目の前に、白く小さな手がある。
あたしの手。握り締めれば、指の先から体温と鼓動が伝わる。
――生きて、いるのだろうか。好きな時に眠って、好きな時に目覚める。
意識があるのは、ここにある自分だけ。眠ってしまえば、夢も見ない。
目覚めている間は、普通の人間のような気がする。
でも、あたしの声が聞こえるのは、あたしに触れられるのは、春明だけ。
あたしはものを食べない。水も飲まない。
この娘は、誰?
どこから来て、どこへ行くの?
眠る彼は夢を見ているらしい。
時々苦しげに体を動かす。
酸素を求めるように喘ぐ唇が、声にならない言葉をつむぐ。
彼を『閉じ込めて』どのくらいたつのだろう。
だんだんと眠っている時間を増やし、生きる気力を奪ってきた。
あと少し、日常を削り落として、そのまま連れて行けばいい。
――どこへ。
体は滅びて、この世界から彼は消える。そうして――あたしのいるべき場所へ。
「……く……」
かすかに瞼を震わせて、彼が口を開く。目覚める様子はなく、また眠りに引き摺り込まれていく。
その瞬間、あたしには聞こえた――”あつみ”。
いつの間にか握り締めていた手から力が抜ける。あたしは自分が笑っているのに気付いた。
やっと、見つけたね。本当に欲しいものを。
あなたは望んでなんかいない。すべてを失うことを。
生きて――ここにいるのが、あなたの望みなら。
その声が呼ぶ名前に気付いたなら。――それが、あたしがここにいる理由。
『――お前、あったかいんだな』
『そう?』
『うん。もっと冷たいかと思った』
『幽霊みたいなものだから、でしょ?』
『いや――分からないけど……生きてるよな』
『そうなのかなぁ。ま、どっちでもいいわ』
『……』
『なぁに?』
『このままお前が――』
『……え?』
『……なんでも、ない』
大丈夫。あたしは、あなたの望むものをあげるから。
この体が、想いが、消えても。
もう、大丈夫――。
ひさしぶりに、外に出てみた。
はぁっ、と息を吐いてみるけど、白く見えることはなかった。
この体は、この温もりは、ここにあるべきじゃないもの。
あたしはあたしのいる場所に、帰ればいいんだ。
一人で――ここから、消えよう。
春明――あたしには、あなたのほうがあたたかかった。
困ったような顔をする癖。言葉を選びながら揺れる瞳。
時々見せてくれる笑顔。低くかすれる声。あたしを抱き返す腕の、思いもかけない強さ。
迷って、悩んで、追い詰めた果てに見つけたものは、あなたのものだから。
その手で掴めるものが、きっとあるから。――生きて。
彼の部屋の明かりがにじんでいく。頬をすべる涙は、地面に落ちる前に消えた。
あなたが、好きよ。
誰よりも、好きよ――。
そろそろクリスマスが近い。
叔父さんの店も、街のイルミネーションを楽しむカップルで結構混んできた。
いつもなら、明日も仕事があるしもっと早めにあがるのだけど、
とても帰れる状態じゃなかったから、1時間くらい遅くなってしまった。
家に電話を入れて、私は駅までの道をゆっくりと歩く。
――今日も、来なかった。
やっぱり、知ってる人なんかじゃないのね。
何かを言おうとして言えないあの瞳を、見たことがあると思ったのは気のせいだったのね。
忘れよう。もう会うことなんてないんだから。
吐く息が白い。空気が、もう寒いと言うよりも冷たい。
髪を、伸ばそうかな。
就職してからずっと、ショートカットにしていた。
そのほうが似合うし、叔父さんの店を手伝うのにも、家を手伝うのにも便利だったから。
『長いのも、似合うんじゃないか』
ふいにそんな言葉が頭に響いて、思わず顔を上げる。
さんざん口ごもったあとで、決して目を合わせないで、放り投げるように言った言葉――。
いつ、誰に言われたのだろう。
思い出さないといけないような気がするのは、どうしてだろう。
顔を上げた私の目に、改札の横に立つ彼が映った。
思わず足を止める。黙ってこちらを見つめる彼との距離は、5メートル。
誰かを待っているのかしら。あの店に食事に来たくらいだから、やっぱりこの近くに住んでいるのかしら。
どうして、私を見つめているのかしら――。
凍りつくような空気の中、家路を急ぐ人達が改札に消えていく。
私と彼の間の5メートルの枠の中だけ、時間が止まっているようだった。
あなたは、誰。
――きっと、知ってる。その瞳を、そのしぐさを。
真っ直ぐに私を見つめていた瞳が、少しづつ和らぐ。
彼の顔に穏やかな笑みが広がるのを見て、寒さにこわばっていた頬が緩むのを感じた。
ずっと、こんなふうに、笑い合いたいと、思っていたの。
あなたの本当の笑顔が、私の一番欲しいものだったの。
彼が改札を離れ、こちらに歩いてくる。
1メートルくらいの距離に立って、逡巡するように瞳が揺れる。
何か言おうかと思った時、彼が口を開いた。
「――名前、訊いてもいいかな」
分かってた。
あなたが最初に言うのは、きっとこの言葉だって、私、知ってた。
だから。
「あつみ、です――」
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||