2. 理由

時々様子を見にあたしが『目覚める』と、彼は相変わらずうんざりした顔で出迎える。
まあ、彼にしたら、いきなり部屋に登場するあたしをそうそう歓迎してもいられないだろうけど。
ていうか、歓迎されたことなんかないんだけどね。
「なによー、そんな顔して」
「……どんな顔だよ」
「こ〜んな」
と言ってあたしは、春明のこめかみに両手を当てて、うに、と後ろに押しつけてやった。
変なつり目にされて顔をしかめて離れる彼に、にっこり笑いかけてみる。
こんなこと、彼女はしないものね。けっこう振り回されてくれるから面白いわ。
「せっかく来たんだからさー。もうちょっと嬉しそうな顔できないの?」
「来たって、どこから」
またそう来るか。自分でもよく分からないって話はしたのになぁ。
気がついたらここにいたのよ。部屋を出ていく彼女を見て、全部分かったの。
あたしがいる意味。あたしがするべきこと。
「……それ、信じろってのか」
「信じろってのよ。ほんとなんだから。別にいいじゃないのよ。なんか文句ある?」
「……別に」
ああもうー、この人の反応なんとかならないのかしらね。
笑った顔なんか、ほとんど見せたことがない。
口に出す言葉は最低限のもの。『うん』『いや』『別に』……うっとおしいオトコね、ほんとに。
あたしがいてイヤならそう言えばいいのよ。
もう来るなとでも、出て行けとでも。
「ねー、あたしが来て嬉しくないの?」
鼻白む、というのはこういう顔なんだろうな。女の子からそういう詰問を受けたこともないわけ。楽してたのね。
「イヤならそう言えば?いつでも消えるわよ?」
立ち上がって、腰に手を当ててみたりなんかする。ちょっとした効果。
「……別に、いいよ」
うがー! もう、他に言うことはないんかー!
「じゃ、嬉しいのね? ならそういう顔してみてよー」
「悪かったな、こんな顔で」
ここで、自分でつり目にでもしてみてくれると可愛げがあるってもんなのに。
「はい、笑って笑って〜。笑顔は健全な精神と肉体をつくるのよ〜」
「……」
固まってる彼の口の端をつまんで、にっ、と上げてみる。
さすがにうざったそうに押しのけられたけどね。
「おまえなぁ……」
「なあに?」
「何しに来てるんだ?」
「あら、冷たい。好きな人に会いに来ちゃいけないのかしら?」
小首を傾げてさらりと言ってみる。
む、という顔で黙って目をそらすけど、少なからず動揺してるわね、これは。
好き、なんて言われたことも言ったこともないんだから、この人は。
「好きよ、春明」
ダメ押し。
何度か口を開きかけたけど、結局目を合わせないまま立ち上がった。
「……俺、もう風呂入って寝るから」
「あら、そう? じゃ、またねー」
消える瞬間、彼がまた何か言いかけたような気がした。

て、こんな風に遊んでばかりもいられないのよね。
彼の友達の記憶も消したし、あとは、バイトを辞める方向にいかせないと。
家族は――放っておいてもいいかも知れない。
春明が人に対して不器用なわけも、必要以上に他人と関わらないようにしているわけも、分かった。
両親の間にあった溝。弱すぎる母と、それを支えきれずに逃げた父。
すべてをその存在で支えていたのに、何も言わずに消えた姉。
壊れた時間。そこにいる意味を失った自分。
人とのつながりが簡単に壊れること、確かなものなんて何もないこと。
誰も、自分を必要としていない。
それが彼を縛る鎖だった。
信じたら裏切られる――自分も、他人も、信じない。
馬鹿よね、まったく。こんなせまい世界で、何を短絡してるんだか。
必要とされないし、必要としない、なんて、強がりにもなってないわ。
寂しい。そう言ってしまえば楽になるのに。
そこから目をそらして、ここにいたくないと言うなら、いなければいいわ。
あたしが連れ出してあげる。
ここから消してあげる。
あなたの――望みのままに。

