どうやら、まだ生きているようだ。
これを生きていると言うのなら、だけれど。
働ける状態ではなかった。何度か欠勤を繰り返していると、当然バイトはクビになった。
他に時間を使うことも思いつかなかったから、2つかけもちでバイトをしていた。
おかげで少々の貯金はあり、しばらくは生きていけそうだ。
食費はほとんどかからない。最低限命をつないでいる、という感じだった。
一日の大半は眠っている。あれから何日たったのか、分からなかった。
「――だいぶ参ってるみたいね」
どこからか、聞き覚えのある声がした。
「……アツミ、か?」
「当たり。どう? 起きれる?」
「いや……無理みたいだ」
「そう。つらそうね」
歌うようにそう言って、ベッドの横に座る気配がした。
「……お前がやってるのか?」
「何を?」
相変わらず明るい声だ。あの時――押し倒した瞳に浮かんだ色は、気のせいだったのか。
「俺の状態を見れば分かるだろ。このままじゃ死んじまうよな。お前に――殺されるってわけか」
「ひどいわねぇ。それだけしゃべれれば、まだまだ大丈夫なんじゃないの?」
「何が大丈夫なもんかよ――なぁ、殺すんならそれでもいいよ。その前に教えてくれ。お前――何なんだ?」
「さあ、ね。それは春明が見つけて。大丈夫。まだ死んだりしないわ。……また、来るわね」
最後の一言だけが、やけに柔らかく聞こえた。
まだ死んだりしない、か。やっぱり、アツミは僕を殺すつもりなんだろうか。
僕の望むとおりになる、とアツミは言っていた。
淳美のように僕を想ってくれて、可愛い顔と、華奢な身体と、明るい性格。
そして、僕が死ぬこと。
生きてることなんて、どうでも良かった。だから、アツミが言ったとおり、僕の望みは叶えられるんだ。
それならそれでいい。こんな自分がいなくて、誰が悲しむだろう。
このままここで死んだら、部屋の管理人には迷惑な話だよな、と苦笑する。
そうなったら、家に連絡がいくんだろう。
僕が産まれて育った家には、4人の家族がいた。
父親と、母親と、姉と、僕と。
今その家に住むのは、父一人だ。ほとんどいないだろうけど。
――僕の父親は、家にいない人だった。
仕事が忙しいのは確かにあっただろうけど、家族が寝静まった深夜に帰宅して、
僕らが起き出す前に出かけてしまう。
『お父さんは、お仕事なのよ』母親にはそう言われていたけど、いつの頃からか僕は気がついていた。
母は、とても弱い人なのだ。何かに頼って、すべてを決めてもらわないと、生きていけない。
それが父には重荷になっていったんだろうと、分かってきた。
仕事を理由に、ほとんど家に帰らず、父は逃げることを選んだ。
行き場を失った母が見つけたのが、子供だ。
僕じゃない。姉にすっかり頼りきることで、母は自分を保っていた。
姉もまた、頼られるに値する存在だったのだ。
僕より8つも年上で、大学を主席で卒業し、大手の商社に就職した彼女は母の自慢だった。
いずれは優しいお婿さんをもらって、一緒に暮らすんだと考えていたようだ。
その姉が、家出同然に家を出た。
会社の上司と不倫の末、駆け落ちするという安っぽいドラマのような話だった。
5年前に家を出たきり、消息はつかめていない。
その家出をきっかけに、僕の家族は――そして母は、壊れてしまった。
最初に気付いたのは僕だった。
母の他に僕しかいなかったからに違いないのだけれど。
高校生だった僕が朝起きると、ダイニングテーブルにぼんやりと座る母がいた。
あまり関わりたくなくて支度をして出かけようとする僕に、母は言った。
『娘が――まだ帰って来ないんです』その、他人行儀な言い方に、僕は背中が凍った。
それでもなんとか普通にしようと思い、きっと結婚して元気にしてるよ、と言ってやった。
