僕はこの瞬間が一番苦手だ。
大きなスクリーンに映し出された滑走路を走るジェット機が、スピードを上げていく。
そろそろ来るぞ、と思う間もなくジェット機はその鼻先を上に向け、
それに合わせて機内も斜めに傾き、ふわり、と宙に浮かぶ。
本当なら誰かの手を掴みたい衝動に駆られるのだが、僕は窓の外に目を向けたまま、座席の肘掛を掴んで堪えた。
飛行機に乗るのなんて、久しぶりだった。飛び始めれば、どうってことはない。
どんどん小さくなる地上の景色が、パズルか何かのように思えてくる。
ゆっくりと詰めていた息を吐き出して、隣の有也のほうを伺うと、イヤホンを耳にはさんで機嫌良さそうに雑誌を捲っていた。
2月の半ば、うちの営業課の社員旅行は、北海道に決まった。当然、目的はスキーかスノーボードということになる。
僕はスノボの経験はなかったが、スキーなら大学時代に何度か行ったので、まあ何とかなるだろう、と思っていた。
スノボ派の有也は、北海道は雪質が違うとか、3泊4日の間にもうひとつ技を身に付けるんだとか、はしゃいでいた。
――あれから、亜希子の話は出ない。
亜希子自身も、僕や有也に対する態度はまるで変わらなかったし、
あの年末の夜に僕に抱きついたことなど、すっかり忘れているようだった。
窓際の席にいる僕は、真ん中の列の前のほうにいる亜希子に視線を向ける。
座席に遮られてほとんどその姿は見えなかったけれど、時折こげ茶色の髪が揺れるのが視界に入った。
『ユウ君なんて』そう言っていた亜希子の複雑な表情を思い出す。
あの時僕は、ケンカした恋人のグチを聞かされているような気にもなった。
結局はやっぱり『安全パイ』なんじゃないだろうか。
あの2人がくっついたらいろいろとやりにくくなると思っていたけれど、どうせくっつくならさっさと勝手にやってほしい。
いつの間にか雑誌を膝に乗せて目を閉じている有也の横顔を見て、その足を蹴飛ばしてやりたくなったが、やめておいた。
そして2人の曖昧な態度と、僕のため息とを乗せて、ジェット機は千歳空港へと降りて行った。
天気は上々だった。真っ青な空にくっきりと稜線を浮かび上がらせる雪山を見上げて、僕は足元の雪を蹴って滑り出した。
会社の仲間は『スキー派』と『スノボ派』と『観光派』とに分かれて行動している。
割合は3:5:2くらいで、若手の中ではスキーしかできない僕は、少しばかり肩身の狭い思いを強いられていた。
有也はもちろんスノボで、後輩の女の子に教えてやったりしているのをさっき見かけた。
亜希子は、どういう訳か観光のグループに入って、朝からバスで出かけている。
今日はカニ市場に行っておみやげを買うと言うので、僕と有也の分も頼んでおいた。
ボーリングでは結構いいスコアを出すのに、こういうスポーツは苦手なのか、
仲の良い子達が観光に行っているのか、どっちかだろう。
年明けから、うちの『Bチーム』は微妙な感じだった。
あの夜僕に相談したことで少しは気が晴れたのか、亜希子はだいぶ落ち着いて仕事をこなすようになっていた。
有也も、何もなかったようにムードメーカーの役割を果たしている。
何となく、胸の奥にもやもやしたものを抱えているのは、僕だけなのかも知れない。
右足に重心をかけて左にターンし、リフト乗り場に近い場所まで滑り込む。
サングラスを通した景色にスノーボードのコースがあって、赤いウエアの男が段差をジャンプして滑り降りて来た。
……いちいち派手なヤツだよな。
僕は自分の紺色のウエアを見下ろして、この旅行で何度目になるか分からないため息を吐いた。
「おー、セイ、今の見たか?」
片足をボードから外しながら、有也が大声で言う。周りに2、3人の女の子がいたが、おかまいなしだ。
「見たよ。派手に飛んでたな」
「最後のか? あんなもんじゃねぇよ。最初のほうのターン、見てなかったのかよ」
「知らねぇよ。俺は別におまえのファンじゃないから」
「何だ、機嫌悪いな」
