3.
書類をまとめて時計を見ると、夜七時を過ぎていた。
今日は早く終ったほうだな、と考えて、他にやることを思いつかないうちに帰り支度をする。
――最近、やけに疲れているような気がした。
良は家を飛び出して、勝手に部屋を借りてきてしまった。
もう僕への報告は済んだものと思っているらしく、必要な手続きだけを母に押し付けて、出て行った。
夏休みが始まる前に退学届けも出し、前からバイトしていた店で働いているという。
僕は結局一度も良と顔を合わすことはなく、実家には母が一人で住んでいる。 隣に叔母さん達がいるから大丈夫だとは思うけど。
良はバーテンの仕事だけで、留学資金まで貯められるんだろうか。
夏菜の言うように経済的なことが動機なら、家を出るデメリットのほうが大きいんじゃないだろうか。
とにかく、今は放っておくしかない。
もうすぐ夏も終る。
相変わらず夏菜と一緒に過ごせる時間は少ないけれど、その短い時間があるからなんとか毎日を過ごしている感じだった。
良が出て行ったことで、僕は思ったよりもダメージを受けている。
「あ、良かった。主任、まだいたんですね」
「いや、もういない。帰った」
「は?」
「今日はもう帰りました。お疲れ様」
「主任ー! 頼みますよぉ。この書類だけ見て下さい、お願いします」
今年入社した後輩に拝み倒されて、僕はしぶしぶ書類を受け取った。
専門学校卒で入ってきた橋本という男は、ちょこまかとしていて何かとうるさい。
「……ここ、計算違ってる」
「え! マジすか?」
僕は丸めた書類で橋本の頭をはたいた。
「それはやめろって言ってんだろ。いつまで学生でいる気だ」
「あ、すいません。えーと、本当ですか?」
「本当です。ここと、ここな。やり直し。で、こっちももうちょっと簡潔に内容まとめて書け」
テストの添削をする教師のように、赤ペンで修正を入れてやった。まったく、世話が焼ける。
「うがー、完璧だと思ったのになー」
「十年早い。明日までにやっとけ」
「うっす」
「違う」
「はいっ」
疲れが倍増した気がして、僕は力なく鞄を手にした。
ここから一時間弱。もっと会社に近いところに部屋を借りても良かったんだけれど、
実家や夏菜の家との距離も考えて今のところに決めた。
家賃の割りに小奇麗で気に入ってはいる。僕は風呂とトイレが一緒になっているのがイヤでワンルームは避けていたから、
1DKで風呂トイレ別になっている部屋が見つかったのは、ラッキーかも知れない。
それでもこんな日は、そこまでの距離が結構つらかった。
コンコン、とドアを叩く音がして、見覚えのある顔が覗く。
「さ……藤村?」
「はぁい、お久しぶり」
「おまえ、何だその頭」
半年ぶりに見る小枝子は、背中まであったストレートの髪をすっぱりとショートにしていた。
セミロングの夏菜よりずっと短い。すらりと背の高い小枝子がそういう髪にすると、モデルか何かのように見える。
「うっわー、藤村さん、かっこいいっスね!」
「ありがとう。一応褒め言葉と思っておくわ」
僕はもう一度橋本の頭をはたいた。
「野上クン、もう上がり?」
「ああ、うん」
「じゃちょっと付き合ってよ。話があるの」
「話、ですか」
「おまえじゃねぇよ」
「あ、はい、分かってます」
「下で待ってるわ。時間は取らせないから」
小枝子がひらひらと手を振って部屋を出て行くと、ぽかんと口を開けて見送っていた橋本が首を振った。
「いやー、いいですよね、藤村さん」
「何がいいんだよ」
「こう、大人って感じじゃないスか。いいなあ、あんな彼女」
「誰の彼女だ」
「あ、違うんですか? 俺てっきり」
「違うって。ただの同僚だよ。それぞれ別に相手がいるから」
「え、じゃあ、主任、奥さんいたんスか!」
「何で奥さんになる。……まだ結婚はしてないよ」
