1.
競技の終ったグラウンドの中で、陽に透けた夏菜の髪がいつもより明るく見えた。
ジャージ姿で、黙々と用具の片付けをしている様子を見ながら、僕は席を立って後ろの壁にもたれる。
――どうして、ここまで来たんだろう。
夏菜がマネージャーを務める陸上部は、この大会でたいした成績は残せなかったようだ。
それでも競技に打ち込む部員達の表情は、僕には眩しく見えた。
その中にいる夏菜も、僕からは遠い所にいるようで――こんな所で眺めている自分が、情けなくなってくる。
思ったより早く仕事を上がれて、でも夏菜は大会に出ているはずだから、
終った頃に電話をしようかと考えて、結局、ここまで来てしまった。
『付き合ってくれ、って』合宿の日に夏菜に告白したという男の顔を、見てみたかったのかも知れない。
短距離の競技で何度か名前を呼ばれていた『池田智仁』というのが夏菜のいう部長の先輩らしいけれど、
遠くから見ている僕にはみんな似たように見えて、どれだか見分けがつかなかった。
ふと、片付けが一段落したらしい夏菜が、高飛びのマットに向けて歩き出す。
そう言えば、夏菜は高校の時に高飛びをやってたんだっけ。
あまり本気でやっていたようにも見えなかったけれど、
大学に入って陸上部のマネージャーをやっているのは、その影響なんだろうな。
軽い屈伸運動をして、夏菜が走り出す。
何やってんだ、と思う間もなくバーを飛び越して、どこかにひっかけたのか、派手な音を立てて落とした。
グラウンドに残っていた人達が振り返るのを見て、僕は思わず額に手を当てた。
慌てて後片付けをする夏菜と、すぐに自分の作業に戻る人達の中で、じっと夏菜の方を見ている男がいる。
――あいつか。
夏菜が気が付いて、ぺこりと頭を下げる。そいつも片手を上げて、控え室と思われる方向へ歩いていった。
ああそう、あれがそうなわけね。
だから何だ、と自分に突っ込みたくなる。そいつの顔を見て、何を納得しに来たんだろう。
思えば、ずいぶんと大人気ないことを言ってしまった。
少し照れくさそうに告白されたことを話す夏菜を見て、それを僕に言うのは相手に失礼だと嗜めた。
彼にしたら面白くないだろう、なんて言ってしまった。
――俺が、面白くない。
はっきり言って、気に入らない。
男ばかりの中に一人で合宿に行くのも、僕の知らない所でなんだか二人で分かり合ってるのも。
そう言えたら良かったのかも知れない。たぶん、それが正解なんだと知っている。
けれどそうは言えない分だけ、僕はまだ、子供だ。
いったい、僕は夏菜に何を望むんだろう。
そばにいてほしい。一緒に歩いてほしい。でも、夏菜は自分の速度で、自分の世界を歩いている。
目に見えるものは、きっと僕とは違う。
軽い足取りで飛ぶように歩く夏菜を、自分の高さまで引き摺り下ろすのは、正しいことなんだろうか。
同じような軽さで歩いていける相手を、与えてやるべきじゃないのか――。
夏菜が顔を上げて、僕とまともに目が合った。ごまかしようがなくて、仕方なく笑ってみせる。
びっくりした顔から、弾けるような笑顔になって、夏菜が駆けて来る。
「――ケンちゃん!」
観客席に駆け込んで来た夏菜は、彼女だけが呼ぶ僕の名前を呼んだ。
僕の一番好きな、あの笑顔で。
「あら、まーくん」
玄関を開けた叔母さんは、相変わらずの調子で明るく言った。
「久しぶり。――夏菜、帰ってる?」
「まだよぉ。なんか今日は、ミーティングが長引くんだって。バイトも始めたし、この頃遅いんだから」
「ああ、そう」
金曜日の夜、僕は久しぶりに実家に帰った。
仕事の都合で一人で暮らす部屋から電車で1時間。従妹の夏菜の家とは隣同士になる。
看護師をしている母は留守がちで、8つ下の弟の良は、
留学先のイギリスから戻って来るなり、またバイト三昧の日々を送っている。
十年近く前に父親を事故で亡くした僕には、叔父夫婦が育ての親のようなものだった。
「まーくん、ご飯食べるでしょ?」
「あ、うん。夏菜が帰ってからでいいよ」
「ダメダメ、あの子は最近家で夕飯食べるほうが少ないんだから」
しょうがねぇな、とため息が出る。まあでも、僕も学生の頃はそんなもんだったかも知れない。
「うちのお袋は? 夜勤?」
「今日は日勤のはずだから、そろそろ帰るんじゃないの?」
なかなか連絡の取れない家族の代わりに、叔母さんがみんなの動向を把握してくれているので助かる。
食卓には、すでに晩酌の体制についた叔父さんがいた。
「お、賢一、久しぶりじゃないか」
「うん。まあ、たまには顔出さないとね」
「そうそう。どうせならこっちに住んじゃえばいいのに」
「それじゃ部屋借りてる意味ないだろ」
まったく、たまに僕はどこが自分の家なんだか分からなくなる。
誰もいない実家に帰るより、ついこっちの家に帰ってきてしまうのだ。
「じゃあもうちょっと広いとこ借りて、夏菜も連れていけば?」
「……それが年頃の娘を持つ母親の言葉ですか」
