4.
良がイギリスに発つ日は、10月半ばの晴れた土曜日だった。
僕は車で実家まで迎えに行き、母や叔父夫婦に見送られて出て来た良を後部座席に、 夏菜を助手席に乗せて空港へ向かった。
搭乗手続きを済ませて、出発ロビーで時間を潰す。
『男の子はみんな出てっちゃうのね』としみじみ呟いた母と、それ以上に寂しそうに見えた叔父夫婦の顔を思い出す。
それにしても、この三人で揃って顔をつき合わせるのなんていつ以来だろうと考えていると、夏菜が席を立った。
「あたし、飲み物買ってくるね。何がいい?」
「ああ、んじゃ――コーヒー。ブラックでいい」
僕がそう言いながら小銭入れを取り出して夏菜に手渡すのを見て、良が左の眉を上げる。
「良くんは?」
「……ミルクティ」
「ガキ」
「るせぇよ」
「あったかいのでいい? ――じゃ、行ってくるね」
小走りに去って行く後姿を見送っていた良が、だるそうに口を開いた。
「あいつ、あれで気ぃ利かせたつもりかな」
「そうなんじゃねぇの?」
苦笑して煙草に火を点ける。
「一年か――長いよな」
「短けぇよ。とりあえず一年経ったら戻るけど、その後はまた考える」
何でこいつは、こんなに自由なんだろう。
自分が特別不自由な思いをしているとも思わないけど、こんな風に身軽に動ける強さは僕にはない。
「ま、おまえのことだからいい加減なことはしないと思うけどな」
「充分いい加減ですよ。たいそうな目的があるわけでもないし」
「でも、行こうと思うだけのものはあるんだろ?」
「まあ――な」
照れたように目をそらす。いつの間にか、こいつも大人になっていたんだなと、改めて思った。
――僕だけが、変わらずにここにいる。
「ひとつ、言っとくけど」
急に早口になった良が、顔を上げた。
「俺別に、夏菜とは何でもねぇから」
「――は?」
「なんかちょっと誤解したりしてないかと思って」
夏菜が良に僕とのことを話していたというのは聞いている。
いつだったか冗談めかして――半分本気で、おまえのほうがお似合いかもな、と言ったことはあった。
……どう考えても、僕の引け目が言わせた言葉だけれど。
おまえも夏菜が好きだったんじゃないのか、とは訊けなかった。
「いや……何かあったとは思ってないけど……」
「何もないって。あんまりあいつが分かりやすいから、突っついてみただけ」
「……何を」
「いや別に。さっさとくっついちまえって、けしかけたようなもんかな」
「――あ、そう」
「ま、俺が言うことじゃないけどさ」
週末の空港は人でごった返している。旅行にはいい季節だし、あちこちで楽しそうな人の輪ができていた。
「次に帰ってくる時は金髪のネエちゃんでも連れてたりしてな」
ちょっと無理のある僕の軽口に、良が顔をしかめた。
「うわ、やだね。オヤジの言うことは」
……この間からオッサン扱いばかりされているのはどういうわけだろう。
「オヤジついでに言うけど、体には気を付けろよ」
「へいへい――そっちも、よろしくな」
「うん?」
「お袋とか――夏菜も、さ」
黙って良の頭に、ぽん、と手を載せてやると、イヤそうに身を引いた。
向こうから飲み物の缶を抱えた夏菜が走ってくるのが見える。
僕は、笑って片手を上げた。
空港から少し遠回りをして海沿いの道を帰る途中で、小さな展望台を見つけた。
あまり目立たない場所にあるせいか、他に止まっている車はない。
早めに帰ろうと思っていたのだけれど、ちょうど沈んでいく夕日に誘われて、しばらくそこにいることにした。
鮮やかなオレンジ色に染まった空が、やがて赤に変わる。
その情景に見入る夏菜が小さく震えているのに気付いた僕は、上着の前を開けると背中から包み込むように抱きしめた。
「……キレイだね」
潜めた声で夏菜が囁く。
僕は黙って頷くと、抱きしめる腕に力をこめた。
腕の中にある肩はあまりにも華奢で、あとほんの少し力を入れたら壊してしまいそうだった。
僕が長いこと何も言わずにいるので、夏菜が照れたような瞳を上げる。
この細い肩を、真っ直ぐな瞳を、どうやって守ればいいんだろう。
――男と女として付き合うことのデメリットも、僕は分かっているはずだった。
単純に好きだから一緒にいるというただそれだけのことが、思うようにいかない。
目の前にいる相手のことだけを考えて、見失わないように大事にしているつもりでも、
いつの間にか他の些細なことに捕らわれているうちに、形を変えていってしまう。
子供の頃から知っている従兄妹同士として僕と夏菜の間で作られてきたものも、半年前から――
いや、それよりもっと前から、形を変えてきた。
それがこの先どう変わるのか。その変化の中で、一番大切なものを壊さずにいられるのか。
夏菜を、傷付けずに済むのか――。
車のボンネットにもたれた僕も、腕の中の夏菜も、何もかもを赤く染めていた空がゆっくりとピンク色に変わる。
端から見る間に紫色へと移っていくさまから、目が離せない。
青い絵の具を一滴づつ落とすように、夜が降りてくる。
