6.
僕は今、何を言ったんだろう。
何かに操られるように、唇が勝手に動いた。
――それが、本心だってことか?
知らぬ間に、僕には夏菜が負担になっていたのか?
息をするのもつらいほどに、部屋の中が静まり返る。僕と夏菜は、黙って見つめ合っていた。
そこには何もない。怒りも――愛情、も?
まるで魂が抜け落ちたように、夏菜の瞳には表情がなかった。たぶん僕も、同じ顔をしているんだろう。
明るい蛍光灯の下で、夏菜の血の気のない顔が白く見える。
いつの間に切ったのか、乾いた唇にうっすらと血が滲んでいた。
もっと、感情的になるかと思った。
僕が夏菜を責めることを口にすれば、二人の間にいざこざが起きれば、きっと泣き出して、手がつけられないだろうと。
それが面倒だった。同年代の彼女と揉めるより、夏菜の機嫌を損ねるほうが面倒だと思った。
――夏菜と付き合うと決めた時もそうだ。
仕事に忙しい僕は、どうしても寂しい思いをさせる。どうして会ってくれないのと、責められるに決まっている。
そんなのはちょっと、面倒だな――そう、思っていた。
実際にはどうだ。
夏菜は一度も、どうしても会ってほしいと言ったことなどない。
電話もメールも、僕の邪魔にならないように気を遣っているのが分かって、痛々しいほどだった。
叔父さん達のことを気にして早めに帰る僕に、寂しそうな顔をすることはあっても。
笑って――いつも、笑ってくれていたのに。
右手を伸ばして、夏菜の唇についた血をぬぐう。
その指先から目に見えない精気が送り込まれたかのように、夏菜がゆっくりと息を吸い込んだ。
「……ごめん」
僕はようやく、夏菜の瞳を真っ直ぐに見た。
夏菜が小さく首を横に振る。また、無理をして笑おうとする。その頬を両手ではさんで、上を向かせた。
「笑わなくていい」
夏菜の顔から、するすると笑顔が滑り落ちた。揺れていた瞳が僕に焦点を合わせ、震える唇が僕の名前の形に動く。
「――おまえを、支えてやらなきゃいけないと思ってた」
もっと早く、こういう話をするべきだった。
争うことが怖くて、僕達は互いにそこから逃げてばかりいた。
「どんなことからも、守ってやらないとダメだって。俺が先に立って引っ張っていくんだって、思った。
それでなきゃ――叔父さん達に合わす顔がないからさ」
まだ何も話していない。反対されたわけでもない。
なのに、僕はそれを恐れていたのかも知れない。
あの人達に、胸を張って返せる誠実さがなければ、夏菜を手に入れる資格なんてないと。
それが――自分も夏菜も追い詰めることになると知らずに。
いや、違う。
言い訳だ。
僕は怖かったんだ。夏菜を失うことが。
「それに――おまえと同じくらいの年の男に比べたら、俺なんてすっかり守りに入ってるし、
いつか捨てられるんじゃないかって。だから尚更、先に立っていたかったのかも知れないな」
「……あたしが……ケンちゃんを?」
夏菜がやっと口を開く。掠れた声は、微かに震えていた。
「うん。だから、他の男じゃ絶対与えられないようなものを与えてやりたいと思ったし――そうできてると思ってた」
胸の奥から頭の中に駆け上った血が、少しづつ冷えていくのが分かる。
知らぬ間に肩に入っていた力が、ゆっくりと抜けていった。
「でも、無理だ」
「――え?」
「いや、おまえを守りたいのは変わらない。おまえにあげられるものがあれば、そうしたい。
でもさ、今甘えてるのは、結局俺のほうなんだよな」
「何言って――」
「確かに、俺とおまえじゃ価値観が違う。10年も違えば、当たり前だよな。
社会に出れば、守らなきゃならないものはたくさんあって、おまえの知らないところで俺の歴史ができちまってる」
少し寂しそうな顔をした夏菜が、僕の服の袖をつかんだ。
「それはもう、どうしようもないんだよ。無理に分からなくていい。
でも、おまえは分かろうとしてくれて――いつも、俺の負担にならないように気を遣ってて」
袖をつかんだ夏菜の手を、そっと外させる。
「俺は、それに甘えてた。だから、本当は少しもおまえを引っ張って歩いてなんかいなかったんじゃないかと――」
「……ケンちゃん」
「ん?」
「バカ?」
「……あ?」
「そんなの、当たり前じゃないの? あたしはケンちゃんの何? 恋人じゃないの?
