「……では、こちらと……あと、この下の欄にご署名とご捺印をお願い致します。……はい。ええ、そこに」
淀みなく話す有也の声を聞きながら、僕は書類をまとめて確認していった。
応接セットの向かいに座った男が判を押すのを見て、一瞬だけ有也と視線を交わす。
にやりと口の端を上げた有也に軽く笑い返すと、有也が素早く表情を切り替えて正面を向いた。
「はい、では、これで契約完了となります。商品のほうは、遅くとも……
今月の10日までにはお手元に届くように致しますので」
そうですか、と答えた男が腰を浮かすのを見て、僕と有也もソファから立ち上がる。
僕が先に立って応接室のドアを開け、D社の担当の男と有也に続いて部屋を出ると、出口に向かう。
一応僕らを見送るように付いて来た男のほうに向き直り、揃って頭を下げた。
「本日は、ご契約ありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願い致します」
有也の声に合わせて顔を上げ、では、とドアを開けてD社を後にする。
数メートル行った先で有也が僕の側にある左手を上げ、僕は右手でそれをパシンと叩いた。
「やっとだな」
「ああ……マジで長かった。あんのジジイ、ギリギリまで値段下げやがって」
3月に入って、寒さもだいぶ和らいできた。手にした軽いコートを羽織りながら、顔を見合わせて苦笑する。
「ま、でもこれで、とりあえず終ったな」
「甘いぜ、永峰クン。お客様のお手元に商品が無事に届くまでが営業の仕事ってやつよ」
「へいへい。さすがは畠山クンですな」
けっ、と笑った有也の横顔を見上げる。――その視線の先には、何が見えるんだろう。
僕がどうやっても届かない高さまで跳べる力を、どこで手に入れてきたんだろう。
車道のほうを向いて自嘲気味に苦笑した僕は、
この瞬間まで時間を巻き戻したいと思うようになることなど、知る由もなかった。
手元の書類のデータを元に発注書を作成して、製作部行きの社内メールの箱に落とす。
たったそれだけのことだが、僕の持ち場は専らこっちだと割り切って集中することにする。
一通りの打ち込みを終えてプリントアウトし、確認し、
ちょうど通りかかったメール室の子にそれを渡すと、大きく息を吐いた。
タイミングを見計らっていたように、机の上にコーヒーカップが置かれた。
目を上げた僕に笑いかけた亜希子が、口の動きだけで『終った?』と訊いてくる。
僕は亜希子に笑い返して、軽くガッツポーズを作って見せた。
珍しいものを見たと言うように目を丸くしたあとで、笑いを堪えながら給湯室に向かう亜希子を、有也の視線が追っていた。
まずかったかな、と少し考えた僕の目の前に、有也の左手が差し出される。
「……何」
「お疲れ」
「ああ、うん」
仕方なく、その手のひらを軽く叩いて、次の作業への準備を始めた。
これで全部が終ったわけじゃない。また、他の顧客への対応を考え、資料を集めて外回りに出て行く。
僕はもう、それが当たり前だと思えるようになった。そう、思うことにした。
みんなそうやって生きていく。与えられた場所に異議を唱える前に、やるべき努力をする必要がある。
――そう、思うことにしたんだ。
どこの会社に行ったって、どんな仕事をしたって、自分にできることなんてたかが知れている。
余計なことを考える暇があるなら、ひとつでも契約を取ってくればいいだけのことだ。
3年も前に消したはずの痛みが蘇りそうになって、僕は目を閉じて深呼吸をした。
落ち着いて、目に付いたものをひとつづつ片付けていけば、この痛みは引いていく。
ふいに電話の音が鳴り、僕はほとんど無意識に受話器を取り上げた。
「はい、T製作所営業課でございます。――あ、はい、お世話になっております。永峰です」
横目で有也と視線を合わせる。たった今発注書を上げたばかりの、D社の人間からだった。
「何かございましたでしょうか――ええ、はい、10日には間違いなくお手元に届きます」
僕のほうを向いた有也が、目顔でOKのサインを出す。僕は軽く頷いて、壁にかかったカレンダーを見上げた。
「あ、そうですか。ええ、仕上がり次第またこちらからご連絡致しますが、充分間に合いますので。
――はい、確かに承りました」
では失礼致します、と電話を切った僕は、不審な顔でこっちを見ていた有也に向かって肩をすくめて見せた。
「なんかさ、急ぐんだと。10日なら大丈夫だよな?」
「ああ、全然余裕。今度製作のほうに顔出したら、念押しとくよ」
「よろしく」
そう、うちの『顔』は有也だしな。すべてのパイプライン上に、有也がいる。