「別に」
肩をすくめた有也に、女の子達が寄って来る。
初心者向けスノボ講座が始まってしまったようなので、僕は黙ってリフトのほうに板をスケーティングさせて進んで行った。
「セイ、おまえ何匹頼んだ?」
「はあ?」
「カニだよ、カニ」
「いや、えーと、2匹くらいかな」
おみやげと言ったって、実家に持って行くくらいしか思いつかない。
だから亜希子には、僕の部屋に宛てて送ってもらうよう頼んでおいた。
「ふーん」
「何だよ」
「いや。んじゃ、あとでな」
手を振る有也にストックを上げて、リフト乗り場の列に並んだ。
――互いに、亜希子の話の核心には触れないまま、旅行は明日で終る。
何も起きてほしくないような、いっそのこと有也が行動を起こして
亜希子の気持ちをはっきり確かめてほしいような、複雑な気分だった。
宴もたけなわ、なんて言葉があったな。
たけなわって何だろう。どういう意味で用いられた言葉なんだろう。
とにかく、営業課社員旅行最後の夜の宴会は、かなり盛り上がっていた。
普段のストレスが、ここで発散されているのかも知れない。
僕は、自分もそういうタイプであれば楽なのに、という思いに1人で苦笑した。
女子社員の何人かは、もう部屋に引き上げている。亜希子の姿も見えなかった。
課長に捕まっていた有也がようやく僕の隣の席に戻って来て、肩凝りをほぐすようなしぐさをする。
「あー参った」
「何の話だ?」
「D社の件だよ。年末の接待ではいいセン行くと思ったからそう言ったのに、まだ返事来ないじゃんか。
それで、ケツを叩かれてたってとこだな」
僕には何も言ってこない課長のほうに視線を向けると、他のチームの社員を捕まえて何やら肩を叩いて話している。
まあ結局、うちのリーダーは有也ってことで。
酒のせいかどうか、僕は何だか他人事のように笑いがこみ上げてきた。
「ったく、こういう時くらい仕事の話はやめてほしいよなあ。無礼講で、なんて言ってたのは誰だってんだよ」
「あそこのハゲたオヤジだろ」
「うお、言うなあ、おまえにしちゃ」
何だろう。おかしくて仕方がない。そんなに飲んだ覚えはないけど、楽しいんだか情けないんだか分からない気分だった。
いっそのこと、大声で笑うか泣くかしてみたらどうだろう。
そんなことができるなら、あの頃、僕は――。
「そろそろ部屋戻るか。あと残ってんのは上のに捕まってるヤツばかりだしな」
「ああ。俺らも逃げたほうが良さそうだな」
僕はそう言って立ち上がる。眩暈のように、天井が一回転した。
白だ。
今日のゲレンデの雪。夏の校庭の乾いた土。僕を見上げる朋佳の、黒い瞳。
「おい! 大丈夫かよ」
有也に腕を掴まれて我に返った。やっぱり僕は、アルコールはダメらしい。
「うん」
「しょうがねぇな、ほら、ちょっと待ってろ」
僕は有也に引きずられるようにして、ロビーのソファに座らされた。
ほどなくして、有也がウーロン茶のペットボトルを持って戻ってくる。
「これ飲んでアルコール出しちまえ」
「ああ、悪い……サンキュ」
もらった冷たいウーロン茶を飲んでいると、隣に座った有也が何度が口を開きかけてやめた。
「何」
「いや……大丈夫か?」
「うん」
「あのさ、アコなんだけど……やっぱ、変だと思わねぇか」
亜希子なら、最近は落ち着いているように見える。
少なくとも、落ち込んでいた原因を知っている僕から見れば、まあなんとか人前では明るく振舞っていると思えた。
「そうかな」
「ああ。アコはさ、西山さんとかと仲いいじゃん、同期だし。でも彼女らはスノボに来てたんだよな。
アコも、ユウ君スノボ教えて、なんて言ってたのにさ」
「……そうだっけ」
「言ってた。第一、観光組はパートのオバちゃんとか管理職のオヤジがほとんどで、若いのはアコだけだし」
「よく見てんな」
僕がそう言うと、有也は決まり悪そうに視線を逸らした。
亜希子のことを気にしていると、はっきり言っているようなもんだ。今さらだけど。
