2.
ふと目を覚ましたのは、廊下をはさんだ向かいの部屋にいる夏菜を意識していたせいかも知れない。
真っ暗な部屋で起き上がると、きちんと布団をかけて寝ていた。
すっかり出来上がった叔父さんが寝室に消え、とりあえず着替えるつもりで二階の客間に入り
――ちょっと横になっただけのはずが、眠り込んでしまったらしい。
当然服のままで、枕元にはタオルと新品の歯ブラシが置いてあった。
――夏菜だな。
なんとなくそう思って時計を見ると、夜中の12時を過ぎている。
これもいつの間にか枕元に置かれていた袋から着替えを出し、タオルと歯ブラシを手にシャワーを浴びに階下へ下りた。
奥の寝室からは叔父さんの盛大なイビキが聞こえてくる。
普段はあまり飲まないほうだけど、僕という肴がいたので飲み過ぎたんだろう。
自分でそう思って苦笑する。肴ってのはあんまりか。
息子の代わりとまではいかなくても、晩酌の相手くらいはさせてもらおうかと思う。
たまにこっちに来た時くらい――といって、結局夏菜を放っておいてしまったけれど。
二階に戻ると、夏菜の部屋から灯りがもれているのに気付いた。まだ起きてたのか。
一度客間に脱いだ服を置きに行き、ドアを小さくノックする。
「――はい?」
少し驚いたような声がして、ドアが細めに開いた。
「あ、ケンちゃん。起きたの?」
「うん。おまえまだ寝てなかったのか?」
夏菜は僕を『ケンちゃん』と呼ぶ。
本当は『まさかず』と読むのはもちろん知っているけれど、中学生の頃からふざけ半分にそう呼んでいた。
僕も学生の頃には『ケンイチ』があだ名のようになっていたが、今ではこう呼ぶのは夏菜だけだ。
その夏菜の机の上にノートや参考書が広げてあるのを見て、僕は部屋に半分踏み入れていた足を引っ込めた。
「悪い。勉強中か」
「――まあ、一応ね」
夏菜は大学受験を控えている。そろそろ本格的に『受験生』をやらないとならない時期だ。
「あ、でも、そろそろ寝ようかなと思って」
「いやいや、ゴメン、邪魔したな」
そう言って客間に戻ろうとする僕のTシャツの背中を、夏菜がつかんだ。
「……行っちゃうの?」
そう来たか。
僕はそっと階下の気配に耳を澄ませ、相変わらず豪快なイビキが聞こえるのを確かめて、夏菜の部屋に入ってドアを閉めた。
「で?」
「え?」
「どこまでやった?」
「――英語の――問題……」
口を尖らせて言う夏菜を通り越して、机の上を見る。問題集の例題が途中まで解いてあった。
「よし。んじゃとりあえずこれ終らせよう」
「えー」
「えーじゃない。ほれ、さっさと解く」
頬を膨らませた夏菜が残りの問題を解く間、僕は床に座ってベッドにもたれた。>
家の裏にある大通りから、車の音が聞こえる。
救急車か何かのサイレンが通り抜けて行き、それに合わせて二軒先の家の犬が遠吠えをする。
少し離れた所にある繁華街では、まだ人の動きがあるんだろう。
さざ波のように寄せてくる微かなざわめき。秋の初めの澄んだ空気の匂い。
僕はこの町の夜の気配が懐かしくなって、静かに目を閉じた。
「――終わり、まし、たっ!」
「なぁに怒ってんだよ」
笑いながら問題集を取り上げる。思ったよりよくできているようだった。
「うん。まあまあか。あー、ここの構文な、接続詞の使い方が違うから……」
現役を退いてだいぶ経つけれど、夏菜の勉強をみてやるのはクイズに挑戦しているみたいで面白い。
ひととおり解説を入れると、真面目な顔で頷いていた夏菜が息をついた。
「もう、ケンちゃん時々『先生』になっちゃうんだから」
「協力してやってるんだろ? そうそう甘い顔ばっかりしてる場合じゃないっての」
「甘い顔なんて、いつしたのよ」
「今からしようか?」
顔を寄せて言うと、反射的に身を引いた夏菜が耳まで赤くなった。――だから、こういう反応に慣れてないんだけどさ。
「ど、どこが甘い顔なのよ」
おお、結構がんばって反論してるな。
「さあどこでしょう。甘いから舐めてみな、ほれほれ」
夏菜の鼻先に自分の頬をすり寄せる。
「いやー! もう!」
僕の胸を押し戻そうとしながら、夏菜が笑い出した。その肩に腕を回して抱き寄せ、唇を重ねる。
すべての音が消え、部屋の空気が流れを止める。
――微かに、夏菜の匂いがした。
もちろん腕の中にいるせいもあるけれど、ここは夏菜の部屋で。
階下には叔父さん達もいて、夏菜は受験生で――。
僕は唇を離し、夏菜の頬を両手ではさんだ。