僕は――自分にできることをするだけだ。それでいい。
例えば、分別、という言葉を辞書で引いてみると、そこには『社会人として求められる、理性的な判断』とある。
僕は何度、それを自分に言い聞かせてきたことだろう。今その言葉は、僕の中で少し形を変えて残っていた。
社会人として求められるもの、それを持っていることが当たり前だということに、僕の体と心は反乱を起こした。
入社して、1年くらいのことだ。
やがて自分を責めることに疲れた僕は専門医にかかることに決め、
少しづつその中に自分を融合させるやり方を覚えていった。
そして、有也と組んで仕事をするようになり、僕の中の、僕としての『分別』によって毎日を過ごしている。
必要な物事と、そうでない物の取捨選択を割り切ってすること。仕事として他人の前で見せる顔を、うまく使い分けること。
そうやって作り上げてきた『仮面』をかぶることによって、今の僕がいる。
有也は、その僕の仮面に気付いた。僕を躊躇なく『セイ』と呼び、
他人との接触を避けて必要な事柄だけをクリアしていこうとする僕を、輪の中へ引き戻す。
笑って、冗談を言って、力強く僕を引き上げる。
その手を握り返す力を、僕は持っているのだろうか。そこから自分の足で歩き出せるものを、僕は得られたのだろうか。
――ただ、会社の中に身を置き、他人と関わって生きていく。
それに医者と薬の力を必要としなくなっただけのことだけれど。
僕と有也と亜希子のバランスが崩れたら、いったいどうなるのだろう。
プライベートの範囲まで『仲間』になってしまった僕らは、どういう形でいることが正しいのだろう。
有也の亜希子への想いが、通じてほしいという気持ちはある。
亜希子にも、有也が仕事のパートナー以外の形で支えてやることが必要だとも思う。
けれど、僕は、どこへ向かえば、いいのだろう。
「……永峰君」
「えっ?」
ふいに声を掛けられて、僕は振り返った。柄の長いモップを持った朋佳が、済まなさそうにこっちを見ている。
「ごめんね、ちょっと、足元いい?」
「――あ、うん」
僕は椅子を引いて立ち上がり、朋佳の後ろまで下がった。
彼女は僕の机の下をモップで拭き、ゴミ箱の中身を空けて、軽く僕に会釈をした。
「すみません、終わりました」
「ああ、いや、ありがとう」
外回りに出ている有也の机の周りを片付けている朋佳の横顔を見ると、思いがけず視線が合った。
「――久しぶり」
「そう言えばそうだな。事務所のほうも掃除するようになったの?」
「うん。1人急に辞めた人がいて、ちょっと分担が変わったから……」
「そうか」
じゃあ、時々こうやって姿を見かけることはできるわけだ。少しくらいは、思い出話をする機会も増えるかも知れない。
有也の机を掃除し終えた朋佳が、僕の机の上に目を向けた。
「忙しそうだね」
「いや、この前一件契約取れたところだから、そうでもないよ」
「そうなんだ。……すごいなあ」
「何が」
思わず僕は苦笑した。それを言う相手は、間違っている。今、空になっている隣の机の上にでも、書き残していってくれ。
「すごいよ。営業って大変なんでしょ? 接待とか、いろいろ。会社の表に立って仕事してるんだもん」
「……大変っつうか、俺は別に、できることしかしてないよ」
「うん。その『できること』が、永峰君にはたくさんあるんだよね」
誤解だ。
朋佳から見れば、僕はそう見えるんだろうか。たくさんのこなすべき事柄を、自分1人の力で乗り越えているように。
「いや、それは……」
言いかけた僕の声が聞こえなかったように、朋佳はもう一度会釈をして他の机の間を回っていく。
その背中を見送って、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた僕は、再び自分の席に戻った。
ここは、どこで、何をする場所だ。有也が亜希子に言った言葉が蘇る。
そうだ。ひとつひとつを乗り越えていくことで、いつかは辿り着きたい場所に出られるはずだ。
――それが、どんな場所なのかは、まだ分からないけれど。
その日は朝から、イヤな予感がした。
というのはきっと、あとからこじつけた僕の言い訳だろう。けれど、何となくすっきりしなかったのは事実だ。
首を捻りながら出社し、外回りを終えて戻って来た事務所は、やけに騒がしかった。
「永峰!」
課長の声に、僕は足を止める。
「はい!」
「これ、おまえらのチームだよな」
「……え?」
事務所の片隅に積み上げられた商品の山。この数は……この前のD社の発注分だろうか。
「ええ、はい、あの……D社さんですよね?」
