5.
ここから三つ目の駅が、僕の実家と夏菜の家がある場所だ。どうしてここに――と思って気が付いた。
予備校だ。
受験生の夏菜は、夏期講習の後も予備校で講義を受けている。ちょうど授業の終る時間になることを、思い出した。
「何ボケてんのよ! あれ彼女でしょ?」
小枝子が僕の上着の袖を引いた。
そんなしぐさも、夏菜には親しみをこめた様子に映るかも知れない。
とっくに青に変わった信号を、大勢の人が渡って行く。
夏菜も、僕も、動けずにいた。
「ちょっと、何か誤解してるんじゃないの? 私はもう行くからね。ちゃんと説明しなさいよ」
早口に言った小枝子が点滅し始めた信号を渡ろうとした途端、駅とは反対のほうへ夏菜が駆け出した。
一緒にいた子達が、目を丸くしている。
「あ、ねえ、あの子――」
僕は小枝子に何も言わず、夏菜の後を追って走り出した。
車の切れ目を縫って、信号のない道を横切る。
クラクションを鳴らされる。道を歩く人が振り返る。
最近運動らしいことなんてしていなかったけれど、どうにか夏菜に追いつくことはできた。
「――夏菜!」
「……ご、めん、なさ……」
「何、謝ってんだよ、なんか、誤解してないか」
息を整える間、僕は夏菜の腕をつかんで道の端に寄った。
もう、小枝子の姿も夏菜の友達の姿も見えない。
小枝子は別にいいけど、夏菜の友達は驚いたろうな。
こんな年のいった『彼氏』だなんて、みっともないかも――。
ぼんやりと頭に浮かんだ考えに、心底情けなくなる。
「あの人――」
「え?」
「やっぱり、ケンちゃんの――」
「違うって言ってんだろ。今日はこっちの事務所に用事があって、たまたま一緒に出てきたんだよ」
嘘じゃない。
けれど、あの瞬間に二人で交わした笑みは、夏菜を不安にさせるだけのものを伝えていた。
僕は俯く夏菜の腕を引いて、駅に向かって歩き出した。
「……ケンちゃん?」
「行こう。送ってく」
「帰るの?」
「ああ。もう遅いだろ」
「イヤ」
「……夏菜」
「イヤ」
首を横に振って、僕の手を振りほどこうとする。すれ違う人のいぶかしげな視線に、僕は舌打ちをした。
「じゃあどうすんだよ。どこに行く気だ」
「……」
「一人でこの辺うろついてる気か?」
「……だっ……て」
目をそらした夏菜が、下唇を噛み締める。
揺れる瞳から涙がこぼれ落ちそうなのを目にして、吐き出しかけたため息を呑み込んだ。
「……分かったよ」
そう言うと、つかんだ夏菜の腕を強引に引いて歩く。
「え、ちょっと、ケンちゃん」
「ちゃんと話そう。あとで家に電話しろ。俺に会ったから一緒にメシ食って送ってもらうからって」
そのまま駅に向かい、自分の部屋までの切符を二枚買う。
夏菜の手に切符を一枚押し付けて改札を通り、黙ったまま電車に乗った。
そろそろ暖房が必要な季節だ。思えば去年の今頃、僕は家を出ることに決めて準備に忙しかった。
引っ越すことを告げた時の、心細そうな夏菜の瞳が蘇る。
あれから僕は、夏菜が心の底から安心できるものを与えてやれたんだろうか。
却って――不安で寂しい思いばかり、させているんじゃないだろうか。
一日中火の気がなかった部屋のエアコンをつけて、台所で簡単にインスタントラーメンを作る。
「ほら、食え。夕飯まだなんだろ」
小さくイヤイヤをした夏菜の頭を小突く。
「食えっての。言っとくけど、かんっぜんに誤解だからな」
有無を言わせず箸を差し出す。しぶしぶといった感じで箸を受け取った夏菜が、ゆっくりと食べ始めた。
とりあえずは安心して、僕も箸を取る。しばらく黙ってラーメンをすする音だけが聞こえた。
僕と一緒にいることは、叔母さんに電話して伝えてある。だから、なるべく早く家に帰さないと。
――夏菜が不安になるのは、小枝子のことだけじゃないと分かっていた。
僕が踏み出せない一歩が、二人の距離を遠ざけているからだ。何も、確かなものを与えてやれていないからだ。
先に食べ終わった僕が煙草を吸いながらそんなことを考えていると、
三分の一ほどを残した夏菜がどんぶりを片付けに台所に行った。
なかなか戻って来ないので見に行くと、流し台にもたれてぼんやりと窓の外を眺めている。
何を考えているんだろう。
ちゃんと話そうと言ったのは僕だ。けれど、夏菜が考えていることも、きちんと聞いてやったことがあるだろうか。
夏菜が本当に思っていることを、分かってやれているんだろうか。
「……夏菜」
返事はない。
「なあ、寒いだろ。こっち来て話そう。な」
「……今日は、帰る」
「え?」
「ごめんね」
「おい、夏菜」
そのまま玄関に向かおうとした夏菜の肩を、慌ててつかまえる。
「おまえ、何――」
僕からそむけようとする顔を、無理に仰向かせた瞳は、涙でいっぱいだった。
何か言おうとして、笑顔を作ろうとして失敗した夏菜の頬に、涙がこぼれ落ちる。
僕は黙って夏菜の腕を引き、部屋に入って座らせた。
「どうしたんだよ、いったい。――小枝子とは本当になんでも……」
「……サエコ?」
「ああ、うん、藤村さんか。……同期の仲間だからさ、みんなそう呼ぶんだよ」
嘘だ。
僕が小枝子を呼び捨てにするようになったのは、あの夜からだった。
二人だけの時に限られているけれど。
「……付き合ってたんでしょ?」
「違うって」
「いいの。分かるもん」
「何が分かるんだよ――分かるわけねぇだろ」
夏菜を心配していた小枝子の横顔が浮かぶ。
――何も、後ろめたいことなんかないんだ。
あの時は互いに決まった相手もいなかったし、どちらかが無理をしてそうなったわけでもない。
友達としての信頼が、少しズレただけのことだ。
僕は小枝子を大事に思っている。夏菜への気持ちとは別に、守りたいものは他にもある。
ふいに、荒々しい感情が吹き上げてきて、僕は唇を噛んだ。
「おまえに、分かるわけがないんだ」
「何、それ――」
夏菜があきらかに傷付いた瞳を上げる。それでも、僕は止められなかった。
「俺にだって、おまえ以外に大事なものがあるんだよ。友達だって、仕事だって。
一日中おまえのこと考えていられるほど暇じゃないし、無責任にもなれないんだよ」
「な、んで――」
夏菜の涙は止まっていた。凍りついたように僕を見上げるその顔が、みるみる青ざめていく。
「あたしのせいで、ケンちゃんは友達も仕事も犠牲にしてるの? あたしが暇で無責任なの?」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
いや、言ってる。
僕は間違いなく、夏菜を責めている。
甘えるように『会いたい』と言うことはあっても、夏菜が僕に無理を言うことはなかった。
仕事だと言えば、じゃあまたね、と笑って言ってくれた。
それが、夏菜にとってどれほどの負担だったか。本当ならもっと頻繁に会って、楽しい時間を過ごしたいはずなのに。
――僕が、夏菜と同じ年頃の学生なら。
叔父さん達への負い目もなく、平気で夏菜をこの部屋に連れて来られるなら。
「やっぱ……ダメか」
「……何が」
「俺らさ、やっぱ、一緒にいるのは――無理だよ」
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