「いいじゃない、そのうち結婚するんだろうし」
これだ。
僕だって、近い将来そうなれればいいと思わないわけじゃない。
実際、三十歳の大台まで秒読み段階に入って、いい加減に一人でいるのも虚しくなってくる。
会社にいれば、嫁さんはどうした、という話になるし、上司からさりげなく出される見合い話を断るのも面倒になってきた。
かと言って、実は付き合ってるのは十歳下の学生だからまだ結婚できません、とも言いにくい。
でも事実はそうだ。
夏菜はまだ学生で、僕との生活よりも前にやるべきことがたくさんある。
勉強も、バイトも、友達付き合いも、今でなきゃ得られないものをおろそかにしてほしくない。
――本音を言えば、さっさともらって行きたいんだとしても。
上着のポケットで携帯が鳴った。着信音で、夏菜からだと分かる。僕はとりあえず廊下に出て、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『あ、ケンちゃん? 今ねー、ミーティング終ってみんなで飲みに行くって言うから、
ちょっとだけ付き合おうかと思って。でね、終ったら、そっち行っていい?』
「……そっちって、俺んとこか」
『うん。あ、都合悪い? 今、まだ会社?』
「いや、おまえん家」
『え?』
「だから、吉村サンのお宅」
『いやー、何それー』
「何それっておまえな……たまに顔出しに来てみればいなかったのはおまえだろ」
『だって、今日来るなんて思わなかったんだもん』
「いいから、早く帰って来い」
『うー。少しだけ参加しますって言っちゃったよ』
誰に言ったんだよ。あいつかよ。
「……分かった」
『何が?』
「店どこだ。迎えに行くから。それまで『だけ』付き合え」
『……はーい』
何をムキになっているんだろう。二年生になった夏菜は相変わらず陸上部のマネージャーを続けていて、
最近やっと後輩のマネージャーが入ったと言っていた。
だから、女子は一人じゃなくなって少なからずほっとしていたのだけれど『あいつ』はまだたまに顔を出すらしい。
部長は引退して、就職に向けて忙しいはずだから来ることはないのに。
今日の飲み会とやらに来てるのかは分からないけど、なんとなくイヤな予感がした。
わざわざ少し付き合う、などと言い出すくらいだから、きっとそこにいるんだろう。
「叔母さん、俺、夏菜迎えに行って来るよ」
「あらま、そうなの? ご飯は?」
「すぐ帰って来る。先に食べてて」
僕はひとつため息をつくと、車のキーを手に外に出た。
居酒屋の前からメールを送ると、夏菜はすぐに出てきた。
ちらりと舌を出して、いたずらが見つかった子供のような顔で助手席に乗り込む。
「ごめんね、せっかく来てたのに」
「……まあ、付き合いも大事だろ」
「今日は一年のマネージャーの子も行くって言うから、あたしが行かないのも悪いかなと思って」
「そうか」
あいつは来てたのか、と訊きたくなるのを堪えて車を発進させる。
「あ、池田先輩がね」
「――えっ?」
いきなりその名前が出たので、僕は少しギクリとした。
「彼氏によろしく、って」
「……そりゃどうも」
無邪気な笑顔で言われると、返す言葉もない。
「妬いてる?」
「別に」
「心配?」
「全然」
ふーんだ、と口を尖らせる夏菜の横顔を盗み見て、僕は笑いを飲み込んだ。
――ここにいろよ。俺の手の中で、どこにも飛んで行ったりせずに。
きっと、幸せにしてやれるから。
胸の奥からそんな言葉が飛び出しそうになって、僕は家の手前で車を路肩に寄せて停めた。
「……あれ? どうしたの?」
キョロキョロする夏菜の腕をつかんで引き寄せ、いきなり唇を重ねた。
「……っ、ケン、ちゃん?」
息をする間も惜しくて、無茶苦茶に抱きしめて閉じ込める。自分の中に、こんな熱さがあったことが、意外だった。
「……今日は、ここまでだからさ」
「――やっぱり、ダメ?」
「ダメ。叔母さんにメシ食うって言っちまったし」
うー、と唸って僕の胸を叩く夏菜の顔を覗き込んで笑う。
「だから、今度からもっとはやく連絡しろって」
「……ケンちゃん」
「ん?」
「ほんとは、妬いてるでしょ?」
目をキラキラさせて笑う夏菜を睨むと、口の端を両側からつまんで、うにーっと引っ張ってやった。
「ひにゃにゃにゃにゃ!」
「変な反応すんな」
「痛ーい。もう、オバキューになるじゃないのよ」
笑いながら車を出し、角をひとつ曲がると、門の前で立ち話をする人影があった。
「あ、伯母さん帰ってたんだ。――お母さんと、何話してんだろ」
僕の車に気が付いた母が駆け寄って来る。とりあえず車を停めて、サイドウィンドウを下ろした。
「何。どうかしたの」
「賢一、ちょっとこっち帰って来てくれない」
「え? うち? なんで」
「いいから、ちょっと」
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