7.
初めてこの部屋に来た時より、緊張しているかも知れない。
ケンちゃんは逆に妙に落ち着いていて、部屋に入るなりあたしの鞄から勝手に携帯を取り出した。
「電話しとけ」
「――どこに?」
「家。今日は泊まってくるからって」
こんなことを言われたのは、多分初めてだと思う。 あたしは今の状況が飲み込めないまま電話をかけ、適当に言い訳をして切った。
「……大丈夫か?」
「あ、うん」
「風呂入ってくれば」
「――ううん、あとでいい」
今入ったら、溺れそう。
「じゃ、俺先に入るから。着替えて休んでろよ」
「……うん」
ケンちゃんが洗面所に消えるのを待って、部屋着にしている綿ジャージのワンピースに着替えた。
床に寝転んでみても、テレビを点けてみても、落ち着かない。
そうこうしているうちに、洗面所のドアが開く音がして、ケンちゃんの声が聞こえた。
「上がったよ」
「うん」
スウェット姿のケンちゃんが、冷蔵庫を開けながら振り返った。
「一人で入れるか?」
「え? は、入れるよ」
笑ってこっちを見る視線から逃げるように、洗面所に向かう。……なんか、調子が狂うなあ。
お風呂を終えて出てくると、部屋のテーブルにお皿やコップが並んでいた。
小さく切ったパンにハムやチーズを乗せたものと、サラダ。
「腹減っちゃってさ。おまえは?」
「……うん……そう言えば少し。ケンちゃん、料理するの?」
「これを料理と言うなら。早く帰れた時なんかは、簡単に作るよ」
ケンちゃんが作ったものを食べるのも、初めてじゃないかと思う。
「夏菜、体調はどうなんだ」
「え? うん、別に。飲みに行けるくらいだから」
「そうか」
そう言ってテーブルの下から出したのは、洋酒のビン。
「……何?」
「俺全然飲んでないし」
「はあ、どうぞ」
氷の入ったグラスの底に1cmくらい注いで、ペットボトルから水を入れてかき混ぜると、どういうわけかあたしの前に置いた。
「はい?」
「おまえの」
「……これ? あたし、こういうの飲んだことないよ」
いつも、半分ジュースみたいなお酒しか飲めない。
「大丈夫だよ、薄いし。口当たりがいいから、飲んでみな」
そうっと口をつけてすすると、確かに苦いとか辛いとかではないし、飲めないことはない。
おいしいのかどうなのか良く分からないけど。
「飲める?」
「……うん」
「じゃ、食いながら少しづつ飲め」
……何で飲むことになってるんだろう。
ケンちゃんは氷の入ったグラスに水を注ぎ、空のグラスに半分くらいお酒を注いだ。
「ほい、乾杯」
あたしのグラスに軽く合わせて鳴らし、ぐい、と一口飲む。
家で、うちの父とビールを飲んだりしていることは良くあるんだけど、
こういうふうに飲んでるケンちゃんを見るのも初めてで、思わずじっと見つめてしまう。
「何だ?」
「ううん。……お酒、割らないの?」
「ああ。俺はもともとこのほうが好きだから。心配しなくても、たいして飲まないよ」
もうすぐ日付が変わる。テレビもラジオも点けない部屋は、静けさが形になって目の前に浮かんでいるようで、
どこを見ていればいいのか迷ってしまう。
しばらく黙って飲んでいたケンちゃんが、顔を上げた。
「……夏菜」
「ん?」
ゆっくり飲んでいたお酒のせいか、ぼんやりと返事を返すと、ケンちゃんが小さく笑って顔を近付けた。
優しく細められた瞳。あたしの一番好きな顔。どうしてだろう、あたしはまた、泣きたくなってしまう。
ケンちゃんの手がそっとあたしの頬に触れた瞬間、待っていたように涙が零れた。
「……ごめ……」
「いいから」
頬に当てられた右手を両手で包むようにして、あたしは泣いてしまう。
「……何が、訊きたい?」
「……え?」
「俺に、訊きたいこと」
訊きたいこと。言いたいこと。何だろう。どう言えばいいんだろう。
「何も考えなくていいから。言ってみな」
「うまく……言えないよ」
「いいよ」
あたしは息を吸い込んで、吐き出した。
本当は、もっと一緒にいたい。何が正しいかとか、どこを目指すのかとかじゃなく、ただ、隣にいてほしい。
ケンちゃんが思っていることを聞きたい。本当の気持ちが知りたい。もっと、もっと、近くにいてほしい。
あたしでいいの? 彼女だって思ってくれてるの? 家族の前でそう言ってしまったから、一緒にいてくれてるの?
「……バカだな」
ケンちゃんの手が、優しく髪を撫でる。
あたしは顔が上げられない。あとからあとから溢れてくる言葉に飲まれて、涙を止めることができない。
「大学院、行きたい」
「は?」
「本当は、行ってみたい。でも、社会に出て働いて、ケンちゃんの気持ちに、少しでも、近付きたい。
どこに行ったらいいのか、分からない」
しゃくり上げながら言う言葉に、ケンちゃんが苦笑した。
「焦るなって。……院に進むなら、それでもいいじゃないか。叔父さんや叔母さんと相談して、行けるなら行けよ。
仕事なんて、そのあとだっていいだろ」
「でも」
顔を擦ったあたしの体が、ふわりと浮かんだ。
いつの間にかベッドに座ったケンちゃんの膝に抱え上げられて、肩にもたれる。
「でも、一緒にいたい」
「いるよ」
「でも、院に進んだら、ケンちゃんに追いつけない」
「何言ってんだよ。俺はどこにも行かない。おまえが何してたって、そばにいるよ」
「じゃあ」
泣き過ぎて声が掠れる。鼻が詰まりきって、息が苦しい。頬が熱くて、目の前が霞む。
「あたし、ケンちゃんのお嫁さんになれる?」
ケンちゃんの顔から、笑みが消えた。一瞬絶句したように息を呑んで、それから、ゆっくりと笑う。
「……なれるよ」
「いつ?」
「いつっておまえ」
吹き出したケンちゃんが、あたしの背中をあやすように叩いた。
「とりあえず、卒業しないとな」
「じゃあ、卒業して、院に進んでも、就職しても、お嫁さんにしてくれる?」
あたしは何を言ってるんだろう。お嫁さん、なんて、子供の夢みたいなこと。
「……本気か?」
頭がクラクラする。心臓が、口から飛び出してしまいそう。それでも、嘘なんかじゃない。
繰り返し頷いたあたしの頭が、ケンちゃんの胸に押し付けられた。
「――分かった」
「え?」
「いや、おまえ今酔ってるから、また改めて訊くけど――俺も、本気だから」
見つめる視線の強さに、あたしは動けなくなる。ケンちゃんの腕に閉じ込められて、唇を塞がれる。
息ができない。あたしに触れるケンちゃんの手が、やけどしそうに熱い。
自分の心臓の音と、互いの吐息と、あたしの名前を囁く声しか、分からない。
あたしは自分を抱きしめる腕にしがみついて、真っ暗な坂道を転がり落ちて行った――。
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