truth 〜もうひとつの決心〜 | ![]() |
1.
僕が言った言葉は助手席のリアウィンドウにぶつかって、そのまま彼女の膝の上に落ちた。
透明なかたまりになった言葉が、そうしていれば形が変わるかも知れないというように、
彼女は薄い生地のスカートに包まれた膝を見つめて黙っていた。
「……今、なんて言ったの?」
「だから」
僕は前を向いたまま、ハンドルに両手をかけて、もう一度口を開く。
「……もう、会うのはよそう」
どうして、だとか、そんなのイヤ、だとか、予想していた答えは返ってこなかった。
まるでそれが初めて聞く外国語のように、噛みしめて飲み込もうとしている。
倫と出会って、恋人として付き合うようになって、1年が過ぎていた。
ただ、一緒に過ごす時間が楽しくて、夢中で交わす言葉は尽きなかった。
僕より8つ年下の、19歳になったばかりの倫。
無邪気とも言える笑顔や、素直な自分を出せる力に僕は惹かれていった。
いつの頃からか――その真っ直ぐさが、時に痛みを伴うようになるとは思わずに。
ささいなすれ違いや言葉の綾に、ひとつひとつ答えを出すことに僕は疲れていたのかも知れない。
2週間ぶりに会って、僕の車でドライブに出かけて、倫の家の近くの路肩に車を停めて。
やっとのことで切り出した言葉に、ステレオを止めた車内の空気は重さを増した。
「――いろいろ考えたけど、俺、やっぱり」
「……うん。分かった」
俯いていた顔を上げて、倫が笑顔を見せた。
僕の動きを封じ込めるだけの力を持って。
「――瑞輝が、私といてつらいのは分かってた。だから、しばらく私からは電話しなかったけど……。
そんなに、つらくさせてたんだね。ごめんね」
「いや、そうじゃなくて……おまえが悪いんじゃなくて」
「ううん。いいの。私、きっと瑞輝に無理させてた。だから、いいの」
『いいの』そう言えば本当にそれでいいと思える呪文のように、繰り返す。
もう俯くまいと、顔を上げた倫の瞳が揺れていた。
僕はその瞳の中に、これから先の2人の正しい答えが見つかるような気がして目を凝らす。
視線を合わせないまま、涙をこぼさないまま、倫が微笑んだ。
「……瑞輝」
「――うん?」
「手、つないでくれる? ――少しの間だけ」
しばらくためらったあとで、僕は倫の華奢な右手を取った。
――あの日と同じ、冷たい手をしていた。
倫は、僕の会社の同僚の、奥さんの後輩だった。
彼らの家に集まった時に初めて会って、不思議と気が合って、互いに連絡するようになって。
何度目かに2人で会った帰り道、僕はこうして倫の手を握った。
冷たい手だね――そう言った僕に、冷え症なの、と笑った。
僕がふと足を止めて、見上げる倫と視線が絡んで――そこから、始まった。
不器用なほどに真っ直ぐで、放っておけなくて。
その笑顔が愛しくて、何よりも守りたいと思った。
――そう、思ったんだ。
バタッ、という音に我に返ると、フロントガラスに大粒の水滴が落ちていた。
見る間にその数を増し、車の屋根やガラスを激しい雨が叩き始める。
「……ありがとう。ごめんね。じゃあ」
雨の音に急かされるように、倫がつないだ手をほどく。
僕は思わず、逃げて行く手を追いかけて引き寄せた。
泣き出しそうに揺れる瞳を見つめる。もう一度、答えを探して。
「俺……分からなくなった」
「え? ……何が?」
「このまま会わなくていいのか。――ほんとにそれでいいのか」
「言わないで」
「倫」
「そんなこと言われたら、また会えると思っちゃうから――言ったらダメ」
笑って僕の手をほどくと、車のドアロックを外す。
「――少し、時間をくれないか。……考えさせてくれ。ごめん」
口をついて出た自分の言葉に戸惑う僕と、ほんのひと時視線を合わせてドアを開ける。
「あ、おい、雨――」
駆け出した倫の背中が数件先の自宅の門の中に消えるのを確かめて、
それでもしばらく僕はそこから動けなかった。
『セプテンバー・バレンタイン、て知ってる?』
……9月のバレンタイン? と訊いた僕に、そのままじゃない、と笑った。
9月14日。その日はね、女の子から別れを告げる日なんだって。
なんでそんな日があるんだよ? ――それを言ったら2月のバレンタインだって、なんで、でしょ?