「いや俺、藤村さんと付き合ってるから結婚しないんだと思ってました」
「勝手に推測すんな。書類直しとけよ」
「はい」
「お疲れ」
こっちが疲れた。ネクタイを緩めて降りて行くと、一階のロビーの柱にもたれて小枝子が立っていた。
「どうした?」
「うん、まあね。……時間、大丈夫?」
「ああ、別に。メシでも食うか?」
「そうね」
髪の短い小枝子は、知らない人のように見える。いつもの明るい瞳にもどことなく翳が差して、僕は少し緊張していた。
たまに寄る和食の店は、テーブルの間の仕切りが高くて個室のような雰囲気だった。
適当に料理や飲み物を注文して煙草を取り出すと、おしぼりで手を拭いていた小枝子が顔を上げる。
「あ、煙草、いいか?」
「何言ってんのよ今さら」
「おまえは止めたんだっけ」
「とっくにね」
だんだんといつものペースが戻ってきて、僕は息をつく。 平日の店は空いていて、少しばかり疲れが取れていくような気がした。
「賢一、何かあったの?」
「は? 何で」
「元気ないみたいよ」
「ああ……ちょっと家のほうがゴタゴタしてたけど、もう別に」
「彼女と?」
「いや、そっちは何とも」
「結婚しちゃえばいいのに」
「簡単に言うなよ」
苦笑した僕に、小枝子は、そうね、と呟いた。どうも、いつものペースとまではいかないらしい。
「おまえこそどうしたんだよ。改まってさ」
「うん……」
そこでビールが来て、いくつか料理も運ばれて来た。とりあえず互いのコップに注いで、なんとなく乾杯をする。
「――私、来月で辞めることにしたから」
「煙草をか?」
「違うわよ」
上目使いに僕を見た小枝子が、小さく笑う。手の中のコップに目を落とし、一口飲んでからやっと顔を上げた。
「会社」
「……結婚?」
「ならいいんだけどね」
「何かあったのか」
「……いろいろ」
取り皿に料理を取り分けると、一つを僕のほうに差し出してくれる。
「ああ、サンキュ。――で、どうすんだ」
「そうね……まずは実家に帰るかな。親も若くないし、一度戻らないと」
「仕事は?」
「うん。どこか探すことになるわね」
「まあ、おまえなら……どこでも大丈夫だと思うけど」
「ありがとう。ま、なんとかなると思うわ」
会社を辞める理由は、どうも訊きづらいような気がした。
話がある、と言った割りに、小枝子は肝心のところはぼかして会話をしている。
それからしばらくは、僕のいる事務所の近況などを話しながら食事をした。
「訊かないの?」
「……何を」
「辞める理由」
「それを話しに来たんじゃないのか?」
「どうかなぁ。とりあえず、辞めることは言っておこうかと思って」
「若いもんにイジメられたか?」
「失礼ね。そんなんじゃないわよ」
「ま、それはないな。逆はあっても」
小枝子が頬を膨らませて、僕の足を蹴った。そんなしぐさをすると、妙に可愛らしい。
「……別れることになったから」
「誰と? って、彼氏か」
「そう」
「それが会社と……関係ある相手なわけだ」
「そう」
「……おまえが辞めるほどのことなのか?」
「そう」
「おい、他になんか言うことないのかよ」
「あのねぇ、すごく言いづらいのよね。……特に、賢一には」
「何で。俺の知ってるヤツ? ……別にそれは、個人的な事情だからさ。おまえが辞めることはないと思うけど」
「そう言うと思ったけどね。……しょうがないのよ。最初からこうなる覚悟はしてたんだから」
イヤな感じがした。
店のざわめきが急に遠くに聞こえて、足元が落ち着かなくなる。――その先の答えを、たぶん、僕は知ってる。
「……やっぱり、そうか」
「気付いてたでしょ?」
「まさかとは思ってた……つうか、思いたかったんだな」
「素直じゃない」
「最近は。ちょっと弱ってるから」
僕は片手を上げて店の人を呼び、ビールを追加した。
「……課長だろ」
「そう」
