truth 〜もうひとつの決心〜 |
![]() |
2.
目の前のテーブルに、湯気の立つコーヒーが置かれた。
ソファに座ったまま動かない僕に、倫の母親がためらいがちに
「どうぞ」
と勧めてくれる。
「……いただきます」
ブラックのままで一口飲んで、それでも飲み下せない何かが喉の奥に詰まった感じがしていた。
どういうことだ、俺が分からないのか? ――自分のことも?
いつからだ。医者はなんて言ってた。
問い詰める僕をぼんやりと見上げた倫は『ごめんなさい――疲れちゃった』と言って横になった。
その肩をつかんで揺り起こしたい衝動を押さえて廊下に出た僕に、倫の母親が黙って頭を下げた。
そうして、僕は居間に通されてカップを手にしている。
「……熱のせいですか?」
両手でカップを包むように持って、床に目を落としたままで僕は訊いた。
「――ええ。40度を越す熱が3日続いて……その間ほとんど意識がなかったんです。
意識が戻ってからも、どこかぼんやりとして――私を見て『誰?』って」
「病院では、なんと?」
「高熱による一過性の記憶障害――ということでした。普段の生活には支障はないんです。
自分の身の回りのことだとか、一般常識には問題なくて。ただ――自分とまわりの人が分からない、と」
「……一過性、なんですか」
「おそらくは、そうだろうということです。多少脳波に乱れはあるけれど、大きな障害はないそうで――。
だから、時期がくれば全部思い出す可能性が高い……と言われました」
「……すみません、来るのが遅くなって」
「――いえ。私も、あの子の意識が戻った時に何度も訊いたんです。藍田さんに連絡しようかって。
でも、誰にも会いたくない、誰のことも分からないから怖いって言うばかりで」
事実、友達や親戚が駆けつけてくれたりもしたらしい。
矢部の奥さんも、たまたま用事があって電話して、倫が入院していたことを知って見舞いに来てくれた。
けれど、まだ体調が戻らないからと言って会おうとしなかったそうだ。
「藍田さんに会ったら、何か思い出すかも知れないと思ったんです。
そろそろ体調も落ち着いて来たし――少し疲れやすいですけど――
あの子には黙って連絡させていただこうかと思っていたところで」
「……あまり、役には立てなかったようですけど」
僕が苦笑すると、倫の母親は慌てて首を横に振った。
「とんでもない! あの子が自分から部屋に入らせたのは藍田さんだけですよ。
私が中に入っても、不安そうな顔で黙っているんですから」
半分泣きそうな顔で笑う。――倫と、このお母さんはずっと2人で暮らしてきた。
まるで姉妹か親友のように仲が良くて――いつだったか、こんなことを冗談めかして言っていた。
『私をお嫁に貰う時は、お母さんも一緒に貰ってね』
その倫の台詞に、お母さんのほうは困ったように笑っていた。
『いやよそんなの。やっと1人でのんびりできるんだから』
『あー、ひどい! せっかく娘が親孝行しようって言うのに、ねぇ?』
『俺もお母さんと一緒のほうがいいな。うまいメシが食えるし』
『何それー! 瑞輝までそういうこと言う?』
――あんなふうに笑っていたのは、ほんの半年前だ。
なんて、遠いんだろう。あの笑顔が。
「時々、会いに来てもいいですか?」
「――ご迷惑じゃないでしょうか」
きっと、倫が僕のことを思い出せなかった時のことを言ってるんだろう。
僕はこの人を少しでも安心させたくて、やっと笑顔を作った。
「まさか。大丈夫、体が回復したらすぐ思い出しますよ。できるだけ来るようにします。
今度、医師と話す時に俺も一緒に行かせて下さい」
――もし、この家に父親がいたなら。僕の立場はもう少し変わっていただろう。
でも僕はいつの間にか、倫とその母親を守るべき位置に自分がいたことに今さらながら気付いた。
「倫、ほら、こっち」
僕が声をかけると、不安げにまわりを見渡していた倫が気付いて駆け寄って来た。
海沿いの公園。
よく2人で遊びに来る、倫のお気に入りの場所だった。
――あれから僕は毎日のように倫の家に寄り、あたりさわりのない話をして帰った。
自分の名前が『倫』で僕が『瑞輝』あの人が『お母さん』。
小さい子供に言い聞かせるように、ゆっくりと距離を縮めていった。
学校は休学して、まわりのごく親しい人には倫の記憶が戻らないことを話した。
一度、子供の頃から仲良くしている友達が家に来て、たまたま一緒にいた僕の判断で
事情を話して――泣かれてしまった。
