どこからか花の香りがする。
まだ桜には早い季節だけれど、会社の向かいの公園では、散歩やジョギングをする人や
小さい子供を遊ばせる母親達が多く見られるようになってきた。
春、か。
大きな白い花を付けたコブシの木を見上げて、道路を渡る。
会社のロビーに立って見回してみるけれど、朋佳の姿も、他の清掃員の姿も見えなかった。
仕事は、途切れることなくやってくる。僕の、僕ら3人の上にのしかかる空気を押しのけて、次々と。
本当に必要な言葉は、こんなにも少なかったのかと思う。
打ち合わせ、外回り、会議、接待。
笑顔で会話をする時間が、そのまま仕事の時間になる。それ以外には、なれない。
時折、何か言いかけて黙るという共通点を抱えたまま、僕達は歯車のひとつとして動き続けていた。
「あれ、永峰じゃないか」
いったんすれ違った男の声に振り返る。
ダークグレイのスーツを着てカーキ色のコートを手にした笑顔は、会社訪問の時と変わらなかった。
「あ、野上先輩。お久しぶりです」
「よせよ『先輩』は」
照れたように笑うこの人は、僕の大学のOBだ。
就職活動の時に訪ねて話を聞き、入社が決まって挨拶に行って以来、2、3度顔を合わせたくらいであまり付き合いはない。
「今日は、こっちに用事ですか」
「うん。今度新しく出るヤツの概要をな、そっちの課長に届けて来た」
「そうですか。企画、忙しそうですね」
ここから電車で5駅ほど離れた支社の企画開発課にいる彼は、最近主任になったと聞いている。
「まあな。今度のTS5806には力入れてるから。よろしく頼むよ」
「はい。――あの」
「うん?」
軽く眉を上げて僕を見る瞳に、僕は答えを探す。
――ここじゃない、どこか。
それは逃げることになるんだろうか。本当に自分がいられる場所を手に入れたいと思うのは、逃げ、なんだろうか。
「今度、お話聞かせてもらえませんか」
「話? 何の」
「いえ、あの、……企画のほうの」
「5806か? とりあえず俺が担当だけど、製作のラインに乗ったらまた詳しく話しに来るぞ」
「そうじゃなくて、えー……企画の仕事って、どんななのか、とか」
営業、辞めたいんです、という言葉を口にできない僕は、言葉を選んで視線を泳がせる。
なんとなく察してもらえたのか、野上さんが苦笑して僕の肩を叩いた。
「ちょっと今月は忙しいけど、この件が落ち着いたらでいいか?」
「あ、はい。俺は、いつでも」
「ってわけにもいかないだろ。営業は営業でいろいろあるし」
自分の今いる場所を忘れるな、と言われているような気がした。僕は曖昧に微笑んで視線を逸らす。
「4月過ぎたら時間取るよ。携帯、変えてないよな」
「はい。メールでもいいんで」
「分かった。まあ、軽く飲みにでも――って、おまえ酒ダメだったな。メシでも行くか」
「すいません。はい」
じゃ、と片手を上げて玄関に向かう人に、軽く頭を下げる。
また、有也と亜希子との距離を広げているのかも知れないと、頭の隅で考えた。
今日もいない。
辞めてしまったんだろうか。それとも他の会社に行くようになったのか。
何度か清掃会社のピンクのツナギや、白いワゴン車を見かけることはあったけれど、朋佳には会えずにいた。
しばらく来ていた事務所の掃除も、今は別の人が回って来る。
珍しく定時に会社を出た僕は、駐車場に駐めてあるワゴン車を覗き込んだ。
モップやバケツ、洗剤類の入った箱、灰色に汚れた雑巾、軍手やゴム手袋の山。
有也は接待に出かけた。亜希子は帰り際に挨拶をしただけで、他の女の子とのおしゃべりに加わっているのを見かけたきりだ。
ワゴン車の横には清掃会社の名前と住所、電話番号が書いてある。
