3月も半ばに入って、暖かい日と寒い日が入れ替わりにやってくるようになった。
いわゆる『三寒四温』ってやつだな、と、僕はどんよりと曇った空を見上げて考えた。
D社への納品も無事に済み、僕らはまた当たり前のように仕事をこなしていく。
外回りに歩き、データの整理をし、打ち合わせをして、会議に出て。
有也は、相変わらず明るい。
『この話は終りだ』と僕に言い捨てた時の、彼にしては冷たい視線を思い出す。
心配そうに見ていた亜希子の瞳と、黙って道路の向こう側を歩いて行った有也の後姿が、今も僕の頭の中に残っていた。
――本当に、向いていないのかも知れない。
入社してから4年間営業部に籍を置き、それなりに自分の仕事をこなして来たつもりだった。
特に何の疑問も持たず――いや、浮かんでくる疑問を追い払いながら、やるべきことをひとつひとつ積み上げて来た。
このあと何年も、何十年も、ここでこうやって自分の奥底からこみ上げる叫びに、目を瞑って行くのだろうか。
そこに、何があるというのだろう。
「……疲れてる?」
公園のベンチの隣に座った朋佳が、コーヒー牛乳の紙パックのストローから口を離して僕を見上げた。
昼休みにばったり会社の玄関先で会い、珍しく食事の時間が重なったので、何か買って来て一緒に食おうと誘ったのは僕だ。
コンビニでそれぞれ好きな物を買い、会社の向かいにある広い公園のベンチに座って食べていた。
「ああ、いや、ごめん」
「ううん。忙しそうだもんね」
朋佳に会ったら、いろんなことを話したいと思っていたはずなのに、いざこうして一緒にいる時間ができると、何も浮かばない。
口の端まで言葉が上りそうになると、決まってあのミスのこと、
その後の僕ら3人のことが、水溜りに氷が張るように広がってくる。
休み時間はあと20分ほどしかない。僕は息を吐いて軽く首を横に振ると、唇の端を上げた。
「……最近、調子悪いみたいでさ。悪いな」
「え? 体?」
「いや、そういうわけじゃないけど。何か、ついてないっつうか」
僕は務めて軽い言い方を心がけた。
こんなこと誰にでもあるよな、調子のいい時ばかりじゃないよな、と、同意を求めたいのかも知れない。
けれど、どうしても愚痴になりそうで、僕は言葉の終りを濁した。
「そっか……。何かあったの? 私に話しても、仕事のことじゃ役に立てないけど」
「たいしたことじゃないよ。まあ、俺がちょっとミスして、それももう片付いたんだけど……」
話の流れから、今月の初めに取った契約の発注ミスのことや『Bグループ』での僕らの変な気の遣い合いを、僕は口にした。
もちろん、有也が亜希子を好きらしいということや、亜希子の家庭の事情まではさすがに言わなかった。
「……会社って言っても、人間の集まりだもんね」
「そうだな。どうやっても、仕事を確実にするだけの道具にはなれないよ。感情も、好不調もある」
言い訳だ。そうやって僕は、いつも自分を正当化しているに過ぎない。
「うん。1人で何でもできるわけじゃないから、互いに気を遣うのは仕方が無いと思うよ」
「まあね。……それをしなくなったら、仕事にならないからな」
みんながみんな、自分のしたいことばかりを言って、相手を気にせずに仕事ができたら、こんな楽な話はない。
でもやっぱり、こうやって気を遣い合い、それぞれにいろんなことをガマンしているからこそ、
会社というもの、社会というものが成り立っているのは確かだ。
「俺、何かの職人にでもなれば良かったなぁ」
「どうしたのいきなり」
笑った朋佳に苦笑して見せて、僕は再び曇った空を見上げる。
「1人で地味に何か造ってさ。まあそれを売ったりなんだり、人間関係とはまるきり無縁じゃいられないけど」
「……なんか、永峰君じゃないみたい」
「え?」
「もっと、人と関わることって言うか……人の間にいることが、上手な人に見えたから」
「……俺が?」
「うん。そっか。そうだね。あたしが知ってる永峰君なんて、きっとほんの一部なんだろうな」
1人で納得して目の前の噴水を見つめる朋佳の横顔を、僕は改めて見た。
薄く化粧をした顔。整えられた眉の形。赤みがかった明るい色の髪が、彼女の首筋で軽く跳ねている。
そうか、年末に会ってから、髪が伸びたんだな。