「そうだよ。昨日の夜、おまえらが帰ったあとにクレームの電話が来た。で、さっき返品されて来たのがこれだ」
「返品……何か、不都合が?」
「品物が、頼んだものと違うらしい。畠山は? 出てるのか?」
「……はい。今日はK社に行ってますから、もうすぐ戻るかと」
「とにかく、至急確認しろ」
「はい」
僕は机に鞄を放り出し、D社からの発注の書類を見た。品数は35。積み上げられたダンボールの数も同じ。
品番……TF7308……違う。これは、TF7303、だ。
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
震えそうになる手を一度強く握って、製作部に送った発注書の控えを探る。
間違いなく、僕が、自分で作ったものだ。手元のD社からの書類と、自分が作成した書類を見比べる。
D社からのものには『TF7308』僕が打ち込んだ書類は『TF7303』。
入力ミスだ。俺の責任だ。
壁のカレンダーを見上げる。今日は7日だ。あと3日で、品物が揃えられるだろうか。
とにかく電話に飛びつき、製作部の担当者を呼び出す。
「あ、どうも、営業の永峰です。すみません、昨日入荷のD社さんの分なんですが、
TF7303、品数35。これ、こちらのミスでして……」
声が上擦りそうになる。事務所に残ったみんなの視線が、自分に集まっているのが分かる。
向かいの席の亜希子も、手を止めて息を呑んで僕を見ていた。
「ええ、あの、TF7308、が正しいんです。10日までに、35個、できないでしょうか」
僕は思わず耳から受話器を離した。製作部の担当者の怒鳴り声が一通り治まるのを待つ。
「すみません! こちらのミスです。D社さんにはもう、10日までとお約束してしまって……ええ、はい、お願いします」
とにかく手を尽くしてみるという製作部に謝り、D社に謝罪の電話を入れる。
耳の奥が、痺れるように痛む。何から手を付ければいいのか。指の先がかじかんだように、自分の思い通りに動かない。
「何だ、何があった」
有也! と叫びそうになる声を飲み込んで、深呼吸する。
「……畠山、スマン、俺のミスだ」
「どういうことだ」
有也に事の成り行きを説明していると、机の電話が内線の受信音を立てる。
「はい。営業課永峰です。……あ、どうですか? え、いや、それは……はい、なんとかします」
「製作か。どうだって」
「……部品が、足りない。EA41が、いつも下請けに出してる所には、もう在庫がないらしい」
今日中に部品を揃えても、10日に間に合うかどうかギリギリだ。
言い換えれば、今日中に部品を揃えなければ、期日までに品物を届けられない。
外はまだ肌寒いくらいの気候だというのに、僕は自分の背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
「とにかく、片っ端から当たれ。EA41、35個だな」
「……うん」
「早くしろ!」
有也の声に、他の下請け会社のリストを繰る。
隣の席の有也も同じようにリストをチェックし、亜希子が立ち上がって駆け寄り、僕と有也の間に腰を落とした。
「私も、電話します。リストは?」
「ああ、じゃあ、ここからここまで、当たってみてくれ。頼む」
亜希子が有也からリストを受け取り、黙って頷くと自分の席に戻って電話をかけ始めた。
僕も手当たり次第に電話をかけるが、今日中に揃えられる所はなかなか見つからない。
時間は昼をとっくに過ぎていた。あまり遠い業者だと、製作部に届くのにまた時間がかかる。
時計の短い針が2にかかろうとしているのを見て、僕は目の前が暗くなるような気がした。
「あ! そうですか!」
有也が受話器を持ったまま、音を立てて立ち上がる。事務所中の視線が彼に集まった。
「ええ、そうなんですよ。はい、もちろん取りに伺います。いやー、広田さんにはもう、お世話になりっ放しで」
張り詰めていた事務所内の空気が、糸が切れたように緩む。お馴染みの有也の営業トークに、みんなが息を吐いた。
「はい、もう、まかせといて下さいよ。その辺はまた、改めて伺いますんで。はい、ええ、2時半には」
静まり返った事務所に、有也が指でOKのサインを出す。僕は凍りつきそうな頭を切り替えて、製作部に電話をかけた。
3時には部品が届く旨を伝えて、どうにか10日に納品できるように頼み込む。
次はD社に再び電話をかけ、同じ内容のことを話して電話を切った。
その間も明るく下請け会社の人を持ち上げていた有也が、僕と合わせたように受話器を下ろした。
「広田工業、EA41、35個。今から取りに行って来る」