あの雨の日は、9月14日だった。
どうして、1ヶ月近くも経った今になってそんなことを思い出すんだろう。
あれから一度も、倫とは連絡を取っていない。
時間をくれ、と言ったのは僕だ。だから、もう一度会いたいのなら、僕から言い出すべきなんだ。
――分からなくなった。
倫の笑った顔や、ふとしたしぐさ、交わした言葉は、僕の中から消えない。
けれど、何もなかったように仕事に行き、人と話し、倫のいない日々を送っていると、
このまま時間が過ぎても何も変わらないような気もしてくる。
――このまま、会えないとしても。
「お先に」
帰り支度を終えた僕は、まだ机に向かっていた矢部に声をかける。
「ああ、お疲れ――倫ちゃん、具合どうだ?」
「――え?」
いきなり後ろから襟首をつかまれた気がした。
倫は、もとはと言えばこの矢部の奥さんの後輩だ。
だから、倫の近況を知っていても不思議はない――けれど。
「……具合って……どうかしたのか?」
「はあ? 何言ってんだよ、大変だったじゃないか」
「いや、悪い。俺この頃忙しくて……会ってないんだ」
別れたんだ。そう言ってしまえば簡単だけど、そう言えるだけのものは何もなかった。
「マジかよ。……半月くらい前かな、肺炎起こして入院したっていうぞ。
うちのヤツが倫ちゃんのとこに電話した時は、もう退院してたけど。
なんか、えらい高い熱が出て、ちょっと危なかったらしいじゃないか」
……全然知らなかった。当たり前だけど。
「それで、今は? 治ったのか?」
「……俺はそれをおまえに訊こうと思ったんだよ」
肺炎。風邪をこじらせたんだろうか。
高い熱って、どのくらい出たんだろう。もう、元気になったんだろうか。
「おい、藍田、大丈夫か?」
「……え……?」
「真っ青だぞ」
僕は自分の顔を擦って、鞄を持ち直した。
「……知らなかった。帰りに、寄ってみる」
「そうしろよ。……ったく、見舞いにも行かねぇで。捨てられちまうぞ」
そうかもな。
僕は苦笑して、片手を挙げると倫の家に向かうべく会社を出た。
これが、ひとつのきっかけかも知れない。
もう一度会うべきだと、誰かが出した答えかも知れない。
玄関を開けた倫の母親に、僕はぎこちなく会釈をした。
「藍田さん――」
「すみません、ご無沙汰して。……あの、倫さんの具合は」
「……どうぞお上がりになって」
倫の家は、母親と2人暮らしだ。
お父さんは、倫が小さい頃に出て行ったきりだと聞いている。
僕はその小さな家の階段を上がり、何度か訪れた倫の部屋のドアを叩いた。
「はい?」
思いのほか明るい声に、詰めていた息を吐く。
「……俺。ごめん、遅くなって」
「どなたですか?」
――怒っているんだろうか。
「俺だよ、瑞輝。具合どうかな、と思って」
ドアが細めに開いて、倫が顔を出す。
少し痩せたような気がするけど、顔色は悪くなかった。
「――肺炎起こしたって? ……ごめんな、知らなくて。もういいのか?」
倫が僕を見上げる。
けれどその視線は、僕を通り越して反対側の壁を見ているようだった。
「――倫?」
「どうぞ」
促されて部屋に入り、ベッドの脇に座る。
「いつ退院したんだ? 学校にはもう行けるのか?」
倫は専門学校に通っている。まだ2学期の途中のはずだ。
「――あの」
「ん?」
「……ごめんなさい、どなたですか?」
「……え?」
「ごめんなさい。私、分からないんです。あなたが誰なのか――自分が誰なのか」
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