僕は携帯のメモ機能を使ってそれらを書き写し、少し迷ってから駅に向かった。
――意外と、大きい会社なんだな。
5階建てのビル、並んだ白いワゴン車。駐車場の隅に干されているツナギやタオルが、風に揺れていた。
朋佳がいるという保障はない。第一、彼女がここの社員なのかバイトなのかすら、僕は知らなかった。
何時までの仕事なのか、どの地区を担当してるのか。
自分のバカさ加減とここまで来た勢いに呆れながら突っ立っていると、
何人かの女性が談笑しながら駐車場に面したドアを開けて出て来るのに気付いた。
「あ、あの、すみません」
「はい?」
40代から50代と見える彼女達は、不思議そうな顔で僕を見上げた。
「ええと、知り合いがここにいると思うんですけど……。岸田さんって、まだいますか?」
「岸田さん……どこのチームだったかしら」
先頭にいた女性が首を捻っていると、後ろのほうから声が上がった。
「ああ、まだ若い子よね?」
「ええ、はい。僕と同じくらいなんですけど」
同じくらいも何も、同級生だ。
「確か、今はCチームよね」
「そう? じゃ、さっき帰って来たところじゃない?」
「もう少しすれば出て来ると思うわよ」
口ぐちに言う彼女達に、どうも、と頭を下げて、僕は再び駐車場に取り残された。
――それから20分ほどして出て来たグループの中にいた朋佳が、僕を見て目を丸くする。
「え、何、どうしたの」
「ごめん、急に」
一緒に出て来た女性達が僕と朋佳の顔を見比べて、じゃあお先に、と笑って歩いて行く。
「……びっくりした」
「だよな。――最近見ないから、どうしたのかと思って」
「よくここが分かったね」
「悪い、うちに来てた車見て、それで」
今日の仕事は一通り片付いたのか、駐車場一杯に駐められた白いワゴン車を指してそう言う。
「どうかしたの?」
「いや、そういうわけでもないんだけど……時間あったら、メシでもどうかな、と」
少しの間戸惑ったように僕の顔と会社の建物との間を往復していた朋佳の瞳が、柔らかく細められた。
「……うん、いいよ」
駅前のビルの最上階にあるレストランの窓際の席で、向かい合って食事をした。
考えてみれば、私服の朋佳を見るのはこれが初めてだ。
高校の時にしろ、最近にしろ、僕の知っている朋佳は、いつも制服姿だった。
オフホワイトのハイネックのセーター。細い糸で編まれた柔らかそうなセーターは、朋佳に良く似合っていた。
グレーのジーンズに、黒いスニーカー。普段の通勤着といった感じの服装から彼女の今の生活は読み取れない。
「仕事、どう?」
僕の言葉にスープのボウルから顔を上げた朋佳が、軽く首を傾げて微笑む。
「うん、だいぶ慣れてきたかな。結構担当の場所や一緒に組む人がころころ変わるから、初めは困ったけど」
「そういうものなんだ」
「みたいね。長いことやってる人もいるけど、入れ替わりが激しいから。今はちょうど、学生が揃って辞めちゃう時期だし」
「――岸田は、長いの?」
「んー……半年くらい。しばらく実家にいたんだけど」
少し言いにくそうな顔をして、スプーンを使い始める。
「じゃ、今、実家じゃないんだ」
「うん……そう。アパート借りて1人で住んでるよ」
なんとなく歯切れの悪い言い方に、僕は話の矛先を変えることにした。
「うちの会社には、来てる?」
「行ってるよ。今は会議室をメインに回ってるから、あんまり会わないんじゃないかな」
「そうか。俺も外出るしな」
「でしょ。会議室は、もちろん使ってない時に掃除するんだし」
「だよな」
笑って言った僕を見上げると、思い出したように苦笑する。
「何?」
「ううん……なんか、すごいなって」
「は? 何が」
「あたしが、永峰君と、一緒に食事して話してるなんて」
