1.
いつからこうなったんだろう。
考えても仕方のないことだと分かっているけれど、気が付いた時には始まっていた。
何を今さら。
27歳にもなって、付き合った子の一人や二人いなかったわけでもない。
正確には三人か。まあそんなことはどうでもいいけど。
とにかく、恋愛に理由なんてないし、きっかけなんて些細なことだと知っているはずだった。
でも、何かが違う。
片想いなんてものも経験がないわけではなかったが、それとも違う。
ずっと、子供だと思っていた。
生意気で、可愛くて、放っておけない、10も年下の従妹。
大学生の頃に父が死んでから、仕事に忙しい母の代わりに叔父夫婦に可愛がってもらった僕には、妹のようなもの。
だから、何も始まるはずなどなかったのに。
いつの間にか、夏菜は僕にとってかけがえのない存在になった。身内としてだけじゃなく、男として。
もちろんまだまだ、他の子と付き合っていた時のように対等に向き合えている感じはしない。
どこかに兄妹のような馴れ合いを残しながらこういう関係でいるのは、正直すごくやりづらい。
未だにどっちの親にも本当のことは話せていないし。
ぶっちゃけた話、キス以上のことをするのにも手間取っていたりする。
夏菜がまだ高校生でしかも受験生だというのも、歯止めになっているけれど。
今まで、相手のほうが一枚も二枚も上手だった気のする僕は、どういう形で彼女を引っ張っていけばいいのか分からなかった。
『あなたが好き』
夏菜がそう言ってくれて、僕も自分の気持ちを自覚して、半年が経つ。
七年前から夏菜の隣に住んでいた僕が、仕事の都合で家を出てから半年。
夏菜には、同年代の男と付き合うより寂しい思いをさせてしまっていると思う。
一緒にいる時には、そんな余計な考えは捨てているけれど。時折、迷ってしまう自分がいるのも事実だった。
土曜日の午後。少し慣れてきた道を通って、実家の車庫に車を入れる。
玄関のドアを開けようとすると、中から鍵を外す音が聞こえた。
「あらっ、賢一?」
「……ただいま」
「お帰り。あれ? あんた今日帰るって言ってた?」
「いや、言ってないけどさ。荷物取りに来たんだよ」
「まだ何か残ってたっけ」
「あんまり聴かないCDとか――会社のヤツに貸してくれって言われてさ」
「何だ、そうか。じゃあ、すぐ帰るの?」
「――えー……と、叔母さんとこにも顔出して行こうかと」
夏菜に約束したし、とは言えない。
「ああそうね。そうして。母さんこれから仕事だから」
母は結婚前から看護師を続けていて、今では婦長――師長か――の位置にいる。
息子二人の世話をする必要もあまりなくなって、夜勤でもなんでもバリバリやってくれてるのだ。
家では下ろしている髪をまとめていることから、出勤前なのは分かっていた。
「はいはい、夜勤だろ。適当にやるから行っていいよ。で、中入らせてくれる?」
「あ、ゴメンゴメン」
笑って玄関から出る母と入れ違いに、家の中に入る。
「良は? バイト?」
「なんか今日は、友達の所に泊まるとか言ってたわよ」
友達ね。どういうオトモダチなんだか。
8つ下の要領のいい弟は、この秋からイギリスに留学することになっている。
夢のような話だと思っていたが、何も言わずに準備を進め、バイトで資金も貯めて、実行に移してくれた。
――僕は時々、あいつの身の軽さだとか迷いのなさが羨ましくなる。
母が慌しく出かけて、ガランとした自分の部屋に入った。
目当てのCDと、数冊の本。洗濯したあとたたんで部屋の隅に置かれていた衣類などを、まとめて袋にいれる。
その中に、夏菜の読みたがっていた本が入っていたのを思い出して、そのまま隣の家まで持っていった。
「あらっ、まーくん? 今日帰るって言ってた?」
――さすがはお袋の妹だ。同じ反応を返してくれる。
「いやちょっと、取りに来たものとかあって。えー、と」
夏菜いる? と訊くのも何だか変だ。
「今日は姉さんも良くんもいないんでしょ? 上がって上がって。さて、じゃあご飯何にしようかしらね」
僕より家族の動向に詳しい叔母さんが台所に消えるのと同時に、二階から夏菜が下りて来た。
「よ。ただいま」
「……お帰り」
照れたように笑う夏菜の頭をひとつ小突く。会うのは半月ぶりだけど、ここで抱き寄せるわけにもいかない。
「ほら、これ」
居間に入ってご希望の本を出し、夏菜に渡した。
「あ、覚えててくれたんだ。ありがと」
――少しぎこちない。
会話の間も、瞳の色も、半年前とは違ってきていた。
何より二人の間の空気が前より薄くなった感じで、距離感がまったく違う。