そんな僕に、母は笑い出した。『智子が、結婚? 何を言い出すんですか、あの子はまだ小学生ですよ』
当時姉は24歳だ。僕は絶望を覚悟しながら聞いた。智子ちゃんは、いくつなんですか、と。
6歳――そう母は答えた。学校が終わったらまっすぐ帰ってくるはずなのに、まだ帰らない、と。
母の時間が18年前で止まっているなら、16歳の僕は存在しない。
そういうことか、と納得した。彼女が一番帰りたい場所――認めているのは、僕の存在しない世界なんだ。
自分の源である母親に、僕はその存在を否定されたのだ。
こっちが笑い出したくなった。こんな家、俺のほうから否定してやるよ。
母が現在の時間を取り戻すのは、素人には不可能だと思えた。僕は初めて、父の会社に電話をかけた。
『あんたの奥さんが、狂っちまってるよ。このままほっとくと、あんたの社会的地位も危ないと思うけど』
僕の言葉はほとんど脅迫だったろう。父はすぐに会社から戻り、母の様子を見て青くなった。
寝室に母を連れて入り、しばらくいろいろ話していたようだけど、結局さらに顔を青くして、
父は病院に連絡をとり、母を連れていった。
そしてそれきり、母が帰ってくることはなかった。
僕はなんとか高校を卒業し、大学に入る時に一人暮らしを始めた。
家から通えなくもないが、母と姉の匂いの残るあの家で暮らすのはもう嫌だった。
希望していた美大には落ちた。適当に選んだ私大での生活は単調で、
自分のいる場所ではない、という気がしていた。
1年で、退学を決めた。
その時ばかりは、父も血相を変えて僕に会いに来た。
どうしても美大に行きたい、という僕に、それなら家に帰って来いと言った。
冗談じゃない。僕はあの家はもう捨てたんだ。
仕送りはいらない。自分で生活費を稼いで、受験し直す。合格したら、奨学金をもらって卒業して、自分で返す。
そんな夢みたいな話を父が信じたとは思えないが、僕を家に帰すのは諦めたようだ。
結局――今年は受験しなかった。来年受ける気も、だんだんと薄れてきた。
高校までの友達も、僕の家の事情をどこかから聞きつけたのか、ほとんど関わることはしなくなった。
そんな頃に、どうしても人数が合わないからと、合コンに誘われた。
普通なら興味もないそんな集まりに出かけたのは、
多少なりとも人とのつながりを保ちたいという本能だったのかも知れない。
そして――淳美に会った。
おとなしい娘だな、と思った。場慣れしてる連中が盛り上がるのを、にこにこと見ている。
僕のほうも、あまり知らない女の子と話すのは気が乗らず、適当に相槌を打つくらいだった。
帰りはそれぞれ気に入った相手を送っていくことになり、最後に残ったのが僕と淳美だ。
送って行く道でも、たいしたことは話さなかった。
帰り際に、『今度電話するよ――良ければ』と言ってしまったのは何故だろう。
ちょっとびっくりした顔をして、小さく笑って頷いた。
あの笑顔が、すべての始まりだった。
「あら、起きた?」
目を開けると、アツミの笑顔が見えた。一瞬、どこまでが夢で、どこから現実なのか分からなくなる。
こうしている今も、現実ではないのかも知れないけれど。
「少し元気になったと思うけど――どう?」
言われてみれば、体が軽い気がする。やっぱり、アツミがコントロールしてるのか。
「はい、あ〜ん。なんてねー」
明るく笑って、おかゆらしきものが入ったスプーンを差し出す。
「……毒じゃねぇだろうな」
「もー、すぐそういうこと言う。いいから食べて。はい」
口に入れられたおかゆは、うまかった。ひさしぶりに味がある気がした。
「お前……俺に何したんだ」
「聞きたい?」
小首をかしげて、お得意の笑顔。こいつが普通の人間だったら、まわりの男がほっとかないだろう。
