2.
久しぶりに入る自分の実家は、何だか他人の家みたいに空気の違いが気になった。
「いったい何事?」
困った顔の母に、ことさらおどけた調子で言ってみる。
気を利かせたのか夏菜と叔母さんは自分の家に引っ込んでしまい、玄関で靴を脱ぐ僕に、母が抑えた声で言った。
「――良なんだけどね」
「良?」
「さっき帰ってきたんだけど……いきなり変なこと言い出すから」
「変なことって、何が」
いいから、と母に背中を押されるようにして、居間に入る。
珍しくテレビも点けずに静かな部屋で、弟が床にあぐらをかいて座っていた。
「よ。ただいま」
「……おかえり」
「何か変なこと言い出したって? 熱でもあんのか?」
そう言った僕の背中を母が小突く。
「いて」
「賢一、ご飯は?」
「まだだけど……」
「何か作るわ。話してて」
僕は首を捻って、良と対角になるように座った。
「何したんだ、おまえ」
「別に」
「良、お兄ちゃんにちゃんと話しなさい」
お兄ちゃん、なんて呼ばれたのはいつのことだったか。
無意識に煙草を取り出して、煙が嫌いな良の視線に気付いてまたポケットに戻す。
「……いいよ、吸えば」
「いや。何か知らんが、話があるなら話せ」
「別にたいしたことじゃないけど……俺、学校辞めるから」
「はあ?」
良は大学二年の秋にイギリスに留学し、一年経って帰って来た。
こっちの学校を卒業するにはまだ単位が足らず、この春からまた大学に通い始めたところだった。
ちゃんと授業を受けているのかと心配になるほど、バイトにばかり時間を使っていたけれど。
「……辞めて、どうする気」
「向こうでもう少し勉強したい。家には迷惑かけないから。少しは貯金もできてきたし、なんとかする」
「金の話じゃねぇよ」
僕はやっぱり煙草を出した。母が黙って灰皿を出してくれる。
「悪いけど、吸うぞ」
「いいって」
火を点けた煙草をゆっくりと吸い、良のいる方を避けて煙を吐き出す。
初めて煙草を吸ったのは、高校生の頃だった。 父が吸っていたし、まわりの友達の影響もあって、当たり前のように思っていた。
――それから間もなく死んだ父の姿に、自分を重ねていたのもあるかも知れない。
最初に吸い込んだ煙はひどく辛くて、頭がクラクラした。
今は煙草を吸う人のいないこの家で吸うことが、少し悪いことのような気がして、そんなことを思い出す。
同じく誰も煙草を吸わない夏菜の家では、何とも思わないのに。
「……それで?」
「それだけだよ」
「違うでしょ」
何か炒める音の向こうで、母が強張った声を上げた。
「……で、俺、ここ出てくから」
「ここって、家を、か?」
「そう」
「おまえな、いつも言ってるだろ。順序立てて分かるように話せ。
何で、出てく必要がある? 向こうに永住でもすんのか?」
「それはない。資金ができたら勉強しに行く。帰って来たら、こっちで就職する」
「なら、今の学校をちゃんと卒業してからにしろ。向こうでって、英語の勉強がしたいのか?」
良はイギリスで英会話のスクールに通っていたはずだった。
「いや。建築」
「建築? 今と全然違うじゃないか。おまえ、社会学部だろ」
「だから、意味のない勉強するくらいなら、辞めて、働いて、好きな勉強するほうがいいだろ」
「……なんでいきなり建築なんだよ」
「向こうでいろいろ見て……建築の勉強してる友達ができて、話を聞いてるうちに、自分でもやりたくなったんだよ」
とにかく、どこか違う国に行って暮らしてみたい、というのが留学のきっかけだった。
そんないい加減な、と思ったが、英会話を身につけることは無駄じゃないだろうし、
行ってみれば気が済むだろうと気軽に送り出した。
そこでやりたいことが見つかって、自分の将来を決めることができたのは、良かったんだろうとは思う。
「でもさ」
僕は煙草を消して、良に向き直った。
「そんなに焦ることはないだろ。あと1年も通えば卒業できるんだし、それからそっちの勉強したらいいじゃないか」
「誰が、その資金を稼ぐわけ?」
「……バイトは続けるんだろ? 俺だって、援助してやるから」
「それがイヤなんだよ」
ずっと床に視線を落としていた良が、顔を上げて僕を睨んだ。
「兄貴には関係ないだろ。俺が、自分で稼いで、自分で勉強しに行く。だから、無駄なことは辞める」
「分かったようなこと言うな」
僕は背中を伸ばすようにして、良を睨み返した。
「じゃあ何のために大学に入った。こっちの大学を出てるかどうかが、ここでは重要なんだよ。
フラフラするのは、卒業してからにしろ」
「……そういう考え方が合わないって言ってんだ」
「何?」
「意味もなくやりたくない勉強して、就職するために卒業して。そんな時間は無駄だって、兄貴は分かんねぇだろ」
「どっちにしろ、日本で就職するんだろうが。履歴書に書けることがあるかどうかで、
おまえのやりたいこともできなくなるんだぞ。こっちで食ってく気なら、甘く見るんじゃない」
「だから、自分で……」
「金貯めて向こうで勉強して来ましたって、履歴書に書く気か?
