなたのいる場所が、すべて。
これから二人で少しづつ、作り上げていく世界。
あたしは彼の胸に耳を押し当てて、柔らかな曲を聴く。
―― What a Wonderful World ――。
〜fin〜
あと書きはこちらです。
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