3.
白いスタートラインに、あたしは立っていた。
まわりにはたくさんの人達。ざわめきと、歓声と、熱気。
遠くで中距離走のスタートを知らせる合図。大きくなる歓声。
地面から伝わる熱は夏の名残を残していたけれど、時折吹き抜ける風は秋の匂いを連れていた。
斜め前方に、オレンジ色のマット。その上に掛かる銀色のポールが反射する光に、あたしは目を細めた。
その場で軽くジャンプ。息を整えて、間合いを計る。
自分がポールを飛び越える姿のイメージ。着地のイメージ。
目を閉じて、開けて、片手を高く挙げる。
まわりの空気が一瞬で張り詰めて、視線が集まるのが分かる。
乾いた地面を蹴って、助走に入る。光るポールがぐんぐん近づいて来る。
その高さに息を呑んだ瞬間、足が見えない草に絡め取られたように動かなくなった。
地面に膝を突いて崩れたあたしに、誰かが駆け寄って来る。
「大丈夫か?」
……ケンちゃん?
「おい、吉村!」
違う。……池田……先輩……?
目を開けると、窓の外は暗くなりかけていた。
自分の部屋とは違う空気。少し堅いベッド。煙草の匂い。
「お、目ぇ覚めたか」
台所のほうから、タオルを首にかけたケンちゃんが部屋に入って来る。
「どうした。まだ夢ん中か?」
優しく笑う。ああ、そうか、本当にここにいるんだ。
「……シャワー浴びてたの?」
「うん」
まだ少し濡れている髪を、がしがしと拭う。
「……冷たいなー」
「何が」
「こういう時くらい目が覚めるまで一緒にいてくれてもいいのに。先にシャワー浴びてるんだもん」
「……おまえが浴びさせてくれなかったんだろ」
――そうでした。
今日の午後、ケンちゃんは日本に帰って来た。
先週やっと電話があって、今日帰る予定だということを知らされた。
あたしは空港まで迎えに行こうと思ったけれど、飛行機の時間がどうなるか分からないから家で待ってろと言われた。
たぶんケンちゃんの言う『家』はあたしの家のことだろうけど、あたしは朝からケンちゃんの部屋で待っていた。
で、着いたよという電話が携帯にかかってきた時に、部屋にいるからね、と伝えたんだ。
ちょっと驚いて、苦笑したケンちゃんの声。このままあたしの家に顔を出せば、二人でいる時間なんてなくなってしまう。
一ヶ月も放っておかれたんだもの、夜までの時間をくれたっていいでしょう?
そう思って帰りを待つうちに、あたしは転寝をしてしまったらしい。
空っぽの冷蔵庫に飲み物や軽い食料は補充しておいたけど、夕食はどうしようとか。
帰って来たケンちゃんを、どうやって驚かそうとか、そんな考えはみんな吹き飛んでしまった。
ただいま、という声に飛び起きると、靴を脱いだばかりのケンちゃんにあたしは飛びついた。
「うわ、おい、何だ、熱烈歓迎だな」
笑ってそういう声。ケンちゃんの匂い。
「やっぱこっちは暑いなあ。向こうも一年中暑いらしいけど、わりと気温は安定して……」
あたしをくっつけたまま部屋に移動するケンちゃんに、何も言わずにしがみつく。
「日本じゃエアコンなしの夏は考えられないけど……って、おまえ、いつまでくっついてんだよ」
「おかえり」
「ああ。ただいま」
額に軽くキス。不満気なあたしの顔を覗き込んで笑う。
「とりあえず、着替えてシャワー浴びたいんだけど」
むー、と膨れるあたしの頬を両手で挟む。
「何、怒ってんだよ」
「……怒ってないもん」
「ああ、悪い。全然電話できなかったな」
「いいけど。向こうじゃこっちとは時差があるんでしょ? 寝てたりしたら悪いと思ったし」
「いや、時差なんて一時間しかないよ」
「え、そうなの?」
「うん。日本人もこっちの企業も多いし、あんまり外国って感じしなかったな。おまえ、マーライオンって知ってる?