あたしがケンちゃんに甘えて助けてもらうことはたくさんあるけど、
ケンちゃんがあたしに甘えることもあるのは、当たり前でしょ」
「……当たり前?」
「そうだよ。――ただの従兄妹で何もなかったら、ケンちゃんが甘えるのは変かも知れないけど。
先に立って歩くのが普通だと思うけど。互いに支え合うのが『付き合ってる』ってことじゃないの?」
「おまえ、そ……」
本当に『当たり前』の顔をしている夏菜に、僕は笑い出しそうになった。
「それで、いいのか?」
「いいも何も、あたしはそれが恋人として付き合うってことだと思うけど。間違ってる?
あたしがケンちゃんの邪魔にならないようにって思うのも、ケンちゃんがあたしの勉強みてくれるのも、同じだよ」
「ああ……そう」
なんだ、そうか。
「寂しくないわけじゃないけど、一緒にいられる時はすごく楽しいもん。
あたしがケンちゃんにあげられるものって、本当に少ないかも知れないけど――
できるだけのことをしたいのは、同じなのに」
僕は今度こそ笑い出した。
夏菜よりも10年早く生まれてきて、いろんなものを身に纏ってしまった僕は、今さら身軽になんて動けない。
それでも、この鮮やかな真実を守ることはできる。
それを、忘れずにいるだけの努力をすることは。
「もう、何笑ってんのよ」
フクレた顔をする夏菜が、つられて吹き出した。
僕達は笑い転げ、ついでのように抱き合った。
何か言いかける夏菜の言葉を封じ込めて口付ける。――やっと、互いの気持ちを交換するかのように。
「……ケンちゃん」
顔を離した夏菜が囁く。
「あたし、今日は、帰りたくない」
一瞬、頭が真っ白になった。
そうならないと決めていたわけでもないし、自分の自制心に限度がないと思っているわけでもない。
でも、夏菜はまだ高校生で――。
「ケンちゃんから見たら、子供だろうけど――あなたと二人でいる時のあたしは、ただのあたし、だよ」
なんてこと言うんだよ。
そう言われて行動しない男がいるかって……。
僕が手を伸ばすより先に、夏菜が僕に覆いかぶさって来た。
「お、おい、夏菜!」
「あたしじゃ、ダメ?」
「んなわけねぇだろ。そうじゃなくて――」
どういうわけか僕が押し倒される形になって、再び唇が重なる。
夏菜の体の弾力や、重みや、体温や、柔らかさや――。
ええい、もう。
僕は夏菜の肩を押し戻し、自分が上になった。
「――おまえ、ほんとに……」
「いいのか、なんて訊かないでよ」
そんな表情、どこで覚えたんだ。
視線が絡む。互いに微笑んでいるのが分かる。
夏菜の髪をかき上げた僕は、耳元に口を寄せて――。
「よし」
と一言、体を起こした。
「……へ?」
間抜けな声を出した夏菜が、不安げな顔で僕を見上げる。時間は夜の10時を過ぎていた。
「飛ばせばなんとか間に合うな。行くぞ」
「行くって……どこに」
「おまえの家。決まってんだろ」
「……」
「違うっての! この続きはまた今度。その前に、やることがある」
僕は夏菜の手をつかんで引き起こし、顔を覗き込んで笑った。
「俺は俺のやり方でおまえを自分のものにするから。身軽じゃなくてもなんでも――スジは通すのが俺だ」
「スジ?」
二人分の上着をつかんで立ち上がると、暖房と部屋の照明を切って玄関に向かう。
「ちょ、ちょっとケンちゃん、それって」
「ああ。今から全部話そう。叔父さん達が起きてればだけど――まあ、起きてるだろ」
「ええ! そんな、だって」
「イヤか?」
「だ……って、急に」
尻込みする夏菜の手を引っ張って、僕は駐車場に向けて歩き出した。
「ねえ、何も今日じゃなくてもいいってば」
「だから、イヤかって訊いてる」
「イヤじゃ……ないけど。嬉しいけど」
「けど、何だよ」
「……今日は、帰らないって決めたのに」
「今度また、決心してくれ。俺はそのつもりで待ってるから」
「もう!」
頬を膨らます夏菜の瞳が、笑っていた。
僕はその笑顔を守る。それだけの強さを持てるように、君が支えてくれるから。
時には争って、傷付けても。
僕だけの誠実は――ここに、あるから。
〜fin〜
あと書きはこちらです。
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