4.
秋の大会が近付いている。
まだまだ残暑は厳しいけれど、少しづつ練習しやすい気温になってきていた。
結局、教習所にもバイトにも行かないまま、新学期が始まる。
ケンちゃんとは、夏前と変わらないペースで会っていた。
出張のあとのお休みにはプールや水族館に行ったり、部屋で過ごしたりと、そのほとんどをあたしと一緒にいてくれた。
だから、もっと浮かれていてもいいはずなのに。
あたしは池田先輩の話をした時から、ケンちゃんの見せる『大人』について考えることが多くなった。
今までは、それはケンちゃんの領域だった。いつかはあたしもそこへ行く。そういうものなんだと納得する。
でも、それは今じゃないと思っていた。
二十歳になれば大人なんだろうか。社会に出れば大人なんだろうか。
それが当たり前だと思えるようになるまで、ケンちゃんには追いつけないのかも知れない。
――あたしは、走り出してすらいないのかも知れない。
スタートのホイッスルが鳴った。
短距離を走るのは池田先輩だ。……今度の大会で、引退する。
中学から陸上ひとすじだった人が、普通の社会人になるためにここから出ていく。
それも、大人になるということ。
プロになれるわけでもないのに、社会の歯車のひとつになれないことを続けていくのは、子供のすること。
だったらどうして、そんな顔で走るんですか。
どうして、走り終えた後の笑顔を見せられるんですか。
「よう、どうした」
いつもと変わらない、優しい笑顔。ケンちゃんと同じ。
「いえ、何も」
「元気ないなぁ。彼氏と喧嘩でもしてんのか?」
「……」
「ありゃ、マジで? 俺、チャンスってこと?」
「先輩……」
「冗談だって。あー……何があったわけ?」
ケンちゃんより、少し不器用な話し方。この人も社会に出たら、自分の気持ちをうまく言葉にできるようになるんだろう。
相手の負担にならないように。決められた枠からはみ出さないように。
「……陸上、やめちゃうんですね」
「うん? 俺? ……ああ。とりあえず、引退だな」
「いいんですか、それで」
「え?」
「走れなくなって、会社に入って、毎日電車に揺られて、それが正しいんですか?」
「……吉村?」
泣きたくなってきた。何で先輩にこんな話をしてるんだろう。
ケンちゃんじゃなく、この人に思いをぶつけているんだろう。
「……すみません、何でも……」
先輩は左腕の時計に目をやると、練習中の部員に向かって両手をメガホンにして叫んだ。
「よーし、休憩! 15分したら戻れ!」
うーす、という返事が広がって、部員達がそれぞれに水を取りに行く。先輩はくしゃっと笑って、あたしの肩を叩いた。
「ま、部長権限。たまにはいいだろ。……ちょっと、日陰で休むか」
冷たくなった風が、汗ばんだ額を冷やしていく。
グラウンドの隅のベンチに腰かけて、先輩はボトルに入ったドリンクを飲み干した。
「例えば、さ」
「――え?」
突然始まった話に、慌てて顔を上げる。
「例えば、こうやって飲む水のうまさだとか、自分の記録が縮まった時とか、みんなが走り終わった時の顔とか」
ひとつひとつ言葉を選ぶように、考えながら話してくれる。
「もちろん、うまいこといかなくて走るのがイヤになることも、大会で負けて帰る時も、みんな消えるわけじゃないから」
「――それで、陸上やめてもいいんですか?」
「簡単に言えば、そう。俺が10何年続けてきたことは、無駄になってない。少なくとも自分にとっては。
いつかはさ、終わりが来るんだよ。たとえプロになれても、一生走れるわけじゃない。
俺は、自分の陸上がこれで終ったとは思わないからさ。
――この先、いろんな形で俺のまわりに現れてくれるもんだと思うから」
「……」
「ちょっと、キレイごと過ぎるか。……でも、そうやって俺は陸上と付き合っていきたい。
走ろうと思えば、どこでも走れるしな」
「……大人、なんですね」
「あ?」
「先輩も、そうやって割り切れる。みんな、抵抗なく大人になっていくんだなって……」
「大人になったら、吉村は吉村じゃなくなるのか?」
「……どういうことですか?」
「だから、自分の好きなもんとか、価値観とか、大人になるには捨てなきゃいけないのか?」
「……たぶん」
「いいや、違うね。そりゃ、それだけに時間を使えるわけじゃないけど、自分ってもんは消えない。
俺の陸上が消えないのと同じに。どこかにガキのまんまの自分を残して、何とか他人と折り合いつけて生きてんだよ。
抵抗しないヤツなんていない」
そこまで話して、談笑しながら休憩している部員達のほうを眩しそうに見た。
「俺はさ――人と話すのが好きだし、人と関わっていたいから、一緒にいたい人間とはなるべくうまくやっていきたい。
無駄にぶつかるようなことは、好きじゃないし。――気に入らなきゃぶん殴るけどな」
