1. 存在

「そう言えば、名前訊いてなかった」
彼が最初に口にしたのは、その言葉だった。
友達に誘われて参加した合コンで、周囲のノリについていけない私は、ナナメ前に座った彼をぼんやりと見ていた。
自分からはほとんど話をしない。時々話題を振られて、いかにも面倒くさそうに相槌を打つだけ。
彼を誘った友達は、きっと後悔しているだろう。私の友達と同じように。
そんなことを考えて思わず笑いを漏らすと、彼と目が合った。
さりげなく視線をそらすべきか一瞬迷って、思い切って笑いかけてみた。
困ったような表情を浮かべて軽く会釈をした彼を、もう少し知りたいと思ったのは何故だろう。
帰り道、なりゆきで送って行ってもらう途中で、彼が最初のセリフを言った。
そう、私もまだ彼の名前を知らなかった。正確に言うと、みんなが自己紹介をしたのに覚えていなかったのだ。
私も一応名前を言ったはずだけれど、彼も覚えていなかったらしい。
また、笑いがこぼれる。
どうして笑うのかという顔をする彼に、私も最初の言葉を口にする。
「淳美です。中田、淳美――」

あの夜から半年。
彼――春明とは毎週のように会っている。
恋人として付き合っているのか自信はないけれど、電話をしても会いに行っても、嫌な顔はされない。
出会ったばかりの頃は、電話をくれたりしたこともあった。
でも、私の家は商売をやっていて――つまり、いつでも父が電話に出るので、
頭が古いというか、娘が男の子と付き合うことに免疫のない父は、露骨に春明に憮然とした態度をとる。
それを乗り越えてまで連絡をしてほしいと言えるほど、彼との距離は近くなかった。
自然、一人暮らしをする春明のところに私から連絡することが増え、会うのも彼の部屋がほとんどになった。
別に隠しているわけでもない――けど、堂々と紹介できる位置にはいない、彼。
ケンカをすることもないし、一緒にいれば笑って話もできる。
なのに、私と彼の間には、どうしようもなく冷たい壁があるようだった。
いつも本当のことは言わない。私も、一番訊きたいことは訊けない。
笑い合っても、触れ合っても、彼の中には入れない。
その唇が閉ざされることが怖くて、遠くを見る横顔に気付くことが怖くて、私は言葉を捜す。
そうして、言葉は彼の周りを通り過ぎて行く。
いつも。
彼が見せない内側には、凍りついた時間が見える気がして、私はそこから逃げる。
一緒にいて楽な相手。その位置にいることしかできなかった。
彼の行き先にも、本当の声にも、関心のないふりをして。
それでも体のことや食事のことは心配でつい口を出すと、彼はうんざりした顔になる。
だから、そこから先は言えない。
『もう会わない』そう言われるのが怖くて。
飲み込んだ言葉は私の中で回り続ける――『何があなたを苦しめているの。私にできることはないの。
どうすれば笑っていてくれるの。あなたは私に何を望むの。あなたは――私が、嫌い、ですか』
――いつか、ひとりの夜に涙になって流れるまで、溢れそうな言葉は行き場を無くす。
空が白む気配に目を開けて、私は息を詰めて、眠る彼の隣からすべり降りた。

彼女が部屋を出て行く。
いつものように、きちんとカギをかけて。
明け方のキンと冷えた空気に身を竦めるようにして、駅への道を急ぐ。
寒いみたいね。吐く息が白い。
でも、あたしはなんともないけど。
大丈夫。あたしなら強いから。もうあなたも彼も、これ以上傷つかなくていいわ。
あともう少し。駅についたら、みんな忘れさせてあげる。
もう、泣かなくていいよ。

さぁて、問題はこいつよね。
ガラス窓の前に立つと、中で起き出す気配がした。
しばらくすると、物音が聞こえ始める。
やっぱりね。彼女が気になるくせに。
しょうがないな。ちょっとびっくりするかも知れないけど、ストレートに行きますか。
コン、コン、と窓を叩いてみる。しばらくの間。こっちを伺う気配。
また、叩く。立ち上がる影が映る。窓が開いて、彼が姿を見せた。
起きぬけの、ちょっと乱れた髪。薄赤い目は、彼も熟睡してなかった証拠ね。
見慣れたスウェットにパーカーを羽織って、軽く口を開けてあたしを見つめてる。
まあそりゃ、驚くでしょう。
「やっぱり、起きてたね」
余裕の笑み。小首をかしげて。耳の横でまっすぐな髪がさらりと音をたてる。
ほらね、結構好みのタイプでしょ?
どういうわけかこの季節に、半袖のワンピースなんか着ちゃってるんだけど。
あらやだ、裸足じゃないのよ、あたし。
「とりあえず中に入れてくれないかなぁ」
でないと話もできないし、いくら他人から見えないし寒さも感じないったって、このままここにいたくはないわ。
「ああ、寒いよな。今玄関開けるから――」
そうこなくちゃね。あたしはあなたの望みを叶えるために来たんだから。

一応自己紹介もしたし、淳美さんの代わりに来たってことも話したんだけど、
この人なんか信じてくれないみたい。
そりゃそうか。いきなりそんなの信じろってほうが無理よねぇ。
でも、本当なんだからしょうがないわ。
あたしは、アツミ。
あなたの望む形で存在するもの。
だから、もう大丈夫――。
「思い出させてあげるわ――春明」
怪訝そうな表情は変わらないけれど、眉にかかる影が濃さを増す。
どうして俺の名前を知ってるんだ――そんな顔ね。
ね?あたしにはなんでも分かるのよ。
あなたには分からなくても。
もう少し眠ったほうがいいわね。オヤスミナサイ――。
彼の体がぐらりと傾ぐ。慌てて腕を掴むと、そのままあたしのほうに倒れてきた。
「う、きゃっ」
あたしごとベッドに横向きにもたれた彼から寝息が聞こえる。
へえ、面白い。こんなこともできるんだ。
あたしは、あなたの望むもの。そして、あなたもあたしの為だけに存在するのよ――これからは。
曖昧で都合のいい存在でなんか、もういてあげない。
あなたを煩わせる他人も、外の世界も、もういらない。
あたしがいるわ――ずっと。
眠る彼の頬に触れる。動かない瞼に軽く唇を寄せる。
「あなたが、好きよ――」
囁く声も届かない。それでもあたしの中に、ゆっくりと満たされる気持ちが広がる。
もう大丈夫。待っていてね。急がないから。
今あなたに関わる現実を少しづつ殺ぎ落として、本当に望むものだけの世界にしてあげる。
もう何もつらいことなんかないわ。
あなたには、あたしだけがいれば、それでいい――。

ああもう、どうしてこんなに重いのかしらね。
この人結構痩せてるほうなのに、ベッドに上げるだけでもうぐったりよ。
あのままほうっておこうかとも思ったけど、やっぱり寒いし、自然に目を覚ましたほうが
あたしの存在ってミステリアスじゃない?
もうしばらく謎めいたままでいたいしね。なんて。
何もなかったような顔でぐっすり眠ってる。
これから何が起こるのかなんて、予想もつかないわよね。
さあて、あたしも『眠る』としようかな。
まず、彼女から彼の記憶は消したし、あとは、彼女のことを知ってる友達ね。
まあ、あんまりいないけど、とりあえず忘れてもらおうかな。
そのうち他のお友達とか、家族からも、彼を消さないと。
もう必要ないものね。あたしがいるんだから。
オヤスミナサイ、ヨイユメヲ――。
眠る彼に笑いかけて、あたしは消えた――。

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