頬のあたりに残る柔らかなラインに、真っ直ぐな黒い髪に縁取られた肌の白さを思い出す。
息をするのも苦しい気がする夏の校庭の陽射しの中で、くっきりと黒い、肩で切り揃えられた髪と、真っ直ぐな瞳。
黙って見つめる僕を不思議そうに見返す瞳だけが、変わらない色を残していた。
「ごめん、勝手な解釈だったかな」
困った顔で笑う朋佳に、笑って首を横に振る。
「いや。きっと岸田が知ってる俺は、そうだったんじゃないかと思うよ」
「今は、違う?」
「違うな。あの頃みたいに、自分のことだけ考えてもいられない。
――けど、自分のことばかり考えちまうから、こうなるんだろう」
「永峰君が?」
「うん?」
「だって、みんなのリーダーになって、勉強も部活もこなして、学校の行事も進めて、自分のことばかりなんかじゃ」
「いや、自分のことしか見えてなかった」
僕は朋佳が言ってくれている言葉が終らないうちに口を挟んだ。
今だから分かる。同級生にも後輩にも、教師達にも、僕はまとめ役でデキのいいリーダーだった。
そういう自分を作って、それが自分だと信じようとした。
本当の僕は、こんなにも簡単に面倒なことから逃げたがっている。人の間にいることを、わずらわしく思っている。
「――違うね」
「何が」
「同じ学校、同じ教室にいて、あたしが見ていたものと、永峰君に見えていた景色は、違うんだ」
「……そりゃ、そうだろう」
50人近くいたクラスで、同じものを見ていたヤツなんて、いない。
バカな話をして、適当に楽しく、適当に無気力に過ごした10代の僕らは、
内側に巣食う自分の本質になんか、気付いてもいなかった。
その本質を探す一方で、そこから目を逸らすことしかできなかった。
あの頃の僕らに見えていたものなんて、どこまでが真実だっただろう。
いや、そうやって怖いものなしの顔をしていた時間こそが、真実に近いのかも知れない。
僕は腕時計に目を落とした。そろそろ戻らないと、午後の会議に間に合わない。
「あ、ごめん、もう行かないとね」
「うん」
中途半端に終った会話をそのままに、僕と朋佳は公園を出て、ロビーで少し関係のない話をして別れた。
さあ、ぼんやりと自分勝手に過ごす時間は終りだ。
僕は気持ちを切り替えるように軽く自分の頬を叩いて、開いたエレベータの扉をくぐった。
「セイ」
こう呼ばれるのは久しぶりな気がする。
その声に一瞬安堵し、振り返った僕の目に映った有也の表情に、再び肩に力が入った。
帰り支度を済ませて横切ったロビーの柱に凭れて、有也が立っていた。
僕を待っていたんだろうか。厳しさの中にどこか迷いを滲ませた顔で、有也が歩いて来る。
「……何?」
「ちょっと聞きたいことがある」
ロビーに人影はない。僕は残業を済ませて出て来たところで、有也は外回りから直帰したはずだった。
亜希子も、もうすでに退社している。
「ああ。じゃ、どこか寄って行くか」
何でもないことのように、いつものことのように、僕は明るくそう言った。
けれど、有也の瞳はそれを跳ねつける光を宿しているように見えた。
「いや、ここでいい。すぐに済む」
「……いったい、何だよ」
「昼間会ってた子、誰だ」
「え?」
朋佳のことだろう。一緒に食事をしてたのを見ていたのか。
「清掃の人だよな」
「……うん。そうだけど」
「彼女か?」
まるでヤキモチを妬いているのかと思うような有也の台詞に、思わず僕は吹き出した。
「違うよ。高校の時の同級生なんだ。偶然ここで会って、今日はたまたま同じ時間に食事になっただけ」
「ああ……そう」
大きく息を吐いた有也の顔に、複雑な色が走る。
ほっとしたような、納得いかないような、そんな自分に嫌気が差しているような顔だった。
「アコが、さ」
「アコちゃん?」
「……おまえを待ってたらしいから」
「え、何で」
「一緒に食事に行こうと思ってたんだろ。
なのに、おまえ外回りからそのままその子と食事に行ったから、アコは、しばらくおまえを探してたらしい」
別に約束した覚えはない。携帯に連絡もなかったし、待っててもらうような理由はなかった。
昼休みから戻った時の亜希子は普通に会議の資料を揃えてくれたし、僕にも特に何も言っていなかった。
「……いや、俺は別に、知らなかった。何も約束してないし」
「あれから、アコはおまえを心配してんだよ」
