3. 出会い

目の前に、白く小さな手がある。
あたしの手。握り締めれば、指の先から体温と鼓動が伝わる。
――生きて、いるのだろうか。好きな時に眠って、好きな時に目覚める。
意識があるのは、ここにある自分だけ。眠ってしまえば、夢も見ない。
目覚めている間は、普通の人間のような気がする。
でも、あたしの声が聞こえるのは、あたしに触れられるのは、春明だけ。
あたしはものを食べない。水も飲まない。
この娘は、誰?
どこから来て、どこへ行くの?

眠る彼は夢を見ているらしい。
時々苦しげに体を動かす。
酸素を求めるように喘ぐ唇が、声にならない言葉をつむぐ。
彼を『閉じ込めて』どのくらいたつのだろう。
だんだんと眠っている時間を増やし、生きる気力を奪ってきた。
あと少し、日常を削り落として、そのまま連れて行けばいい。
――どこへ。
体は滅びて、この世界から彼は消える。そうして――あたしのいるべき場所へ。
「……く……」
かすかに瞼を震わせて、彼が口を開く。目覚める様子はなく、また眠りに引き摺り込まれていく。
その瞬間、あたしには聞こえた――”あつみ”。
いつの間にか握り締めていた手から力が抜ける。あたしは自分が笑っているのに気付いた。
やっと、見つけたね。本当に欲しいものを。
あなたは望んでなんかいない。すべてを失うことを。
生きて――ここにいるのが、あなたの望みなら。
その声が呼ぶ名前に気付いたなら。――それが、あたしがここにいる理由。


『――お前、あったかいんだな』

『そう?』

『うん。もっと冷たいかと思った』
『幽霊みたいなものだから、でしょ?』

『いや――分からないけど……生きてるよな』
『そうなのかなぁ。ま、どっちでもいいわ』

『……』

『なぁに?』

『このままお前が――』

『……え?』

『……なんでも、ない』

大丈夫。あたしは、あなたの望むものをあげるから。
この体が、想いが、消えても。
もう、大丈夫――。

ひさしぶりに、外に出てみた。
はぁっ、と息を吐いてみるけど、白く見えることはなかった。
この体は、この温もりは、ここにあるべきじゃないもの。
あたしはあたしのいる場所に、帰ればいいんだ。
一人で――ここから、消えよう。
春明――あたしには、あなたのほうがあたたかかった。
困ったような顔をする癖。言葉を選びながら揺れる瞳。
時々見せてくれる笑顔。低くかすれる声。あたしを抱き返す腕の、思いもかけない強さ。
迷って、悩んで、追い詰めた果てに見つけたものは、あなたのものだから。
その手で掴めるものが、きっとあるから。――生きて。
彼の部屋の明かりがにじんでいく。頬をすべる涙は、地面に落ちる前に消えた。
あなたが、好きよ。
誰よりも、好きよ――。

そろそろクリスマスが近い。
叔父さんの店も、街のイルミネーションを楽しむカップルで結構混んできた。
いつもなら、明日も仕事があるしもっと早めにあがるのだけど、
とても帰れる状態じゃなかったから、1時間くらい遅くなってしまった。
家に電話を入れて、私は駅までの道をゆっくりと歩く。
――今日も、来なかった。
やっぱり、知ってる人なんかじゃないのね。
何かを言おうとして言えないあの瞳を、見たことがあると思ったのは気のせいだったのね。
忘れよう。もう会うことなんてないんだから。
吐く息が白い。空気が、もう寒いと言うよりも冷たい。
髪を、伸ばそうかな。
就職してからずっと、ショートカットにしていた。
そのほうが似合うし、叔父さんの店を手伝うのにも、家を手伝うのにも便利だったから。
『長いのも、似合うんじゃないか』
ふいにそんな言葉が頭に響いて、思わず顔を上げる。
さんざん口ごもったあとで、決して目を合わせないで、放り投げるように言った言葉――。
いつ、誰に言われたのだろう。
思い出さないといけないような気がするのは、どうしてだろう。

顔を上げた私の目に、改札の横に立つ彼が映った。
思わず足を止める。黙ってこちらを見つめる彼との距離は、5メートル。
誰かを待っているのかしら。あの店に食事に来たくらいだから、やっぱりこの近くに住んでいるのかしら。
どうして、私を見つめているのかしら――。
凍りつくような空気の中、家路を急ぐ人達が改札に消えていく。
私と彼の間の5メートルの枠の中だけ、時間が止まっているようだった。
あなたは、誰。
――きっと、知ってる。その瞳を、そのしぐさを。
真っ直ぐに私を見つめていた瞳が、少しづつ和らぐ。
彼の顔に穏やかな笑みが広がるのを見て、寒さにこわばっていた頬が緩むのを感じた。
ずっと、こんなふうに、笑い合いたいと、思っていたの。
あなたの本当の笑顔が、私の一番欲しいものだったの。
彼が改札を離れ、こちらに歩いてくる。
1メートルくらいの距離に立って、逡巡するように瞳が揺れる。
何か言おうかと思った時、彼が口を開いた。
「――名前、訊いてもいいかな」
分かってた。
あなたが最初に言うのは、きっとこの言葉だって、私、知ってた。
だから。
「あつみ、です――」

〜fin〜



あと書き(というより言い訳)はこちらです。
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