「んじゃ、おやすみ」
「――え?」
きょとんとした顔で見上げる夏菜の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「もう寝るんだろ? ほどほどにしないと体壊すからな。続きはまた明日」
「……続き?」
「勉強」
「ケンちゃんー」
「何でしょう」
「……やっとひさしぶりに会えたのに。冷たいなー」
冷たくしなけりゃ困ったことになるんだっての。そうも言えないけど。
「だから、明日はどっか連れてってやるって」
「え、ほんと?」
「ああ。昼間は勉強な。夕方息抜きにドライブでもして、夕飯奢ってやるから。叔母さんにうまいこと言って出て来いよ」
ほんの少し、胸のどこかが痛んだ。
本当なら叔父さんにも叔母さんにも全部話して、笑って夏菜を連れて行きたい。
何も心配しなくていいからと、胸を張って言いたい。――夏菜にも。
「うん」
光がこぼれるような笑顔を見た途端、力が抜けた。
もう少し、待ってろよ。どんなことからも守ってやると、誰に対してもそう言えるまで。
おまえが道を選んで歩き出すのを、支えてやれるまで。
「あ、そうだ。タオルとかサンキューな」
「……分かった?」
「うん。おまえだろ」
「――お母さんも眠そうだったし、あたしがやっとくからって言ったの。……なんかね」
「ん?」
「なんか、ケンちゃんにご飯よそったり、そういうのお母さんに頼むよりあたしがやりたいなって。
ほんとはご飯の支度も全部したかったけど、それも変かなって……」
ああもう、こいつは。
胸の奥が四方八方から押しつぶされそうになって、抱え込んだ夏菜の頭に自分の額を押し付けて堪える。
「……ケンちゃん?」
「――いや、なんでもない。さ、もう寝よう。おやすみ」
「おやすみなさい」
もう一度軽く唇を触れ合わせて、僕は客間に戻った。
かけていたメガネを外すと、軽い頭痛がした。きつく目を閉じてこめかみを押さえ、痛みがひくのを待つ。
この頃残業が続いていた。あっという間に週末になり、今日中に終らせたい書類をまとめているうちに9時を過ぎている。
そろそろ上がるかな。
――今週は一度も、夏菜に電話もできなかった。たまにメールが来て、それに返事を送るので精一杯だ。
携帯の普及は恋愛を味気なくしている気もするけれど、こういう場合はやっぱり便利だと思う。
……なんだかえらくオヤジくさい考えのようで、頭痛がひどくなってきた。
「あら、やっぱりいた」
誰もいなくなった事務所のドアから、背の高い女性が顔を覗かせた。
「……何でこんなとこにいるんだよ」
「ご挨拶ねぇ。せっかく陣中見舞いに来たのに」
外人みたいに肩をすくめた小枝子が、僕の机のそばまで歩いて来る。
「はい。うちで作った資料。ほんとは来週でも良かったんだけど、今夜はヒマだったから」
小枝子は僕の同僚で、僕が移動する前にいた事務所に籍を置いている。
仕事のできるサバサバしたヤツで付き合いやすい――友達としては。
「ああ、サンキュ。悪いなわざわざ」
「どういたしまして。賢一には借りがあるし」
「よく言うよ」
「あらほんとよ。あの時S社の記事を検索してまとめてくれたおかげで、だいぶ話が進みやすくなったんだから」
かと言って、うちの近くの図書館まで取りに来る必要はなかったと思うんだけどな。
僕の表情を読んだのか、小枝子が意地悪く笑った。
「本当の目的は他にあったんだけど?」
「……いいよ。言わなくて」
「カワイイ従妹ちゃんの顔を見に行ったとか?」
「だから言うなって」
くすくす笑う小枝子から、前とは違うコロンの香りがした。
「いやだね、オバサンは」
「あー、そういうこと言うんだ。いいの? 全部バラすわよ?」
どうして今さらこいつに脅されなきゃならないんだ。
「シラフで絡むなよ」
「せっかくの週末にシラフでいるほうがつまらないじゃない。彼女が待ってるんでなきゃ、一杯付き合ってよ」
「怖いオバサンと行くんですか」
「とって食いやしないわよ」
まあ確かに、仕事ではいろいろ世話になってる。こっちに移ってから会うのはひさしぶりだし、いいか。
「――ほんとに一杯だぞ。送らねぇから、電車あるうちに帰れよ」
「はいはい、相変わらずおカタイですこと」
今度はこっちが肩をすくめる番だった。僕はパソコンの電源を落とし、上着を手に席を立った。
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