よくパンフレットに載ってるやつ。あれ実際はえらい小さいんだな。笑っちゃったよ」
笑っちゃってる間に、電話の一本くらいできなかったのか、この人は。
「……あれ、ほんとに怒ってるな」
「じゃあ、なんで電話くれなかったのよ」
「んー、忙しかったし……なんか毎日バタバタしてて。おまえこそ、電話くれたらよかったのにさ。着信あったらかけ直すぞ」
「だって、携帯……」
「繋がるって。国際電話のかけ方くらい調べとけ」
何ですと。じゃあ、あたしの携帯にも繋がったのに、何でかけてくれないのよ。
「あ、こりゃマジで怒ってるな。……スマン、俺が悪かった。電話しようとは何度も思ったんだけど」
「……」
「夏菜。ごめん、て」
どうして笑っていられるのよ。ほんとに、ずっと、待ってたのに。
「え、おい、泣くことないだろ」
「泣いてない!」
あたしは顔を背けて、ベッドに乱暴に腰を下ろした。ケンちゃんが苦笑してその隣に座る。
「いやでも、本気で忙しかったんだよなー。
……あ、だから、明日ちょっと会社に顔出したら休みもらえるから。どこ行きたい?」
調子いいんだから。そう言えばあたしが喜ぶと思って。ずるいよ、いつも。
「夏菜」
あたしの髪を撫でる指。大きな手。優しい声。
本当に、ケンちゃんがここにいる。手の届くところに。
「ごめんな」
そっと唇が触れ合う。あたしはケンちゃんの首に腕をまわして、思い切りしがみついた。
「……で、あのさ、着替え……」
あたしはそのまま仰向けにベッドに倒れ込んだ。
あたしにしがみつかれたままのケンちゃんが、バランスを崩してベッドに肘をつく。
「おい、夏菜」
まだ笑ってるケンちゃんに、あたしは自分からキスをした。
優しく応えてくれるリズム。ゆっくりと覆いかぶさってくる重み。
「……いや、だから、俺今帰ってきたばっかなん……」
体を起こそうとするケンちゃんの頭を抱え込む。
それ以上は互いに何も言わず――で、結局あたしはまた眠ってしまったらしく、
ケンちゃんはようやくシャワーを浴びることができた。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して飲んでいたケンちゃんが、Tシャツを頭からかぶってジーンズを穿いた。
「ほら、起きろって」
「今何時ー」
「もうすぐ6時。叔父さん達にも、俺が今日帰るって言ってあるんだろ? 途中でメシ食って、顔出しに行くんだからさ」
……そんなの、明日だっていいのに。
「やだー。起きない」
「ダメだって」
確かに、先週の電話であたしは浮かれて、両親にケンちゃんの帰国を知らせた。
今日は伯母さんもいるはずだし、顔を出さないのはおかしいだろう。
……一日くらい、ごまかしておけば良かった。
「じゃあ、今度泊まってっていい?」
「はいはい。今日はダメだぞ。俺んとこにいるのバレバレなんだから」
時々友達に『アリバイ』を頼むんだけど、きっとそれもバレてると思う。特に母には。
あたしは仕方なく身支度をし、ケンちゃんに続いて部屋を出た。
久しぶりに乗るケンちゃんの車。居心地のいい助手席。
――このまま、隣に座って、ずっと一緒に走っていけたらいいのにな。
「さあて、こっちで運転するの久しぶりだからなぁ。生きて着けるといいな」
「……あたし、免許取ろうかな」
「おー、取っとけ。学生のうちのほうがいいぞ」
そうだよなぁ。せっかくの夏休み。ケンちゃんがいないからって呆けてないで、
教習所に行くとかバイトするとか、もっと『成長』のためにできることがあったかも知れないのに。
ケンちゃんが帰る日までを指折り待ってるだけで、時間が過ぎてしまった。
情けない反面、それはもうしょうがない、という諦めもある。
もしかしたらそれは、甘えなのかも知れないけど。
ケンちゃんと一緒にいて、彼を好きでいることが、あたしの一番正しい形なんだと、誰が決めたんだろう。
こういう幸せと引き換えに、あたしは今でなきゃ手に入らない何かを失っているんだろうか。
赤信号で車が止まり、ケンちゃんの左手がギアを入れ替える。
「夏菜、合宿どうだった?」
「――え? 合宿?」
「うん。行ってきたんだろ?」
「……まあ、いつもの部活と一緒。みんなのスケジュール組んで、先生と相談して、部長の先輩と打ち合わせし……」