つまり、僕の彼女になるなんてことは、まず在り得ない。
「迷ったんだけど……やっぱりつらいのよね。春明が弱ってくのは」
「……よく言うよ」
「ほんとだってば。だから、とりあえず元気にしたんじゃない。他はもうどうしようもないけど」
「――他?」
「……淳美さんは、春明のこと忘れてるわ。ついでに、あなたと淳美さんのことを知ってるお友達も。
バイトも辞めちゃったし、春明のそばにいられるのはあたしだけね」
「満足か?」
「……まあ、ね」
力なく笑う。
「別にいいよ。会いたいやつもいないし…向こうも別に、俺がいないからってどうってこともないだろ」
「……そんな言い方ばっかり」
淳美と同じことを言う。こいつの言うことが本当なら、それも当たり前か。
「淳美にしたって……このほうがあいつにはいいんだろうし。俺といても、いいことないしな」
「そんなことないって、言って欲しいの?」
「まさか。事実だろ。俺じゃあいつとは釣り合わないよ。もっと……まともなやつと付き合えばいい」
「本気で言ってるの?」
「……アツミ?」
僕の服の襟をつかんだアツミの瞳が、揺れていた。
「まともなやつって何よ、釣り合わないって何よ。どれだけ春明のこと心配して、悩んでるか知らないくせに。
どうしたら、その心の中にある傷を少しでも癒せるのか、
いつになったら、つらいこと全部話してくれるか、待ってるのに。
傷ついてる、孤独だって示すだけで、何も話してくれないじゃない。
何があったんだろう、どこまで聞いたらいいんだろう、どうすれば、
もっと近付けるんだろうって、いつも思ってるのに」
こいつは、淳美じゃない。
淳美は、今、別の時間を生きてる。僕と関係のない世界にいる。
なのに……どうして、そんな瞳をするんだ。
「どんな春明だって、あたしは好きなのに。あなたに笑っていて欲しいのに。
なんでも話して。つらいことも、悲しいことも。全部――あなたなんだから。
一緒にいたいの。そばにいたいの。あなたが――誰よりも、好き」
僕は起き上がって、泣きじゃくるアツミの髪に触れた。
赤く腫れた目が、戸惑うように揺れる。
「分かってる――そんなこと、全部、分かってるんだ。ゴメン――」
アツミが、僕の胸に飛び込んできた。その細い身体を受け止め、そのまま抱きしめていた。
小さく震える手が、僕の頬に触れる。すがるように見上げるその瞳は――淳美。
いつも、何か言いかけて黙る、淳美の瞳だ。
僕はその瞳に吸い込まれるように、唇を重ねた。
遠くの方から、鳥のさえずりが聞こえる。
夜が明けてしまったらしい。
そう言えば、僕が産まれたのはこんな時間だったと聞いてる。
どうしてそんなことを思い出すんだろう。
僕が産まれたことに、意味なんかないのに。
――どうしようもないな、俺は。
思わず苦笑がもれる。いつまで、いじけているつもりなんだろう。どこまで、自分を追い込む気なんだろう。
そんなことは分かっている。抜け出したいと思っている。
お前を傷つけてることも、分かってるんだ、淳美。
「……どうしたの?」
眠気にくぐもったような声が、僕の左腕の中から聞こえた。
ぼんやりした瞳を開けて、アツミが心配そうに見上げる。
「いや――なんでもない。起こしちゃったか?」
笑って、首を振る。僕の胸に顔を押し付けて、小さく息をつく。
「もう――大丈夫よ」
誰に向かって言ったのか分からないようなつぶやきだった。
言葉と裏腹に、その瞳は悲し気な色をしていて、思わず肩にまわした腕に力を込める。
一瞬、無邪気に笑うと、また泣き出しそうな瞳をふせる。
僕の肩に唇を押し当てたアツミはもう一度、大丈夫よ、とつぶやいた。
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