有也はぶっきらぼうに見えて、面倒見がいい。それは亜希子も分かっているはずだ。
スノボがやりたかったなら、どうして1人で観光に行ったんだろう。
「……体調でも悪かったのかな」
「そうは見えなかったけど。だから、自分で直接訊けばいいだろ」
だんだん面倒くさくなってきた。くっつくんだか、有也が玉砕するんだか、早いとこはっきりさせてくれ。
「とりあえず、俺は別にどうでもいいから」
「何怒ってんだよ」
「おまえは、何でアコにはっきり言わないんだよ」
ああだから、酒なんか飲むんじゃなかった。自分の意思とは反対に、言葉が口からボロボロ零れてくる。
「仕事では口がうまいくせに、アコが相手だと何でこうなんだよ。ダメならダメで、さっさとフラれて来い」
「……セイ、おまえ、酒癖悪かったんだな」
「俺の何が悪いってんだ。有也がはっきり言ってれば、何の苦労も」
危ういところで、僕の舌は凍りついてくれた。
あの夜のことを話すわけにはいかない。
たとえ、酔った亜希子が意味もなく抱きついたんだとしても、有也に聞かせられる話じゃない。
「分かってんだよ」
ため息まじりにそう言って、有也がソファの背凭れに肘を乗せる。
「……分かってるけど、あいつには……アコには、何かうまいこと言えないんだよ」
「別に、ただ、どうしたんだって訊けばいいだけだろ」
「それができないから、おまえに訊いてるんじゃないか」
有也が軽く弾みをつけるようにして、背中を伸ばした。
「知ってんだろ」
「……何を」
「アコが、落ち込んでる理由」
僕は目を逸らした。ぼんやりと霞みそうになる意識を、必死に立て直す。
「いや、何も」
「――あ、そう」
あっさりと有也は引き下がった。僕のほうを見ようともせずに、ソファから立ち上がる。
「俺、もう一風呂浴びてから寝るわ。おまえ、1人で大丈夫だろ?」
「ああ」
「んじゃな」
一度も目を合わせないまま有也がロビーから消えるのを見送って、僕は息を吐いた。
うまく言えないのは、こっちだ。
何も後ろめたいことはしていないはずなのに、どうしてこうなるんだろう。
いつの間にか、少しうとうとしていたらしい。
有也のいる部屋に戻る気にもなれず、僕はロビーのソファに体を預けたままで閉じていた目を開けた。
ロビーの中にもフロントにも人の気配はなく、照明は点いたままなのに、あたりが暗く沈んだような気がしてくる。
亜希子と有也のことや、これから先の仕事のことなどをつらつらと考えているうちに、
ピンクのツナギを着た朋佳の姿が浮かんだ。
今頃、何をしているだろう。
たまに顔を合わせれば、雑談くらいはする。
同じ高校に行っていたヤツなら誰でも覚えているような出来事。クラスメートの動向や、習った教師の話。
昼休みや外回りから戻った時のほんの5分程度だったけれど、僕は会社のドアをくぐる度に、
明るい色の短い髪と華奢な背中を探すようになっていた。
ちょっと同窓会みたいだね、と笑った朋佳の顔を思い出す。
同窓会には、1、2度参加したことがある。
たいして変わってないヤツもいれば、向こうから言われるまで名前が出て来ないほど変わったヤツもいた。
朋佳は確か、1度も参加していない。
その理由を訊く機会を逃したまま、僕は『現在』の朋佳と笑って話していた。
ようやく着慣れてきたスーツと、会社の風景に溶け込んだピンクのツナギの向こうに、素顔を隠したままで。
本当の言葉で、話したいことがたくさんある。
社会に向けて作られた笑顔じゃない顔で。
化粧もしていない、髪も染めていない、あの頃の君の、夏の校庭で振り向いた素顔に会いたい。
「……セイ君?」
右側から聞こえてきた声に、僕の周りの景色は音を立てて崩れる。
そこは紛れもなく、夜の更けた静かなホテルのロビーだった。
「アコちゃん……風呂行って来たの?」
スウェット姿の彼女は、ビニールのポーチと白いバスタオルを抱えていた。
「うん。――座っていい?」
「どうぞ」