自分のことを忘れられてしまっているショックと、倫を心配して泣く友達に、
倫が『ごめんね』と言った。
僕と母親以外に口をきいたのは、これが初めてだった。
それから少しづつ倫の表情が戻り、11月の声を聞く頃、漸く笑うようになった。
久しぶりに来たこの公園で、海を見た倫の顔が輝いたことに、僕は少なからずほっとする。
――友達より、母親より、僕を頼る、倫。
どうして君は、記憶を失くしても変わらずに僕に真っ直ぐ向かって来るんだろう。
「寒いだろ。車に戻るか?」
「――ううん。もう少しいたい」
笑って、僕の腕につかまる――変わらない、何も。
「瑞輝」
「ん?」
「……瑞輝」
「何だよ?」
「――なんでも、ない」
その笑顔が少し硬いことに、僕は気付いていた。
「帰りになんかうまいもん食ってこう。何がいい?」
「んー……中華!」
「やっぱりな。おまえはいつも……」
言いかけて黙る。
倫に何を食べたいか訊くと、十中八九返ってくるのが『中華』だ。
飽きるほど繰り返したこのやりとりを、倫は覚えていない。
「あー……そっか、中華ね。どこの店がいいかな――」
振り返った僕は、倫の真っ直ぐな瞳に見据えられる。
あの瞳だ。僕を通り越して向こうの壁を見ていた瞳。
「……倫?」
「その前に、お茶飲みたい。おいしいケーキが食べれるとこ」
にっこり笑った倫から、あの瞳の色は消えていた。
僕の腕につかまっていた手を滑らせて、指を絡ませる。
僕達がどういう関係だったか、今の倫には話していない。
ただ、家に来て話をして行くこの年上の男に、倫は何を感じているのだろう。
いつの間にか自然に僕に触れるこの手は、何を受け止めているのだろう。
指を絡めた倫の手を、僕は強く握り返した。
顔を上げた倫が、小さく笑う。
それはあの頃と同じ無邪気さを持った笑顔で。
見つめる瞳に引き込まれて、僕も知らず微笑んでいた。
日曜日の学校は、普段の喧騒を飲み込んでひっそりと佇んでいた。
倫の通っている学校。
何かのきっかけになってくれないだろうかと思いながら、
僕の休日にこうして倫の通って来た道を辿るのが習慣になっている。
けれど、ほんの2ヶ月前まで通っていた校舎を見上げた倫の表情は変わらない。
僕は少しの落胆と――安堵とを胸の中でかき混ぜて、倫を促してそこから歩き出そうとした。
「――崎原!」
突然かけられた声のほうを見ると、20歳くらいの男が駆け寄ってくるところだった。
「どうしたんだよ、休学するなんて。体はもういいのか? みんな心配してるぞ」
真っ直ぐに倫に向かって来た彼が、立て続けに言葉をかける。
困った顔をした倫が、黙って僕の影に隠れるしぐさをした。
「……崎原?」
「――君は、倫の友達?」
「え?」
僕の存在に初めて気付いたというように、彼が顔を上げる。
その視線の鋭さに、胸の奥がざわつく感じがした。
「――そうです。同じクラスの橋本っていいます。……お兄さんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……」
僕の影に隠れた倫が、上着の背中にしがみつく。
橋本という青年が僕を見る視線が、さらにきつくなった気がした。
「……えーと、今ちょっと、まだ本調子じゃないんだ」
「外出して大丈夫なんですか?」
「ああ、うん。それは……体のほうはだいぶいいんだけど」
仕方ない。会ってしまったのに黙っている訳にもいかないだろう。
「一応、他の子達には黙っててくれるかな。余計な心配かけたくないし、一時的なものだと思うから」
「……何なんですか、いったい」
「何も、覚えてないらしいんだよ」
「は?」
「だから、自分のことも、友達のことも。つまり――記憶喪失というか」
「ええ!?」
驚いた声を上げた橋本が、僕の後ろに回り込む。
倫はますます体を堅くして僕にしがみついた。
「崎原、俺だよ、京だって。分からないのか? ほんとに?」
「――ごめん、ちょっとまだ無理だと思う。もう少し待ってくれないかな」
彼のほうを見ようともせずに僕にしがみつく倫を見て、橋本の表情が歪んだ。
「……分かりました。崎原、俺待ってるから。思い出してくれよな――俺のこと」
すべての想いをこめたような瞳で倫を見つめる橋本と、
微かに顔を上げた倫の視線が合うのが、分かった。
![]() |
![]() |
![]() |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||