こんなふうに、すべてが知らぬ間に変わっていって、それを繰り返しているのかも知れない。
夏菜が身じろぎをして、くるりと体の向きを変えると、僕の背中に腕を回した。
冷たくなった頬に手を当てて軽く仰向かせ、そっと唇を合わせる。
――こんなに静かに、互いの存在を確かめるようなキスをするのは、初めてだった。
いつもは少し体をこわばらせて動かない夏菜が、ぎこちなく僕のキスに応えようとする。
一気に、体中の血が逆流した。
すっかり薄紫に沈んだ空は冷たい空気を運んでくるばかりなのに、僕の心臓がひとつ脈打つごとに、
二人の体温が一度づつ上がっていくような気がする。
夏菜のうなじと肩を支えている僕の手にも、僕のシャツの背中をつかむ夏菜の手にも、互いの体の熱は伝わってきて――
やがて、息が続かなくなった僕は、夏菜の髪を両手でつかむようにして顔を離した。
どうしようもなく、息が乱れていた。
青い暗闇の中で、夏菜の瞳だけが光を放つように潤んでいる。
それからしばらくの間、僕らは言葉もなく見つめ合っていた。
口を開けば、相手の名前を呼べば――もう引き返せない所まで堕ちていきそうで。
だから、夏菜の唇が小さく震えて僕の名前を紡ぐ刹那、僕はどうにか笑顔を作った。
戸惑った瞳から目をそらして、肩をつかんで引き離す。
「――そろそろ、行こうか。風邪ひいちまうぞ」
夏菜の瞳に痛みを堪えるような色が走ったのは、一瞬だった。
「……うん。そうだね」
もし、僕があと10年遅く生まれていれば。
せめて良と同じくらい、失くすことを恐れずに動ける身軽さを持ち合わせていれば。
こんなはりさけそうな笑顔をさせずに済んだのだろうか。
僕らが従兄妹同士でなければ。
夏菜のことだけを見ていればいいのであれば。
――守りたいものを正しく守るためには、どうすればいいのだろう。
一応『栄転』として今の事務所に移って来た僕は、主任という肩書きを持っていた。
いきなり仕事が増えたとかそういうわけでもないけど、名刺の右上にはその肩書きがあったし、
会社にいれば後輩には『野上主任』などと呼ばれてしまう。
何々長とかいうのならともかく、主任なんてものはどうにも中途半端だ。
結局、下のやることをまとめて上に伝える役目がほとんどだった。
何がどう変わったというつもりもないけれど、仕事に取られる時間は確実に増えていて。
それはとりもなおさず、夏菜と過ごす時間が少ないことに違いなかった。
「で、何であんたこんなとこにいるのよ」
「――ご挨拶だな。こっちの課長に呼ばれたんだよ。ついでにここに顔出したっていいだろが」
僕は前に勤めていた事務所で適当に空いていた席に座り、煙草をふかしていた。
「そこ、私の席なんですけどね、野上主任。ちなみにうちは先月から事務所内禁煙になりましたの」
そう言いながら、どこかから灰皿を出してきてくれる。僕は慌てて煙草を押し付けて消した。
「失礼しました、藤村課長補佐」
席を立つ僕に、小枝子が鼻の頭にしわを寄せた。
「その呼び方気に入らないのよね……。うちにはもう主任がいるからって、無理やりつけられたみたい」
「ま、がんばって補佐してくれ」
「課長の用事は済んだの?」
「ああ。たいしたことじゃないよ、相変わらず」
「賢一の顔が見たかったんでしょ。ご苦労様。これから向こうに戻るの?」
「いやもう直帰だよ」
この事務所は実家に近い。つまりは、夏菜の家に近い。……7時か。どうするかな。
ふーん、と言って机の上を片付けている小枝子に、牽制球を送っておいた。
「飲みには行かねぇぞ」
「何も言ってないでしょ」
「おまえも上がりそうだからさ」
「今日は残業の予定もないのに、課長の話が終るの待ってたらこんな時間になったのよ。帰っちゃいけませんかねぇ」
「はいはい。俺のせいですよ。どうぞお帰り下さい」
「あら、賢一も帰るんでしょ?」
「……帰るけどさ」
澄ました顔で上着を羽織る小枝子と一緒に、事務所を出る。なんとなく世間話をしながら、駅まで一緒に歩くことになった。
「今日は彼氏と会わないのか?」
「余計なお世話。ちゃんとうまくいってますからご心配なく」
「そうスか。そりゃすいませんね」
小枝子とはいつもこんな調子になる。
クールでお高く見える小枝子が、実は気さくで話しやすく、細かい気配りができる人だと知ったのは、
入社して一年くらい経った頃だった。
――まるきり恋愛感情がなかったとも、言いきれないかも知れないな。
駅前の信号で立ち止まり、一人で苦笑した僕に、小枝子が怪訝な顔をした。
「何よ」
「いや」
二人の間にふっと、昔の空気が流れる。それはこの先変化のあるものでもなく、
何の緊張感も伴わずにそこにあって――不思議と居心地のいい空気だった。
信号が青に変わるまでの間、ほんの一瞬あの頃に戻ったように微笑みを交わす。
そんな僕らを道の向こうから見つめる視線に気付いたのは、その時だった。
「……夏菜……?」
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