それは分かる。申し訳ないとも思う。けど。
「だったら、携帯にメールでもくれればいいじゃないか。アコちゃんが待ってるなんて、考えもしなかったよ」
「ああそう。そうだろうな」
どこかバカにしたような響きの有也の声に、こめかみが、ザクン、とひとつ音を立てた。
「……何で、それを俺が責められなきゃいけない?」
「別に責めてねぇよ。ただ、はっきり聞きたいだけだ。おまえ、アコのこと、どうするつもりだ」
「どうするも何も……」
亜希子のことを好きなのは有也じゃないか。おまえこそ、どうするつもりなんだ。
「俺に遠慮してるとか、そういうことか」
「な……」
どうしてそうなるんだ。僕は、亜希子を好きだなんて一言も言ったことはない。
――絶対に違うかと言われれば、答えに詰まるけれど。
深夜のホテルのロビーで、タオルとポーチを抱えて笑っていた亜希子を思い出す。
『セイ君だから、あたし――』深紅の絨毯に吸い込まれた言葉。
無理に笑顔を作った亜希子の、エレベータのドアに閉ざされた瞳。
「そんなわけ、ないだろ。アコちゃんだって、俺のことは別に――」
「そうかな」
「何言ってんだよ。誤解すんな」
黙って僕の目を見つめていた有也が、もう一度大きく息を吐く。
いつから、こんなふうになってしまったんだろう。
僕がしたミスのせいには違いない。
あの一件さえなければ、僕がもっときちんと自分の持ち場をこなしていれば、3人で笑って話せていたのに。
「俺が――悪いんだろ」
「ああ?」
僕が発した声はいつもより低く、苛立ちを含んでいた。それに少し驚いたように、有也が顔を上げた。
「だから、悪いのは俺だろ。俺があんなミスしなきゃ、有也もアコも――」
「てめぇ、人の言うこと聞いてないのかよ」
「聞いてるよ。だから」
「何べん同じこと言えば気が済む? 仲間がちょっとしたミスして、それをフォローして、何が悪い」
「有也が悪いんじゃない、俺が」
「ああそうだよ、おまえが悪いんだよ。ミスしたことじゃねぇ。
それをいつまでもグダグダ言いやがって、アコにも優しいんだか冷たいんだか分からない態度で」
そこまで言うと、自分を抑えるように前髪を掻き上げて僕を睨んだ。
「――いい加減にしろよな」
僕は、何も言い返せなかった。
有也の言葉は、僕を許している。ミスのことを気にするなと、そう言ってくれてる。けれど、亜希子のことは――。
そこまで言うと、有也は黙って踵を返し、外に出て行った。
――それから仕事以外の場所で有也と話すことは、『セイ』と気軽に呼ばれることは、なかった。
あまりにぎやかな店に行く気はしなかった。けれど、間接照明で薄暗く、
ゆったりとした曲が流れるカウンターだけのダイニングバーを選んだのは、ちょっと失敗だったとも思う。
退社間際、亜希子に声をかけられて、一緒に食事に行くことになった。
有也はあれから、僕とも亜希子ともあまり話をしようとしない。
『セイ』『アコ』と呼びかける有也の明るくよく通る声を、僕は忘れてしまいそうな気がしていた。
外回りから直帰してしまったり、接待と称して出かけて行く有也の背中に、かける言葉が見つからない。
それは亜希子も同じようで、何か言いかけては飲み込んでいる様子が伝わってきていた。
「――ユウ君、どうしちゃったのかな」
ぽつりと呟く亜希子に、僕は言葉を探す。これ以上情けないことも言いたくないし、うまい言い訳も出てこない。
「今……K社のほうが忙しいからな」
「でも、いつもセイ君と一緒に行くのに、なんか無理にでも1人で済ませようとしてるみたい」
確かにその通りだ。外線で電話が入ってくると、有也が真っ先に受話器を取る。
K社の人間も、有也が留守だと用件を言わずに電話を切る。
3人で進めてきたはずの仕事が、有也1人と僕と亜希子の2人に分担されてしまったような感じになっていた。
このままでいいはずがない。一度有也と腹を割って話し合う必要があるし、亜希子のことも、はっきりさせなければ。
「アコちゃん……最近はどうなの」
「え? 家のこと?」
「うん」
「……相変わらず。父はほとんど帰ってこないし、姉は父と一緒に家に残るから、
あたしに早めに荷物まとめろとか言うし、母は、あんまり口を利いてくれない」
僕はため息を吐くしかなかった。もういっそのこと、早いとこ有也とくっついてくれたほうがいいんじゃないのか。