「お先に、失礼します」
小さな声でそう言って、お疲れさま、と返してもらうと、ロッカーに向かって帰り支度をする。
この会社、小さいくせに制服なんてあるのよね。
ピンクのブラウスにグレーのベストとスカート。
似合わないと思ってるらしくて、いつも居心地悪そうに着ている。
せっかく背が高くてスタイルいいんだから、もっとシャンとしなさいよねー。
そりゃまあ、地味な顔だけど、結構可愛いんだから、笑顔の割合増やせばいいのよ。
春明は『化粧らしい化粧なんてしない』とか言ってたけど、仮にも社会人ですっぴんなわけないでしょうが。
あのバカオトコに分かるくらいしっかりメイクして驚かせてやればいいのに、いつもファンデーションと口紅だけ。
しょうがないわね、この娘も。
今日は叔父さんの店を手伝いに行くわけでもないんだから、呑みにくらい行けば?
ああでも、まっすぐ帰るのよねー、この娘ってば。
……あら?
何故か、自宅のある駅の手前で電車を降りる。
ここは、叔父さんの店があるところじゃない。手伝いに行く気かしら。
カラン、とドアについたカウベルが音をたてる。
カウンターにいた叔父さんが顔を上げて笑う。
「あれ、あっちゃん。今日も来たの?」
「……う、うん。忙しいかなー、と思って」
言いながら、コートを脱ぐ。全然ヒマみたいよ。他にお客さんいないじゃないの。
「いやあ、ありがたいけど、今ちょうどはけたところだよ」
「あ、そう、よね。ええと、じゃあ、お客さんになってもいいかしら?」
「どうぞどうぞ。なんにする?」
「んーと、……ココア、下さい」
「はい。少々お待ち下さい」
すまして受けた叔父さんが、意味ありげに笑う。
「……残念ながら、あれから来てないよ」
「えっ? な、何が?」
「素直じゃないねぇ。好みのタイプなら、あの場でオーケーしちゃえば良かったのに」
……どうでもいいけど、この叔父さん『好みのタイプ』とか『オーケー』とか……
言い方が古くさいのは、まあしょうがないわね。
「やだ、もう、そんなんじゃないのよ」
慌てて顔の前で手を振る。
そう、あたしが春明の前に現れたあの日。
彼は淳美さんが自分を忘れたとは思えなくて、この店まで来たんだった。
普通の客のふりをしてたけど、本当に自分に反応しない彼女に思わず『何時にあがる?』なんて
訊いちゃったもんだから、叔父さんもナンパだと思ったみたいなのよね。
「またまたぁ。いいじゃない、あっちゃんフリーなんでしょ?」
……『フリー』て……ああ、それはもういいわ。
とりあえず、この叔父さんも春明のことは知ってたから、忘れさせて正解だったわね。
「だから、違うのよ。……今日はヒマだったし……」
口ごもって俯く彼女にココアを出してやって、叔父さんもちょっと考えた顔になる。
「でもあの彼、あっちゃんになんか言いたそうだったよね。知り合いじゃなかったの?」
「……ううん。知らない、わ」
知らない。その言葉を言う前の一瞬の躊躇いは、叔父さんには伝わらなかったみたい。
そう、あなたは知ってるわよね。誰よりも、その存在は大きかったはず。
彼が抜け落ちた部分を、どう受け止めているのかしら。
この店に、また来ているかも知れない。また会えたら――。
残念ね。もう彼が来ることはないわ。
だからあなたも、もう楽になっていいのよ。
彼の顔色をうかがうことも、言葉を選んで飲み込むことも、しなくていいの。
あたしがいるから――彼は、あたしが連れて消えるから。
ぼんやりとココアのカップを包み込むように持つ彼女に笑いかけて、あたしはそこから消える。
あたしが見えるはずのない彼女が、一瞬こちらを振り返った。

今日は『目覚める』つもりはなかった。
バイトが休みで、誰と会うでもなく部屋にいる彼の前に現れたのは、彼女のあの瞳のせいかも知れない。
『知らないわ――』そう言った瞳は、悲しげに揺れていた。
彼女は、忘れていない。
あたしは春明の存在を閉じ込めさせることはできたけど、完全に消し去ることはできていない。
どこか、焦りを感じている自分がいた。
「……なんで、お前がそんな顔するんだよ」
あたしは、アツミ。
淳美さんの代わりに来たのよ。もう2人とも無駄に傷ついてほしくない。
彼女を自由にして、あなたの望みを叶えるのが、あたしのいる意味。
だから、これでいいの。あなたが彼女を忘れて、ここから消えればそれでいいの。
あたしは、あなたを解放して――あなたの関わる現実を奪うために、いるの。
『そんな顔』をしてるのは、あなたのほうよ。
責められている気がするの? ――だったら、あたしはうまくやってるのね。
「お前、淳美の代わりだって言ってたよな」
彼が初めて、あたしに笑いかける。なんて――悲しい笑み。
あたしは腕をつかまれ、引き寄せられるままに倒れた。
黙って覆い被さる彼の向こうに、天井がやけに白く明るく見えた。
見返す瞳の中に、一瞬凶暴な光が走る。
あたしの手首を押さえつける手に力がこもって、痛みに顔をしかめそうになる。
――そのまま、瞳を見つめ続けた。
彼の顔が苦しげにゆがむ。薄く開いた唇から、言葉は声にならない。
――あなたが呼んでいるのは、誰。
想いをぶつけたいのは、誰。
突然、彼が起き上がった。
あたしの手首に赤く痕が残るのを見て、彼のほうが痛みを感じているような顔になる。
そこから目をそらし、立ち上がって背中を向けた。
「――帰ってくれ」
そう言って部屋を出ていく。
――あなたが帰したいのは、誰?
逃げ出したいのは、求めているのは、誰なのかしら。
ふいに喉の奥から、笑いがこみ上げてきた。
あお向けに倒れたまま、こらえきれずに笑い出す。
さあ、これからよ。もっと傷ついて、迷えばいいわ。
自分が逃げていたことを今さら追いかけて、どうするつもりなの。
――許してなんて、あげない。
顔を覆った指の隙間から、涙が伝わって耳に流れ込む。
あたしは笑いながら、泣き続けていた。

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