小枝子の直属の課長は、元は僕の上司だ。前の事務所にいた頃は、それこそ橋本のようなレベルから世話になっていた。
僕が二年前に転属になっても気にかけてくれて、時々飲みに誘われることもある。
――僕と同期入社の小枝子が『課長補佐』という役職についたのは少し気になっていた。
それは他の社員にとっても同じことで――言ってみれば、私情をはさんだ人事だったわけだ。
「私としては、正しい恋愛だったから……たくさん得るものがあったし、後悔はしてないわ。
だからって、堂々とし過ぎたのかもね。いつの間にか噂になってて、 それが奥さんの耳に入って、部長の耳に入って……て感じ」
「課長は」
「ん?」
「変わりなしか」
「そりゃそうよ」
こういう場合、小枝子が辞めるのが一番の解決ということになっている。
このまま会社に残ったとしても、つらい思いをするのは小枝子だ。――会社なんてものは、人間の集まりだから。
「だからね、私はもうこれでいいのよ。けど賢一はきっと、納得しないだろうと思って」
「俺が納得する必要あんのか?」
「そうひねくれないでよ」
テーブルの上に投げ出された僕の左手を叩いて、笑う。
そんな企業は願い下げ、か。
僕はどうして、この会社にいるんだろう。仕事は嫌いじゃない。楽しいと思うこともある。
大学を卒業してからずっと、ここが自分の居場所だと信じて疑わなかった。
けれど、どうしてもここにいたいという理由は、あるんだろうか。
もうきっと、課長に対して前のような親しみは持てない。友人である小枝子とのことを抜きにして、気楽に話なんかできない。
「……俺は、ガキだからな」
「あら、自覚した?」
「そう来るか」
「それが賢一なんじゃないの? ガキでもなんでも、許せないものは許せないでしょ。
あんたはそれでいいのよ。で、私はこれでいいの」
「……ああ、そう」
他にどう言えばいいんだ。僕にできることは、あまりにも少ない。
僕はテーブルに肘をついて、片手で顔を覆った。
「ごめん、イヤなこと聞かせたわね。でも、黙っていなくなるのも悪いと思って」
「……うん。分かった」
「大丈夫?」
「ああ。……何にしても、おまえと課長の問題だから……俺は、今後のおまえのことを応援するぐらいしかできない」
「なんか本当に弱ってるみたいね。もっと怒るかと思ったわ」
「分かんねぇ。怒ってるのかも知れない。課長の顔見たら、ぶん殴るかも知れない」
「賢一が? なんか想像つかないわ。本気で怒ったり殴ったりなんて」
「――たまにはある」
「あら、そう? ……それで落ち込んでるのね?」
「さあ……どうかな」
少し酔いが回ってきたみたいだ。僕は苦笑して顔を擦ると、煙草に火を点けた。
良を殴ったことで落ち込むほど、僕は優しい人間なんだろうか。
「そんなわけで多方面にご迷惑をおかけしますけれど、私は結構さっぱりしてるから。ご心配なく」
「……本当のこと言えば?」
そう言った僕を睨んだ小枝子の瞳が、ふいに揺れた。泣き出すのかと思ったら、鼻の頭にしわを寄せて笑う。
「言ってるわよ、本当のこと。賢一には」
「……だったら、俺が言うことはないよ」
「ま、実家もそう遠いわけじゃないし、たまには飲みにでも行きましょ」
「そうだな」
「これきり会えないわけじゃないけど」
「うん」
「なんなら、もう1回寝とく?」
ギョッとして顔を上げた僕を見る小枝子の瞳は、笑っていなかった。
その一瞬で、空気の流れが変わる。
うまく吸い込めなくなった酸素を求めるように口を開くと、小枝子が笑った。
「もう期限切れよね」
「……どういう意味だそりゃ」
「いろんな意味」
「確かに」
2人で同時に吹き出して、ひとしきり笑う。――僕にはもう、彼女の幸せを願うことくらいしか、できない。
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