代わりに卒業証書持ってくほうが、受け入れてくれる場は増えるんだよ。早まるな」
「そんな企業なら願い下げだね」
「なら一生フラフラしてろ。甘ったれた考えのヤツに仕事されるほうが、社会の迷惑だ」
いつの間にか台所の物音は止んでいた。母が息を詰めてこちらを伺う気配を感じながら少し姿勢を変える。
――何を、言えばいい。
先に社会に出て暮らす僕にとって正しいことと、良にとって正しいことのギャップをどう埋めればいい。
「それは兄貴の迷惑なだけだろ。弟の俺がフラフラしてたんじゃみっともないって」
ひねくれた言い方をする良の横顔に、子供の頃の面影を見つけた気がして僕は苦笑した。
「誰がそんなこと言ったよ。俺はおまえに建築を諦めろって言ってるんじゃない。
やりたいことをやるには、そこのルールに従えってことだ」
「俺は俺のルールに従う。意味のない勉強を続けて時間を無駄にするのは、ルールに反する」
良の叩きつけるような口調に、苛立ちが増す。何が俺のルールだ、甘えるな。
「だったら、一人で仕事見つけて来れるんだな? どこの企業にも関わらずに、自分で食って行けるとでも言うのか」
「少なくとも、兄貴の言うようなルールの中で仕事する気はない」
「それが甘えだって、分かんねぇのかおまえは」
「ああ、分かんねぇよ! 分かりたくもないね。だからこんな家は出て行くって言ってんだ。放っとけよ!」
「賢一!」
僕は思わず腰を上げ、左手で良の胸倉をつかんでいた。
固めた拳を宙に浮かせたままの僕に、良が嗤った。
「……殴れば?」
「――おまえ、何考えてんだ」
「いいから、殴れよ。兄貴は親父の代わりなんだろ? だから俺に説教もするし、殴る権利もあるんだろ?」
言い終わらないうちに、僕はその左頬に拳を叩きつけていた。ガタン、と音を立てて良が床に肘を付く。
「やめなさい! いい年して何やってんの!」
母の声に、良が体を起こした。つかみかかって来ると思って身構えた僕を見て口の端を上げる。
「……ナメてんのか」
「何だと?」
「手加減しやがって。兄貴はいつだってそうだよ。俺をガキだと思ってる。
そう思いたけりゃ思えよ。その代わり放っといてくれ!」
立ち上がった良が居間のドアから飛び出して行き、続いて玄関で物音がした。
「良! ちょっと、賢一……」
「……放っとけってんだから、放っとけば」
「何言ってんのよあんたまで……」
僕はゆっくりと息を吐き出して、再び煙草に火を点けた。
初めて吸った時より、よっぽどまずい気がした。
軽く食事を済ませて、良はどうせすぐに帰って来るだろうから心配しないようにと母に言って、外に出た。
泊まっていったら、と言われたけれど、今日は部屋に帰ったほうがいいだろうと思う。
――しばらく、何も考えたくなかった。
春の夜の空気はゆったりと重くて、生暖かい風が吹いている。
どこからか甘い花の香りがして、それがあの夜の公園で嗅いだのと同じ匂いだと気付く。
――二年前、こっちに帰って来た僕を送ると言い出した夏菜と公園まで歩いた。
まだ子供だと思っていた。いつの間にあんな瞳をするようになったんだろう。
喉まで出かかった『好きだ』という言葉を、飲み込むだけで精一杯だった。
――兄貴はいつだってそうだよ。
まったくだ。夏菜も、良も、もう子供じゃない。僕が自分の思うことをそのまま話しても、きっと受け入れられる。
なのに、僕はどうしても自分を出し切れていないように思う。誰に対しても。
思い切り殴ってやれば、あいつも殴り返してきたのかも知れない。
……夏菜が心配しているだろうな、と思う。携帯を取り出しかけて、少し迷った。
今会えば、何か情けないことを言ってしまいそうで。
本当は、僕の知らないところで知らない男と話しているのだって気になる。 夏菜の両親が簡単に言う『結婚』だって、考えてる。
もし今、僕がそんなことを言えば、きっと誰も反対はしない。――ひょっとしたら夏菜も、迷わず頷いてくれるかも知れない。
それでもいいかと、思わないこともない。
僕と一緒に暮らして、そこから学校に通えばいい。
子供なんてまだ先でいいから、夏菜が仕事をしたいならすればいいし、しなくてもなんとか食わせてやれる。
――僕はそれで良くても、夏菜はどうだろう。
