軽い和定食の食べられる店に入って食事をしている間、亜希子はよく喋った。
会社の女子社員の中で噂になっている話や、最近の流行の曲がどうして受けるのか、など、
僕にとってはどうでもいい話ばかりだった。
食事を終えて店を出ると、黙って唇を噛んだ亜希子が、視線を泳がせる。
仕方ない。
こういう時に甘やかすような態度を取るのは、本当は好きじゃなかった。言いたいことがあるなら、自分から言えばいい。
こっちがきっかけを作ってやる必要なんて、無いはずだった。
それでも僕は、その時頭に浮かんだ有也の笑顔を振り払うようにため息を吐いた。
「……時間、大丈夫なら、軽く飲んで行くか?」
僕の言葉にほっとしたように、亜希子が頷く。
本来ならこれは有也の役目のはずなのに、どうして僕のところに来るんだろう。
あいつは、今日は忙しいしな――言い訳めいたことを考えて、何度か飲みに行ったショットバーに向かい、
ガラスのドアを引いて亜希子を先に通した。
「いらっしゃいませ」
若い男女の声が揃って聞こえた。
まだ早い時間だからか、他の客は一組だけで、静かな音楽が流れる薄暗い店内に、僕はほっと息を吐く。
「お2人様ですか? どうぞ」
小柄な女の子の店員が空いている席を指して微笑む。男のほうは、黙って何かの仕込みをしているようだった。
席についてメニューを開くなり、亜希子は明るい声で
「あたし、カンパリオレンジ下さい」
と言った。
僕は、カクテルにはあまり詳しくない。しばらくメニューを眺めて、結局は普通の水割りをシングルで頼んだ。
相談を聞く側が酔ってしまっては、何も始まらない。
ついでにチーズやクラッカーなども頼んで、白木のカウンターに頬杖を付く。
頼んだものが全部出揃うまで、2人とも口を利かなかった。ヘタをしたら、ケンカ中のカップルにでも見えたかも知れない。
バーテンがシェーカーの動きを止めて、亜希子のグラスに濃いオレンジ色の液体を注ぐ。
それに合わせるように、女の子のほうが僕の前に水割りのグラスを置いた。
「……じゃ、お疲れ」
「はい。お疲れ様でした」
なんとなく乾杯になる。一応今日で仕事納めだし、有也がいないのはともかくとして、
こうして忘年会じみたことをするのも悪くないかと思い始めた。
でも、亜希子の目的は、流行の曲の話をしたり、僕と2人でこの一年を振り返ることではないはずだった。
僕はゆっくりと息を吸い込んで吐き出し、スツールを軽く左に回して、亜希子の顔を覗き込んだ。
「で?」
「は?」
「話があるんだろ?」
「あ、ええ、はい……」
「有也じゃないけど、敬語は終わりな。みんな心配してんだぞ」
「……すみません」
「謝らなくていいから。いったい、何があったんだ?」
煙草が欲しくなった。
有也がいれば勝手に1本失敬するところだが、3つ置いた隣のカップルの席までもらいに行くほどバカじゃない。
とにかく自分が酔ったらまずいと思い、少しづつ唇を湿らせる程度に水割りに口を付ける。
店にしたら、儲けの出ないイヤな客だな、という考えに苦笑した。
「セイ君」
「うん?」
「今日、泊めてくれない?」
僕はむせ返りかけて、かろうじて飲み込み、軽く咳き込んだ。
「……おまえ、何言ってんだ」
「ゴメン、帰りたくないの。迷惑はかけないから」
いや、すでに充分迷惑だ、という言葉を飲み込む。
「何で。そう言うからには、理由があるんだろ? 家に帰りたくないっていう」
中学生じゃあるまいし、この年で家出ってのもないだろう。
「うち、もう、ダメなの」
『ダメなの』の『ダ』のあたりで声が震え、カウンターの上にぽつりと雫が落ちてきた。
僕は慌てて店内を見渡す。
もう一組の客は話に夢中で、女の子の店員は、少しわざとらしいほど忙しそうにレジのチェックをし、
男の店員は無表情にグラスを磨いていた。
「ちょ、おい、アコちゃん……」
「ごめんなさい、ちょっと」
どうにか涙を拭うと、グラスに残っていたカクテルを一気に飲み干した。
「あ、ちょっと待っ……」
僕が言うより前に、亜希子は無表情なバーテンに向かってグラスを掲げた。
「お代わり下さい。えーと、ギムレット」
「はい」
いや、断れ、お代わりなんて作るな、という僕の念は、バーテンには届かなかったようだ。
「アコちゃん、無茶すんなよ。まず、何がダメなのか話してくれないと」
「何がって……全部……」
そう言う亜希子の前に、ギムレットのグラスが置かれる。
ドアが開く音と、いらっしゃいませ、の声がして、もう一組客が入ってきたようだ。
「とりあえず、出ようか。な?」
僕の水割りはほとんど減っていないどころか、融けた氷で嵩が増しているくらいだったけれど、
僕は亜希子の背中を軽く叩いて席を立ちかけた。
「ううん。大丈夫」
そう言ってにっこり笑うと、ギムレットのグラスを傾ける。
「あ、おいしい。セイ君は? 飲まないの?」
飲まない、と言いたいところだったが、黙って水割りを口にする。
