6. Dawn 〜黎明〜

そこは、明るい場所だった。
広い芝生に、思い思いに憩う人達がいて、僕はその明るさに戸惑った。
まだ自然の残るこの地に建てられた病院は建物も庭も広く作られていて、
それが少しばかり僕を救う手立てになっていた。
5年――母がここで過ごしてそれだけの時間がたつ。
僕はその間一度もここに来なかった。時々会いに来る父から、様子を聞かされるだけだ。
母の時間は、ほとんど止まったままらしい。
少しづつ動き始めているんだという父の言葉も、どこまで信じればいいのか分からなかった。

アツミが消えて、2週間が過ぎた。
なんとか新しいバイトも決まり、受験の準備も進めている。
僕が前に進むことを、笑ってうなずきながら聞いてくれた。
もう、大丈夫。
そう言って、僕の前から消えた。
その『大丈夫』を信じて動き出すために、向き合うべき現実を認めることにした。
でも――5年会わなかった、僕の存在すら覚えていない母に会うのは、今でも躊躇う。
ほとんど賭けだった。
ここで、母に会っても大丈夫なら、僕は本当に『大丈夫』だ。
かなり情けない賭けだが、ここから始めるしかない。
ため息をついて顔を上げると、ベンチに座っている女性が見えた。――母だ。
僕は深く考えるより前に、その人に向かって歩き出していた。

「こんにちは」
声をかけると、母はこっちに視線を向けた。
思ったよりやつれていない。顔色も良く、却って少し太ったようだ。
僕を見つめる視線も、思いがけずしっかりとしていた。
「こんにちは――お見舞いですか?」
やっぱり、僕は存在していないらしい。
落胆が顔に出ないように、僕は彼女に笑いかけた。
「ええ、まあ。いかがですか、ご気分は」
回診の医者みたいだ、と苦笑する。
「ありがとうございます。おかげさまで元気です。私も――この子も」
この子? と思って母の手元を見ると、うさぎのぬいぐるみを抱いていた。
今度はさらに時間を逆行して子供に戻っちまったんだろうか。
まあ、もうどうにでもしてくれ。元気ならいいんじゃないか。
「なんか、産後の肥立ちが悪いとかで入院が長引いてしまっているんですけど、
もうそろそろ帰りたいんですよねぇ。上の子も待ってますし」
……産後?
「あの……その子は」
「男の子なんです。もう、主人も娘も大喜びで。2人目なんてあきらめてたんですけど……」
2人目? ……じゃあ、そのうさぎは、僕、か?
「ええと……赤ちゃんの名前は、決まってるんですか?」
いきなりそんなことを聞くのは変だとも思ったが、それが僕のことなのか確かめたいと思った。
「そうですねぇ……まだ届けは出していないんですけど、主人とこの前考えたんですよ。
産まれたのが夜明けの頃で、春らしい空の色がとても綺麗で。だから、春明、て」
そう言って笑う母が、とても幸せそうに見えたのは、僕の希望的観測だろうか。
「――お前、来てたのか」
急に背後から声をかけられて、僕は飛び上がった。
来てたのか、はこっちのセリフだ。まさかこんなところで会うとは思わなかった――父に。

父は僕を見て笑ったものか困ったものか悩んだような顔をしたあと、
とりあえず母のそばに行って隣に座った。
「調子はどうだ?」
「ええ、もうすっかりいいのよ。智子はどうしてる? お義母さん大変じゃないかしら?」
「こっちは大丈夫だよ。心配しないで、ゆっくり体を治しなさい」
こんな穏やかな顔で笑う父を、僕は初めて見たかも知れない。
それに微笑み返す母の明るい顔も。――いや、覚えている。記憶のどこかが、この2人の空気につながっている。
今の僕は、母にとっては他人だ。だから、この場を去るべきなのに、動けなかった。
「ねえ、今この子の名前を聞かれてね、やっぱり春明がいいと思うんだけど、どうかしら」
聞かれた父は、当の本人が目の前にいるものだから、答えづらくて困っていた。
しょうがない。僕は適当にブラブラしているふりで、そこから少し距離を置いた。
「そうだな――いい名前だ」
そう答える父の声が聞こえる。
僕は振り返らなかった。
それでも、分かった。
僕はここにいた。母の腕の中に、父の眼差しの中に、確かに存在していた。

「――元気にしてるのか」
母が病室に戻って休むと言うので、なんとなく駅の近くの喫茶店で父と向かい合うことになった。
「まあね」
いつもこうだ。様子を見に来る父と、僕の最初のやりとりは決まっている。
「もう一度、受験することにした。美大がダメだったら、専門学校も考える。それも合わないと思ったら就職する。
近いうちに、行き先を決めるつもりだから」
一息にそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
そんな僕を見て、父は少し寂しそうな顔をした。
「家には帰って来ないんだな?」
「帰らない――今はね」
こんなふうに話せるのは、アツミのおかげか、母のあの笑顔か。
「母さんは――」
自分のカップには口をつけず、両手で包むようにしながら父が口を開いた。
「あれから少しづつ時間が動き出してるみたいだ。見舞いの人がくれたぬいぐるみを抱いて、
突然『ほら、男の子よ』って言われた時は驚いたがな……。
医者の話では、また一気に時間が進む可能性もあるそうだ。――このまま、ということもあるけどな」
「――姉さんのことは、どうするんだ?」
「私は心配していないよ。智子のことだ、しっかりやってるだろう。もう少し落ち着いたら、きっと連絡してくる」
楽観的だな。こんな人だったのか。
「んじゃ、心配なのは俺だけか」
自嘲気味に笑って言うと、父はまた困った顔をしながらうなずいた。
「まったくだ。親の気も知らないで。母さんも姉さんも、お前のことばかり心配してたんだぞ」
よく言うよ、と思ったが言わずにおいた。
そういうことにしておこう。いつか――母の時間が元に戻り、姉が元気な姿を見せ、僕が前に進める時まで。
「学校に行くのなら、仕送りくらい受け取れ。学費も生活費も稼いでいたら、卒業できなくなるだろう」
そのほうがいいのかも知れない。意地をはりとおすよりも、自分に力をつける時間をもらったほうが。
でもそれよりも、まずは僕が本当に自分で道を拓けるかどうかだ。
「考えとく――必要なら、頼むから」
なんとかそう言った僕を見て、父は少し笑った。
窓から射す陽射しが眩しいと言うように、僕は目をそらしてコーヒーを飲んだ。
いい名前だと、言ってくれた。
春の明け方の空が綺麗で、つけられた名前だった。
お前に話したら、どんな顔をするだろう。
少し驚いて、きっと笑ってくれる。
淳美――。



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