どこか自嘲的に笑う朋佳の顔が、夏の校庭に重なる。
あたしがここにいても、誰も、何も、言わない――。
「……それのどこがすごいわけ?」
「うーん、きっと、あの頃のクラスの人が見たら、びっくりするよ」
「そうかな。何か変か?」
「そうじゃなくて……永峰君だって、分かってるでしょ?」
ウエイターが近付いて来て僕と朋佳の前に料理を並べ、空になったボウルを下げて行った。
黙ってナイフとフォークを手にした朋佳が、僕を見上げる。
「食べないの?」
「あ、いや。食うけどさ」
しばらくは、カトラリーと皿の触れ合う音だけが聞こえた。静かな店内のBGMに、今さらのように耳を傾ける。
「……今は、どうなのかな」
呟くような朋佳の声に、僕は口もとに上げかけたフォークを戻した。
「何が」
「今の学校ではさ、イジメって、どうなってるんだろうね」
話の内容と裏腹に、朋佳は明るく笑って言った。
「……さあ。中にはひどいのもあるみたいだけどな」
「うん。たまにニュースで聞くよね。でもあたし達の頃は、もっと、普通だったような気がする」
「普通?」
イジメ、と、普通、の言葉がつながらない。僕は眉を寄せて相変わらず明るい朋佳の視線の先を追った。
窓の下には、夜景が広がっている。にぎやかな駅前の繁華街。遠くに見える住宅地。
その窓のひとつひとつに、いろんな暮らしがあって、いろんな想いがある。
「なんて言うのかな、あたしはあの頃、淘汰されてたんだと思う」
「淘汰?」
僕は食事の手を止めて、朋佳の言った単語を繰り返す。
「そう。自然淘汰。あたしは成るべくして、イジメの対象になった、てこと」
橋詰栄子の顔が浮かんだ。実際に、朋佳がイジメに遭っている現場に居合わせたことはない。
けれど、クラスのみんなが気付いていたことだった。
気付いていながら、誰も、何も、しなかった。――そう、それは僕も同じだ。
「……ごめん」
「え、何で?」
「いや、俺、何もしてやれなかった。……分かってたのに」
「そんなこと」
朋佳は笑って料理を口に運び、あ、これおいしい、と言ってもう一度笑った。
「だから、自然淘汰だって言うのよ。誰のせいでもないし、誰にも止められない」
彼女の言った言葉を頭の中で反芻する。
僕の両手はナイフとフォークを使い、口に食べ物を運んでいたけれど、
それはどこか別の場所に吸い込まれていくような気がした。
「……あたしのいた場所からは、永峰君は、一番高い所にいたよね」
「俺が?」
「うん。そこから見えるのは、どんな景色なんだろうって思った。
一度でいいから、永峰君の見えるものを見て、話がしてみたいと思った」
カチャン、と甲高い音が鳴った。
それは僕の手からすべり落ちたフォークが、皿のふちに当たって立てた音だった。
――そこから見える、景色は。
有也の笑顔。自信に満ちた声。僕を呼ぶ『セイ』という名前。
それなら今の僕は、どこまで堕ちているというのだろう。
「……大げさだな」
僕は苦笑して、食事を再開した。何を言えばいいのか考える。
どんなことを言っても自分を卑下する言葉になりそうで、何も出てこない。
「そうかもね。もう、8年も経つんだし、みんな――変わったよね」
「ああ」
そう返事をしたけれど、僕の中の声はそれを否定していた。
――何も、変わっちゃいない。俺は、今も、昔も、たいしたヤツじゃないんだ。
朋佳の部屋はそこから電車で2駅先だと言うので、僕はそこまで送って行くことにした。
その間も朋佳はどこかはしゃいだ様子で、時折、やっぱりすごい、と言って笑った。
「――何だよ、俺はそんなにスターか?」
「スターって、何。やだ、死語だよそれ」
僕の腕を叩いて笑う、その明るい笑顔。