僕の左隣に座った亜希子の、まだ少し湿った髪から甘い香りがして、思わず人気のない通路のほうに視線を投げた。
「セイ君、どうしたの? 1人で」
「いや、ちょっと飲み過ぎたっつうか……酔い覚まし」
「そんなに飲んでなかったみたいだけど」
「そうか?」
宴会場での亜希子のいた席を思い出そうとするが、他の人間達の雑音の中にかき消されて、思い出せない。
――僕がどのくらい飲んでいるか、見ていたとでも言うんだろうか。
「ちょっと疲れてるんじゃない?」
「――かもな」
確かに僕は、たった3泊の旅行で、何だか妙に疲れていた。
久しぶりのスキーは楽しいと思えたし、仲間同士の会話にも、自分から参加していたつもりなのに。
いつも見える範囲にいた有也と離れて1人になって、体中から力が抜けていくような感じがする。
それからゆっくりと10数えるくらいの間、僕と亜希子は黙って座っていた。
僕はひとつ息を吸い込んで、正面に向けていた視線を亜希子のほうに向けた。
「……アコちゃん」
「あーあ」
「え?」
いきなりため息を吐いた亜希子に、言いかけた僕の言葉は宙に吸い込まれていった。
「また、戻っちゃった」
「何が」
「アコ、て呼んでくれてたのに。また『ちゃん』付けになっちゃったね」
それがどうした、という台詞を直前で飲み込む。少し寂しそうに笑った亜希子が、僕と視線を合わせた。
「……いや……特に意識してないけど」
「ま、そういうところがセイ君らしいかな」
わざとおどけた調子を作って肩をすくめた亜希子に、僕は仕方なく黙り込む。
「で、なあに?」
「――うん?」
「何か言いかけたでしょ? 『アコちゃん』の続きは?」
軽く首を傾げるようにして、亜希子が僕の顔を覗き込む。
その茶色がかった瞳に、僕は喉の奥に留まっていた言葉を他のものと入れ替えて口にした。
「いや……何で観光に行ったのかなって」
「おかしい?」
「別に、いいんだけどさ。若い連中がいなくて、楽しかったのかなって」
「結構楽しかったよ。あたし、北海道来たことなかったし」
「でもさ」
有也が、と言いかけて、ソファから立ち上がった亜希子のほうを見上げる。
小さく笑った亜希子が、タオルとポーチを抱え直した。
「何となくだよ。スキーもスノボも、する気になれなかったし、観光したかったから行っただけ」
「……そう」
「心配してくれて、ありがとね」
「え、いや、俺は」
「まだ、ここにいるの?」
もうすぐ日付も変わる。特に有也や同室の仲間と話をしなくても、そのまま寝てしまえるだろう。
僕は黙って立ち上がり、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れた。
「もう、寝たほうがいいな」
「そうだね」
そのままの流れで、一緒にエレベータに向かう。亜希子は5階、僕は3階の部屋だった。
3と5のボタンを押して、エレベータのドアが閉まると、床に視線を落としたままの亜希子が小さな声で呟いた。
「……この前は、ごめんね」
「え? 何が」
「いろいろ、変な話聞かせて」
「いや、いいよ。……それで……」
あれから家のほうはどうなったんだ、と言おうとして、やっぱり有也にも話そう、と言おうとして、言葉に詰まる。
チン、と音を立てて、エレベータが3階に着いてしまった。
「あー……んじゃ」
「うん」
『開』のボタンを押さえてくれている亜希子に、僕は片手を上げて歩きだそうとした。
「セイ君」
「ん?」
「……ほんとに、ごめんね。でもあたし、セイ君だから……」
深い紅の絨毯が敷かれた廊下に、亜希子の声と低いBGMが吸い込まれていく。
一瞬合った視線を、亜希子が先に逸らした。
「おやすみなさい」
顔を上げて笑った亜希子と僕の間で、エレベータのドアが閉まった。
階数表示のランプを見上げて、点滅する灯りが5階で停まったのを確認して、僕は自分の部屋に向けて歩き出す。
――有也がすでに眠っていてくれることを、心の隅で祈りながら。