それを叔父夫婦に気付かれないように、互いに少し緊張しているのが分かった。
数ヶ月前にこっちに来た時はすぐに帰ったし、こんなふうにゆっくりここにいるのは久しぶりだ。
何となく落ち着かなくて、ソファでTVを観ている叔父さんの隣に座って夕刊を広げる。
夏菜もちょっとソワソワした様子で、夕飯の支度をする母親の周りをうろうろしていた。
――うるさく言われなければ手伝いもせず、夕食の時間になっても
なかなか部屋から下りてこなかった夏菜を思い出して、新聞の陰で苦笑する。
と、叔父さんがTVから顔を離してこっちを向いた。
「会社のほうはどうだ?」
「うーん、まあ、相変わらずだな。やっと今のとこにも慣れてきたけど。今度、S社と提携する話も出てるし」
「S社か。あそこは今上場してるからなあ。そりゃ忙しくなるな」
「俺がやるところは限られてるけどね」
笑って新聞をたたむ。父親のいない僕には、こんな会話ができることがありがたい。
――どれだけ感謝しても足りないものを、僕はここで与えられてきた。
だからこそ、できるだけの誠実さを返したいと思っているんだ。
ただ、夏菜を愛しいと思う気持ちとは別に。
叔父さんに付き合ってビールを二、三杯空け、夕食を済ますと8時を過ぎていた。
――さて、どうしたものか。
そうそう夏菜に『送って』もらうのも変だし、中学生のカップルみたいに夜の公園で話をするのも妙な気がする。
といって、それじゃちょっと、と夏菜の部屋に行くわけにもいかないし、
誰もいないからって実家の自分の部屋に連れて行くのもどうかと思う。
結局、何か理由をつけて二人で外に出て、車の中で話すくらいしかできないか。
時折ちらちらと視線を合わせながら二人で無言の相談をした結果、僕はわざとらしく時計を見て席を立った。
「じゃ、俺そろそろ――」
そこで夏菜が、あ、あたしコンビニ行きたいから、ケンちゃん車乗せてって、てなことを言うはずだった。
「賢一、おまえ車じゃないのか」
僕の倍以上コップを空にした叔父さんが、据わった目を上げた。
「ああ、そうだけど」
「じゃ、ダメだ。泊まってけ」
「「――は?」」
夏菜と僕の声がハモった。夏菜が慌てて口を押さえる。
「え、いや、大丈夫だよ」
「だーめーだ。酒気帯びだってバカにならないんだぞ」
それなら電車で帰るとか、運転代行を頼むとか……いやそこまでは。
「そうよ。危ないから泊まっていきなさい。明日休みでしょ」
横から叔母さんも言う。こちらも少々ビールを空け、目のふちが赤い。
「あー……じゃあ、家に帰って寝るかな」
明日また夏菜とゆっくり話す時間もできるだろうし、それも悪くない気がした。
「だって、誰もいないでしょ。どこで寝るのよ」
「そりゃ、自分の――」
部屋に寝具はない。
使っていたベッドは今の部屋に運んでしまったし、客用の布団がどこにあるか知らない。
一軒のスペースに無理やり二軒建ててしまったようなうちは、一階がせまいLDKに、母の寝起きする和室と水周り、
二階に僕と良の部屋の二つしかなかった。
当然和室の押入れのどこかに一組くらい予備の布団があるだろうけど、母の留守に勝手に開けるのも抵抗がある。
まだ9月だし、床で寝てもどうってことはないと思うけど。さもなければ良のベッドに勝手に寝るか。
「なんとかなるって。子供じゃないんだし」
「ダメダメ、風邪でもひいたら大変でしょ。いいじゃないのよたまには。着替えくらいお父さんの借してあげるわよ」
それは勘弁してくれ。
都合のいいことに――というか、悪いことにというか、残した荷物を詰めた袋の中に、部屋着や下着も入っていた。
僕がそれを言うより前に、叔母さんが二階の客間を整えに行く。
うちよりも少しばかり広いこっちの家は、一つ余分に部屋があって、居間もけっこう広々としていた。
だから親戚が来た時なんかは、みんなこっちに泊まってもらっていたんだけど。
「よし、そうしろそうしろ。じゃあ夏菜、ビールあと二本追加な」
上機嫌でそう言う叔父さんに、夏菜が複雑な顔で冷蔵庫を開ける。
複雑なのはこっちだ。
叔父さんと飲むのも久しぶりだし、明日は特に予定はないし、夏菜とこうなっていなければ迷わず泊まっていったはずだ。
『どうするよ』
目だけで問いかけると、やっぱり何とも言いがたい視線が返ってきた。
『どうしよう』
てとこか。
流されるままビールを空け、叔父さんの話にうわの空で相槌を打つ。
――そして気付けば、自分の命と運転免許証が惜しいなら、帰るわけにはいかないという状態になっていた。
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