「あ、いや、俺が……」
「いいよ、車で飛ばせば30分で往復できる。
あそこの社長は、この前俺に麻雀で勝ったもんだから、多少のことは聞いてくれるんだ」
笑って片目を細めると、僕の肩を叩いた。
「とにかく、行ってくるから。――じゃ、畠山、広田工業行きます。戻りは2時45分。よろしく」
有也の大声に、机の間から『おー』『行ってらっしゃい』という声がかかる。
――僕は、しばらく動けなかった。
その後のことは、自分でもよく覚えていない。
これでミスのフォローは済んだはずだ。ギリギリになってしまったが、希望の期日には、なんとか間に合う。
そう、これでいいんだ。
会社にとってこの程度のことなど、いちいち騒いでいたらキリがない。
有也が馴染みの業者から部品を入荷し、そのまま製作部に直行して打ち合わせを終えて戻ってきた。
僕は、何から謝ればいいのか、それよりもまず、礼を言わなくては、と、うろたえながら有也と視線を合わせた。
「おし、これでOK。心配すんな、間に合うから」
「……ごめん」
「まあそういうこともあるさ。ミスしない人間なんているかよ」
おまえが、そういうことを言うか。
僕は自分の頭の中が、急速に冷えていくのを感じた。
その高さから見下ろす僕は、どんな顔をして見上げればいいと言うのか。
「……永峰?」
「いや……悪かった」
「いいっつってんだろ。もう済んだことだ。気にすんな」
「でも、俺が……」
「だから、誰にでもミスはある。今回はたまたま俺のほうで業者が見つかっただけだ。
第一、10日までって約束したのは、俺だろうが」
返す言葉が見つけられない。僕を引き上げる有也の手が、その明るく笑う瞳が、どんどん遠ざかっていくような気がした。
黙り込む僕に、有也が軽く舌打ちをする。事務所の中も、なんとなく僕らの気配を伺うような空気が漂ってきた。
「本当に、ごめん。おまえに……負担ばっかかけて」
「ああもう、いい加減にしろよ。フォローし合うのがチームだろ。いちいち落ち込むんじゃねぇよ」
苛立った有也の声に、亜希子が腰を浮かせて僕と有也の顔を見比べる。
その視線が僕の上で止まった時、有也が席を立った。
「――この話は、終わりだ。いいな」
僕が返事をする間もなく、有也は机の間をすり抜けて部屋を出て行く。
ああそうだ。話は終わりでも、仕事は終っていない。
他にもやることは、山のようにあるんだ。忘れるな。僕の中の『分別』を。
退社時刻を過ぎたロビーは、閑散としていた。
あれから、有也は戻って来ない。出先から直帰するという電話を、亜希子が受けた。
静まり返った薄暗い空間に、僕は明るい色のツナギを無意識に探す。
こんな時間に会えるわけなどないと、分かっていた。
再会して3ヶ月も経つのに、今の朋佳がどこに住んでいるのかも知らない。
あの笑顔に会って、話をしたいと思うのは、どうしてだろう。――それはきっと、朋佳の中の僕が、今の僕とは違うからだ。
今の、自分1人では何もできないような男ではないから、
朋佳に会って、もっと身軽だった自分をその中に見つけたいのだろうか。
ただの、エゴだ。
僕は何も知らない。朋佳がこの数年間で身に付けた明るさの理由も、今の彼女を取り巻く環境のことも。
有也が本当に考えていることも、亜希子にどうしてやればいいのかも、分かっていない。
エレベータが止まる音がして、僕は思わず振り返った。そこに困った顔の亜希子を見つけて、視線を逸らす。
「……セイ君」
駆け寄ってきた亜希子に、何を言えばいいのか分からない。こんな僕は、放っておいてくれていい。
黙って唇を噛む僕に、亜希子が明るい声を上げた。
「ご飯、食べにいこ?」
「いや、俺は……」
「ね?」
今一番不安なのは、亜希子かも知れない。
自分の問題を抱えて堪えている時に、僕と有也の間に入って、つらい思いをさせている。
僕はようやく微かに唇の端を上げ、軽く頷いて亜希子と2人で会社を出た。
「何食べようか。この前言ってた駅の向こうのお店は?」
「ああ、いいな。たまには静かな所も――」
道路の向かい側の歩道に、有也がいた。一瞬足を止めた僕に無表情な視線を向け、そのまま駅と反対のほうに歩き出す。
「ゆう……」
「え? どうしたの?」
亜希子は気が付かなかったらしい。
足早に遠ざかっていく背中に、僕は地面に貼り付きそうな足をやっとのことで前に出した。
「……何でもない」
小首を傾げた笑顔に笑い返して歩く。
きっと、何か大事なものを見落としている。ポケットからこぼれ落ちた紙くずのように、紛れて消えていこうとしている。
僕は視界の隅でそれを探すように、足元に視線を落として歩いた。