池田先輩。どうしてあんなこと言ったんだろう。
本気であたしのことなんかが好きだったのかな。確かに、いつも優しくしてくれたけど。
あまり裏表のない、みんなにちゃんと接してる人だから、そんな意図があるなんて思いもしなかった。
ケンちゃんに似てるしぐさ。あたしを見る視線。――その中に、そういう気持ちが含まれていたんだろうか。
「どうした?」
突然黙ったあたしに、ケンちゃんが怪訝な顔をする。青に変わった信号を見て、車をスタートさせた。
「……あのね」
「うん」
「その、部長の先輩にね……告られちゃった」
「……コクられた?」
「そう。付き合ってくれって」
夜の道は、少し混み始めていた。ゆっくりとしたスピードで、車は走っている。
「……それで?」
「あ、もちろん断ったよ。付き合ってる人がいるからって」
「あそう」
前を向いたままのケンちゃんが、ダッシュボードの上から煙草の箱を取った。
片手でハンドルを操作しながら1本取り出し、口に咥えるとシガーライターのボタンを押した。
また、信号が赤になる。ライトが点いたライターを取り、煙草に火を移す。
そして、運転席と、あたしの後ろの席の窓を細く開けた。
信号が青に変わり、咥えていただけの煙草を1回吸って煙を吐き出すまでの間、ケンちゃんは黙っていた。
「……おまえさ」
「何?」
なんとなく不機嫌そうなケンちゃんの横顔を見て、妬いてくれてるのかな、と少し嬉しくなる。
「そういう話、俺にするなよ」
「え?」
「いや、その彼にしたら面白くないだろ。俺が知ってるってのはさ。ああ、もちろん、学校の子にも言わないほうがいいな」
「……それは……言わないけど」
何も、悪いことをしているわけじゃないから。ケンちゃんに隠すような話じゃないから。
だから話したのに。それだけなのに。
「夏菜は、俺に話してもどうってことないと思うだろうけど。俺がそいつだったら、不愉快だと思うな」
「……そう」
ごめんなさい、と謝りそうになる。
ケンちゃんが言うことはいつも正しくて、あたしはいつもそれに助けられて。
だからきっと、これが正解なんだろう。
でも。
あたしがほしい言葉とは違う。
どうして、池田先輩の立場に立ったりするんだろう。どうして、ケンちゃんの言葉じゃないんだろう。
あなたは、どう思うの。
――あたしだったら。ケンちゃんのことを好きだって人がいて、ケンちゃんがそれを断るようなことがあったら。
もし、ケンちゃんがそれを黙っていて、あとになって何かで分かったら、きっと、とてもイヤだ。
ちゃんと話してほしかったって思うだろう。
「……ああ、そうだ、おみやげ。おまえん家の分はそっちに送ったんだけどさ。
おまえのは俺の荷物に入れて送っちまったから……今度会った時に渡すよ」
急に明るい声になったケンちゃんがそう言う。あたしはどうにか笑った顔を作った。
「うん。ありがとう」
一瞬こちらに視線を投げたケンちゃんが、困ったような顔をしてひとつため息をつく。
「まあ、俺の言い方がキツかったかも知れない。……でも実際、これは覚えといたほうがいいと思う」
「うん」
あんまりたくさん話せない。――何か、見えないところに封じ込めようとしている何かが、溢れてきそうで。
溢れさせるべきなんだろうか。思い切りぶちまけて、喧嘩になれば、ケンちゃんの本音が聞けるんだろうか。
――そう思うことは、たぶん、正解じゃない。
「よし。ならこの話は終わり。夕飯何にしようか。向こうじゃ中華料理みたいなのが多くてさ。うまかったけど。
何か、普通のファミレスとか入りたいな、俺」
冗談めかして言うケンちゃんの声は、本当にこの話が終わりだということを告げていた。
だからあたしは、もう一度笑う。
「そうなんだ。いいよ、じゃあ、ファミレス行こう。あたしもお腹すいちゃった」
そう言ったあたしに、ケンちゃんはいつもの優しい笑顔をくれる。
きっと、こうやって解決していくことが『大人になる』ってことなんだろう。
社会に出て働くケンちゃんは、そうやって生きているんだろう。
そして、それがこの世界での『ルール』だ。
久しぶりに見るメガネをかけたケンちゃんの横顔は、少し遠くに見えた。
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