「なあ、やっぱり、有也に話そうよ」
「何で?」
「何でって……あいつだってアコちゃんのこと心配してるんだからさ」
「嘘。絶対バカにされるもん。鼻で笑って『そんなことか』って」
確かにそういう台詞を言う有也は容易に想像できたが、いくら何でもそれはないだろうと思う。
「まさか。ちゃんと聞いてくれるよ。話してみろって」
「イ・ヤ」
そう言ってグラスを傾ける亜希子を見て、再び後悔した。やっぱり、ファミレスでもなんでも、明るいところに行けば良かった。
結局店を出る頃には亜希子は千鳥足で、僕も人のことは言えないくらいに意識が回っていた。
2人とも酒に弱いのが分かってるんだから、もうちょっと考えて店を選ぶべきだったんだ。
そう思った時には、タクシーで僕の部屋の前に着いていた。当たり前のように一緒に降りる亜希子を、ぼんやりと見下ろす。
「えーと……アコちゃん、どうすんの?」
「ん、帰るよ。大丈夫」
「って、タクシー帰しちゃったじゃん」
「平気。あっちの通りまで出ればまた拾えるでしょ? お水1杯飲ませて」
「ああ……いいけど」
玄関の鍵を開けて、亜希子を先に部屋に上げる。朝出かけたきりで散らかっていたけれど、あまりそこまで考えが回らなかった。
とりあえずその辺を適当に片付けて、床に座った亜希子に水の入ったコップを渡すと、ネクタイを緩めて息を吐く。
「……どうしようか」
「何が」
「ユウ君のこと。どうすればいいと思う?」
もう、考えるのも面倒になった。第一、亜希子はどうしたいんだ。僕と有也のことを、どう思っているんだ。
「アコちゃんは、どうしたい」
「んー……前みたいに、3人で一緒に遊んだりしたいよ」
「そう。じゃやっぱ、有也にアコちゃんが悩んでること話したほうがいいって」
「だって……」
並んで座った亜希子の瞳が潤んでいるのは酒のせいか、つらいことを思い出したからか。
「俺には話したじゃないか」
「だって、セイ君には、なんか話せるんだもん」
「おいおい」
僕は笑った。決定的な言葉を言わせたいのか、ごまかしてうやむやにしたいのか。
「それじゃ俺のことは信用してくれてるわけだ」
「うん。セイ君は、人を傷付けるようなことしないもん」
何でそう言い切れる。朋佳も、亜希子も、僕を何だと思っているんだ。
「それ、喜んでいいのかな」
「え、何で」
「男としては、あんまり喜べない気がする」
ダメだ。自分の周りの空気がふわふわと揺れていて、現実味がない。細かいことを感じ取る神経が、麻痺していた。
戸惑った亜希子の瞳を見つめて、その肩に手をかける。
「え、ちょっと、セイく……」
そのまま床に押し倒し、亜希子の両手首を掴んで押さえ付けた。
「……俺なんて、そんないいヤツじゃねぇよ」
頭の中で朋佳の言葉が回っていた。人の間にいることが、上手な人に見えたから――。
それは、僕が作った仮面に過ぎない。高校の頃から、それは変わっていない。
本当の自分と向き合ってくれる人なんて、いるわけがない。
「や、待って、離して」
顔を寄せると、亜希子が身をよじって逃れようとする。その白い頬に、朋佳の横顔が重なる。
――何を、やってるんだ、俺は。
僕は亜希子の手を離して、ゆっくりと起き上がった。
「……ごめん」
「どう、したの、急に」
自分が訊きたい。どうしてこんな、バカなことをしたんだろう。
「悪い。もう帰るだろ、送るよ」
「……いいよ。大丈夫」
体を起こした亜希子が、軽く髪を撫で付けて、ぎこちなく笑った。
「じゃ、タクシー拾えるところまで行こう。な」
有也が離れて行って、亜希子とも話ができなくなったら、どうなるのか。
僕だけでなく、3人がそれぞれに仮面を被って仕事をしていくことになるんだろうか。
部屋を出て、広い通りに出る。
しばらく待っていると、空車のランプを点けたタクシーが通りかかったので、僕は少し車道に出て片手を上げた。
「……じゃあね」
「うん」
シートに腰を下ろした亜希子と、一瞬視線が合う。
もう一度謝ろうか、次に会社で会っても普通に話してくれと頼もうかと、迷っているうちにドアが閉まる。
少し硬い笑顔で手を振る亜希子を乗せたタクシーが、赤いテールランプの光を残して去って行っても、
僕はしばらくそこに立ち尽くしていた。