これから先たくさん出会うことになる選択肢を、僕が奪うことになってしまうのじゃないか。
去年の夏、一ヶ月の出張に出ている間、そんなことを考えた。何度も電話を手にして、結局はかけることができなかった。
離れているのがつらかったのは、僕のほうだ。
声を聞けば、会いたくなる。帰ったらすぐに、一緒に住もうと言い出してしまいそうになる。
だから、何も言えなかった。
「あ、やっぱりケンちゃん」
いきなり声をかけられて、僕は飛び上がりそうになった。コンビニの袋を手にした夏菜が、小走りに駆け寄って来る。
「どうしたの? 何があったの?」
「――いや、別に。おまえ一人で買い物行ってたのか?」
「うん。大丈夫だよ。近くだし」
「何買ったんだ?」
「へへ、ちょっとね」
「何だよ」
「……明日穿くストッキングが無いのに気付いたの。聞かないでよもう」
「ずいぶんでかいストッキングだな」
どう見ても、プリンやチョコの箱が見えるんだが。
「これはついで。……それで、どうしたの?」
「うん……まあ、良がちょっと」
「良くん?」
僕は空を見上げて少し考えた。余計な心配はかけたくない。けれど、今、夏菜に話してしまいたいとも思う僕がいた。
「……俺、今帰るとこだから……少し車ん中で話すか」
実家の車庫を出て少し走ったところの路地に車を停める。 暖房がいらない季節になったから、エンジンを止めた車の中は静かだった。
「そうか……。良くん、そう言ってたんだ」
「ああ。まったく、分かってないっつうか」
「そうかなぁ。あたしもそうすると思うけど」
「え?」
「だって、タダじゃないんだよ? 伯母さんやケンちゃんにお金出してもらって、
したくない勉強するなんて、我慢できないんじゃない?」
「……そんな殊勝なことは言ってなかったけどな」
「良くん、伯母さんに無理してほしくないんだよ。ケンちゃんに頼るのもイヤなんだろうし」
「学生なんだから、当たり前だろ」
「それは、今の学校を普通に卒業したいならね。どうなるか分からないことをやるのに、迷惑かけたくないんだと思う」
「……おまえには、分かるんだな」
「ケンちゃんにだって分かるでしょ? もし良くんと同じ立場だったらって考えたら」
「俺なら、まず卒業するけど」
「うん。そうだと思う。でもそうしたらやりたい勉強をするために、またお金を出してもらわないとならないんだよ。
それでなきゃ、そのために働く時間の分だけ、就職できるのが遅くなるんだよね。
――早く就職して安心させたいのと、自分のやりたいことを諦めたくないのとで、迷った結果じゃないのかな」
僕はきっとひどく情けない顔をしていたんだろう。夏菜が腕を伸ばして、そっと僕の髪に触れた。
「ケンちゃんはきっと、方向転換するのにすごく抵抗を持つよね。もしかしたら、やりたいことを諦めちゃうのかも知れない。
――それはあなたの優しさだと思うし、良くんの選んだことも、伯母さんやケンちゃんのことを想う気持ちからなんだよ」
いったいどこで、こんな力を身に付けたんだろう。夏菜は僕よりもずっと鮮やかに、その壁を越えようとしている。
銀色のバーに向かって飛ぶ夏菜の姿が浮かんだ。
いつの間にか、そんなに高く飛べるようになっていたんだな。
僕の顔を覗きこんだ夏菜が、柔らかく微笑んだ。
「だから、あたしはあんまり心配してないんだ。 ケンちゃんも良くんも、相手のことを想う気持ちが強い人だから、大丈夫だって」
「……そうかな」
「そうだよ。他人を大事にできる人は、自分も大事にしてくれるもの。あたしや伯母さんが心配するようなこと、しないでしょ」
きっとこれが、夏菜の愛し方だ。
僕を受け入れて、そっと背中を押してくれる。
まだ二十歳にもならない夏菜がそこまで考えるのは、簡単じゃないだろう。そうさせたのは、僕かも知れない。
――僕が、もっと、強ければ。
「――どうしたの?」
僕は腰を前にずらして、夏菜の肩に額を押し付けた。
情けない。
それでも今は、この温かさに包まれていたい。
「夏菜……」
「……うん?」
「俺、やっぱ……おまえがいないとダメだ」
夏菜の髪からは、さっきの花の匂いにも似た甘い香りがした。
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