笑って、あたしが手を付けずにいたボトルを渡してくれる。あたしはフタを開けて水を飲んだ。
――この味を思い出す時が、いつか来るんだろうか。
「何が大人なんだか分からないけど、そうやって生きてくんだと思う。
自分を捨てるわけじゃなく、他人も大事にできたらいいなと思うだけだよ」
この人が、ケンちゃんに似てるような気がするわけが分かった。
瞳の奥の、穏やかな色。自分を捨てずにいる強さ。相手を気遣う強さ。――どこかに残した『ガキ』の自分。
だからあたしは、ケンちゃんに惹かれた。
その強さを尊敬して、追いつきたくて、子供の彼を、守りたくて。
鼻の奥がツンと痛くなって、あたしは空を見上げた。
いつの間にか、高く澄み切った空。薄くなった雲が、ゆっくりと流れていく。
「その、捨てない自分の一部になるから、今度の大会には気合入れてるわけだ。
――って、俺、かっこつけたことばっか言ってんな」
照れくさそうに笑う先輩を見上げて、あたしはやっと笑うことができた。
「彼氏、大人なんだ」
「えっ」
「そうだろ?」
「……はい」
「まあ、がんばれや。きっと、吉村が思うほどにはそいつも大人じゃないと思うぞ」
そうかも知れない。でも、もう30歳近いんですよ。
言いかけた言葉に笑いそうになって、あたしは口を押さえた。
「お、何だ?」
「いえ。……すみません。ありがとうございました」
「んな、改まって言うなよ。別に、これが正解ってわけじゃないぞ。おまえはおまえで、考えてみればいいんじゃねぇの?」
少し赤くなった先輩が立ち上がって、大きく息を吸い込んだ。
「おーい! 休憩終わり! 練習戻れ!」
――きっと、この景色も、先輩の声も、みんなの姿も、あたしの捨てない一部になる。
ただ、高く飛びたかった高校の頃。見上げた銀色のバーも、いつか、消えずに残されていく。
少し、走り方が分かったような気がした。
大会の結果は、あまりぱっとしたものじゃなかった。
池田先輩はどうにか去年の自分の記録を更新したけれど、うちの学校の名前が残るような記録はどこにもなかった。
それでも、これは大事な一部になっていく。先輩にとって。あたしにとって。
競技を終えたグラウンドは、夕陽の中でやけに広く見えた。
あちこちで、用具を片付ける人達がいる。来年に向けて、真剣な顔で話し合う人達がいる。
グラウンドの真ん中に、オレンジ色のマットが残されていた。
あたしはきっと、来年もマネージャーを続けるだろう。そして、いろんなことを受け止めるんだろう。
――ケンちゃんも、そうして走ってきた。
迷って、悩んで、優しい瞳の奥に、全部閉じ込めて。
それをすべて分かろうとは思わない。ただ、少しでも追いつきたいから。
いつまでも残せる自分をみつけたいから、あたしは走り出す。
一本のバーを飛び越えるために、呼吸を整えて助走に入る。
今は、そういう時期なんだろうと思う。ケンちゃんより10年遅いスタートは、あたしの背中を押してくれる。
もう、高飛びのスタートラインは消えていた。閑散としたグラウンド。耳の奥に残る、スタンドの歓声。
あたしは適当な位置に立って、軽く屈伸運動をした。
その場でジャンプ。あの頃の、走り出すための儀式。
スタートを切る。オレンジ色のマットに向けて、斜めに走る。
左足で踏み切った。グラウンドの土の固い感触が残る。背中でバーを越す。肩から着地。
瞬間、かかとがバーに触れた。
カラン、と派手な音を立ててバーが落ちる。
まわりの人が不審な顔でこちらに視線を向けるのに気付いて、慌てて起き上がった。
なんとなく苦笑しながら、落ちたバーを元に戻す。振り返ると、池田先輩がこっちを見ていた。
少しの間、あの優しい瞳であたしを見て、笑って片手を上げた。
あたしも急いで会釈をする。先輩が控え室に向かって歩いていくのが見える。
もう、何やってるんだか。
選手でもないのに、勝手に飛んだりしてまずかったかな。いいや、このくらい。
自分で自分に言い聞かせて顔を上げると、空っぽの観客席に一人で立っている人がいた。
……あれは……でも、今日は土曜日。最近は日曜日しか休めないってぼやいてた。
今日のことは話したけど、あたしは選手じゃないし、いったい、どうして……。
黙ってあたしを見つめていたケンちゃんが、笑うのが見えた。
あたしは自分も笑顔になるのが分かって、走り出す。
ホイッスルの音が聞こえる。風を切る心地よさを思い出す。
いつかあのバーを飛び越えるための。あなたに追いついて、一緒に走っていくための、助走。
――あたしは思い切り、彼の名前を呼んだ。
〜fin〜
あと書きはこちらです。
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