まるで薄い皮を一枚脱ぎ捨てたように大人の女性になった朋佳に、僕はあの頃の面影を探す。
――今、気付いた。
僕は、朋佳を見ていた。
教室の片隅で。輪になって騒ぐクラスメートから1歩離れた所で、息を潜めている彼女を、見ていた。
あの夏の焼け付くような陽射し。ひび割れたコンクリートの水飲み場。風に揺れる制服のリボン。
その黒い瞳に映るのは、どんな景色だったのか。同じ目の高さに立って、同じ物を見て、話がしたいと思っていたのは、僕だ。
そして、今、僕の隣で明るく笑う朋佳を、知りたい。
何を想って、誰を見つめて、どんな暮らしをしているのか。
「あ、ここだよ。ありがとう」
2階建ての小さなアパートの前で、朋佳が足を止めた。
「うわー、永峰君に送ってもらっちゃった。すごいな」
「だから、それやめろって」
「やめなかったら、どうする?」
「今度から俺を『スター』と呼ばせる」
声を上げて笑った朋佳が、慌てて口を押さえた。夜の人声は響く。僕らは顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「ほんと、ありがとう。ここまで送ってもらっちゃって」
「いや、明日休みだし。いいよ」
「そっか。あたしは明日もお仕事。土曜日は病院とか行くことが多いんだ」
「へえ」
僕は少しためらってから訊いた。
「……じゃ、いつが休みなの」
「ん? 日曜日と、水曜日。あたしは、バイトだから」
じゃあ、日曜日なら会えるのか。そう訊きかけて、それより前に、僕が休日に朋佳を誘ってもいいのかどうか、
つまりは、彼氏がいるのかどうかを訊くのが先か、と考えた。
けれどいきなりそんなことも訊けない。
「んじゃ……また、食事とか、行く?」
「え? いいの?」
「いや、いいから言ってるんだけど」
妙に照れくさい気がして視線を逸らした僕に、朋佳は小さく笑った。
「うん。ありがと」
「ま、俺も、うち帰っても1人だし」
実家もそう遠くはないけれど、通勤に不便なので就職の時に部屋を借りた。それを言うと、朋佳の瞳が少し哀しげに細められる。
「……そっか」
「何かまずいこと言ったか?」
「ううん。じゃ、また、時間あったら、話したいね」
「ああ」
思いがけず、視線が合った。吸い寄せられるように、朋佳の黒い瞳から目が離せない。
僕は彼女の肩に伸ばしかけた右手を強く握って、息を吐いた。
ごまかすように上着のポケットを探って、携帯を取り出す。
「これ、良かったら」
プロフィールの画面を呼び出して見せると、朋佳もバッグから携帯を取り出した。
互いの電話番号とメールアドレスを交換して、部屋に入る朋佳と手を振り合って僕は駅に向かう。
久しぶりに見上げる夜空が、やけに綺麗に見えた。
自分の部屋に向かう坂道を上っていると、甘い香りがした。
これは分かる。沈丁花だ。
そうか、春か、と、僕は改めて思った。――もし、野上さんの話を聞いて、それが可能ならば。
僕は企画開発課に異動願いを出そう。受理されるかどうか分からないけれど、とりあえず動いてみよう。
有也と亜希子と、営業の仕事から逃げることになるのかも知れない。けど、僕はやっぱり営業には向かない。
4年続けてみて、僕の『分別』で行動してきて、そう思った。
きっと、有也も亜希子も、話せば分かってくれる。
話してみよう。その必要がある。まずは有也と。そして亜希子と。
3人がそれぞれに想っていることを、伝えなくちゃいけない。大事な『仲間』であることには、変わりない。
そこまで考えた所で、アパートの前に立つ人影に気付いた。
「……よぉ」
少し疲れた顔をして片手を上げる。一度自分の部屋に帰ったのか、ジーンズにトレーナーの普段着姿の有也がそこにいた。