雨の降った日、僕が部屋に帰るとアツミはいなかった。
最近は、あまり姿を見せない。
あの夜――たった一度触れた身体は、温かかった。
アツミは生きている。どうして存在するのか分からないけど、生きて僕のそばにいる。
昼間のうちに電話で予約をとりつけておいたバイトの面接のため、
買ってきた履歴書に記入することにした。
それと、取り寄せた受験のための資料。
美大をもう一度受けることを薦めたのは、アツミだった。
とにかく動いてみて――そう言って笑った顔に、今回だけな、と返した。
さすがに、先のことを考えないといけないのかも知れない。
僕が何のために産まれてきたのであっても、これからを生きていくのは僕次第だ。
だから、美術の専門学校へ行くことも、就職することも考えに入れておく。
その話をした時のアツミの笑顔に、応えるためにも。
「受験っていろいろ大変なのねぇ」
またいつの間に来たのか、お茶をいれて戻った部屋の中にアツミが座っていた。
「……お前、どこから沸いてきてるんだ?」
「何よ、今さら。あたしは来たい時に来るし、消えたくなれば消えるんですよー。
そういうものなんだから、しょうがないでしょ?」
「全然説得力ないぞ」
「いいのいいの。深く考えないで」
のんびりと笑って、資料をめくっている。
「――お茶、いれてこようか」
「だーかーらぁ、あたしはそういうの必要ないのー。気にしないで」
どうしてだろう。今まで気にならなかった。こいつが何でもいいと思っていた。
僕を抱き返す身体が温かいのを知ると、『普通でない』ことが気になるようになってきた。
ほんとに、今さらだけれど。
こいつはどこから来ているのだろう。どこに住んで、何をしてるんだろう。
資料に目を落とすアツミの髪に手を伸ばし、触れてみる。
曖昧に笑ってその手をはずす。あれから、いつもそうだ。
思い切って肩を引き寄せても、はぐらかされてしまう。
「……アツミ」
「なぁに?」
「いろんな意味で、限界なんだけど」
「何が?」
「お前が分からないことが。どうしてここにいるのか、どうするつもりなのか。
――いつになったら、教えてくれるんだ?」
アツミが顔を上げて、僕の目を見上げる。
穏やかに微笑む瞳が、また、淳美に重なる。
淳美――俺の知ってるお前は、今どこにいるんだ。
もう会うことも、話すこともできないんだろうか。
それならそれでいい、あいつのことなんてどうでもいい。――なのに、どうして。
この瞳を見ると、問い正したくなるんだ。
俺を忘れたのか? 会わないでいられるのか? ――もう、嫌いになったのか?
そんな女々しい質問を口にできない僕を全部知っているかのように、アツミが微笑う。
「そうね。――あたしも、限界みたい」
「何から話せばいいのかなぁ」
そう言っていつものように、ベッドに寄りかかって足を伸ばす。
「春明に話したことは、本当なのよね。あたしは淳美さんの一部で、あなたを好きな部分でしかないの」
「……そんな話があるかよ」
「だって、本当なんだからしょうがないわ。あなたが望んだとおりの姿形で、淳美さんよりは明るい性格で。
一緒にいたい時だけそばにいる都合のいい存在が、あたし」
ずいぶんな言われようだ。僕はそんなにひどい奴なのか。
「俺、あいつにそんなこと一言も言ってないつもりだけど」
「言ってないわよ。……言えば良かったのに。見た目はともかく、もっと言いたいこと言ってほしい、
気を遣って平気なふりなんかしないでほしいって、言えば良かったのよ」
僕を見据えるアツミの瞳が、責めるような色を帯びる。
その瞳が少し和らいで、すっと視線をはずす。
「――もうひとつ、あるわよね。春明が、もう生きていたくないと思ってたこと」
僕のほうを見ずに、軽く唇を噛みしめて話を続ける。
「あなた、子供の頃から誰とも本音で話したりできない人だったから。友達と付き合うのも苦手だったわよね。
いつも他人から距離を置いて、誰のことも信じないで、誰からも信じられない。
……信じたこともあったけど、あなたが思うほどには距離を縮められなくて、裏切られたような気持ちになってた。
一歩、踏み出せば違う付き合い方ができたのに。それができなくて、いつも人と関わることに怯えてた」
「……お前、なんでそんなこと……」
「あたしはね、淳美さんの想いのすべてだから。あなたのことを知りたいとずっと思ってたから。
だから分かったの。それで――それがあなたの望みなら、あなたを殺そうと思った」
それが、あの時か。体が言うことを聞かず、どんどん弱っていった時。
「あなたが眠っている間、そばにいたのよ、ずっと。とても苦しそうだった。
そのまま意識のない状態が続いて、終わるはずだった――」
天井に向けていた視線を、僕のほうに戻すと、嬉しいのか悲しいのか分からない顔で笑う。
「でも、あなたは自分が死ぬことを望んでなかったわ。眠りながら、ずっと、呼んでた。
声にはならなかったけど、あたしには聞こえたの――”淳美”」
思わず息を呑む。
それはお前の――アツミのことだと言えばいいんだろうか。
でも、僕が呼んでいたのは、もう一度会いたいと叫んでいたのは――。
「もう、分かったでしょう。自分が本当に望んでいるものが何なのか。何が必要なのか。
もう、迷わないで。自分で決めて歩き出して。それが――あたしがいた意味だから」
アツミがいた意味。僕が望むもの。
それが本当に理解できれば、僕は前に進めるんだろうか。――淳美を傷つけずにいられるんだろうか。
「さぁて、あたしはそろそろ行こうかな」
「――え?」
軽く微笑んで、動けない僕の視線をとらえる。
その細い腕を伸ばして、僕の肩に触れる。
ほんの少しかすめる程度に唇を合わせて、ゆっくりと微笑う。
思わず引き寄せようとした僕の腕を軽く押さえて、小首をかしげてみせる。――いつもの、アツミの笑い方だ。
「あなたが、好きよ」
どうしてこんなに、明るい顔で言うんだろう。
淳美。
お前はもう、俺のことは忘れているはずだよな。
会えるんだろうか、もう一度。
こんなふうに僕の前で明るく笑ってくれる日が、来るんだろうか。
二度と、傷つけないとは思えない。
それでも、僕を分かりたいと思ってくれるだろうか。お前を分かることができるだろうか。
答えを出すのは、僕だ。
このままここにいても、お前には届かない。
――会いたいんだ、淳美。
僕を思い出せなくても、許すことができなくても、伝えなきゃいけないことがあるんだ。
半年、一緒にいた。
毎週のようにこの部屋で過ごして、くだらないことに笑い合った。
お前に何も言えなかったのは、ぶつかり合って壊すことを恐れていたから。
たった一言さえも、言ってやれなかった。
伝えられるのか、まだ間に合うのか、決めるのは――僕だ。
お前が、好きなんだ。
「もう、大丈夫よ」
あの夜と同じようにつぶやく。今度は笑って。
アツミの姿が急に霞んだような気がして、僕は思わず目をこすった。
そして目を開けると――何もなかった。
今まで手の届くところにいたアツミが、消えていた。
「――アツミ!」
立ち上がって叫んでも、届かない。
――夢を、見ていたんだろうか。
抱きしめた華奢な身体や、触れた唇は――温かかった。
その温もりに、僕は、何を返せるだろう。
もう、大丈夫――。
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