「あのね」
「うん」
「うちの親、離婚するって」
唐突に始まった話と、その声の明るさに、僕は目を上げた。
「もうね、ずっと前からそうなるのは分かってたのよ。あたしが小さい時からずっと、いつ別れてもおかしくなかった。
でも、ここまで来て、今さらって思うのは、あたしだけなのかな」
「……冷たい言い方かも知れないけど」
僕はそう前置きして、薄くなった水割りをもう一口飲む。
「それは、アコちゃんのご両親の問題じゃないのか? それこそ、こっちはもう子供じゃないんだし」
「うん。でも」
そう言ってグラスを持ち上げると、残りのカクテルを一息で空にする。
「ちょっと待てって。そんな飲み方するな」
「大丈夫。今日は何か、飲みたい気分なの」
相手が僕だからいいけれど、こういうことを平気で言われると、男としては期待べきするんだろうな。
そんなことを考えている間にも、亜希子の話は続き――近々両親が離婚すること、
父親と母親のどっちと暮らすことにするか決断を迫られていることなどが分かった。
けれど亜希子は、とっくに成人している。どちらかの親権の元に保護してもらわなくとも、1人で暮らしたっていいはずだ。
僕がそれを言うと、亜希子は首を横に振った。
「ダメなの。結婚前に、女が1人で暮らすなんて許さないって、父も母も言うの」
「……そんなところで気が合ってもらっても困るよな」
亜希子には、3つ違いの姉が1人いて、彼女は経済的に安定しているからという理由で、父親と暮らすことに決めたそうだ。
姉は母親似で、自由奔放な性格で――はっきり言うと、自分勝手で傍若無人ということらしい。
どちらかと言えば父親と一緒に暮らしたいと亜希子は思うけれど、姉と一緒なのは、精神的につらいものがあるという。
「何で。お姉さんと、そんなに合わないのか?」
「合わないって言うか……価値観がまるで違ってて、いつも、振り回されるばかりで……疲れちゃって」
母親のほうも、そんな感じらしい。
つまりは、どっちの親元でも暮らしたくないし、1人暮らしを決行する勇気も出ない、ということだ。
「……でも、アコは社会人なんだし、自分が世帯主として1人で暮らしたって問題ないだろ。
思い切って出ちまえばいいんだよ」
そう言った僕を見上げる亜希子は、目のふちが赤く染まって、潤んだ瞳をしていた。
ヤバイ。こいついったい、何杯飲んだんだ?
「セイ君……」
「何?」
「初めてだね」
「は? 何が」
「アコ、て呼び捨てにしたの」
「……そうだっけ」
別に意識したことはなかった。どっちでも、たいして変わらないと思っていたから。
「やっと呼び捨てにしてくれた」
「いや、別に、無意識なんだけど。……それよりさ、お父さんと良く話してみたら。一番聞いてくれそうなんだろ?」
「うん、でも、最近帰って来ないの」
「あー……そう」
「時々夜中に帰って来て、朝早く出かけちゃうみたいだけど。それで母も、機嫌悪くて」
帰って来ないってことは、他に行くあてがあるってことだもんな。
「もう、イヤになっちゃった。父も、母も、姉も、大嫌い」
僕は亜希子が手に取ろうとしたグラスを横合いから取り上げた。
「その辺にしとけって。また、今度落ち着いて話そう。有也にも――」
「ユウ君は、イヤ」
「イヤって、おまえ」
「いつもふざけてて、冗談ばっかりで、あたしのことも、バカにしてて。偉そうで、口が悪くて」
亜希子の飲みかけのグラスを持ったまま、僕は天を仰いだ。
けれど、柔らかな間接照明が不思議な模様を描く白い天井には、何の答えも書かれていなかった。
「仕事が速くて、上司には受けが良くて、難しい契約も、あっさり取って来たりして」
こっちが落ち込みそうになる。それでも亜希子の『有也論』は止まらなかった。
「キツイこと言うかと思えば、優しくて。いつの間に見てたのか、あたしがミスするとフォローしてくれて」
お、と思った。何だよ、結局僕は当て馬か?
「そんなユウ君なんか、大、大、大嫌い!」
「分かった分かった。とにかく今日は帰ろう」
立ち上がって会計を済ませ、足元が覚束ない亜希子を連れて店を出る。
運良く通りかかった空車のタクシーに乗り、亜希子の自宅の近くまで行く。
車の中で半分眠りそうになりながら、亜希子はずっと『ユウ君なんて、嫌い』と繰り返していた。
どうにか亜希子の家の前まで辿り着き、引きずり出すように車から降ろした。
タクシーが赤いテールランプの光を残して去って行くと、僕は亜希子を支えながら、人の気配のない暗い家を見上げる。
「……家、誰もいないの?」
「今……何時?」
「えーと、もうすぐ10時だな」
「じゃあいない。母はいつも終電ギリギリだし、姉もそんな感じだし、帰って来ないことも多いし」
「あ、そう」
それ以上聞いていても仕方がない。
酔ってはいるけれど具合が悪いわけでもなさそうだし、このまま1人で休ませても大丈夫だろう。
「じゃ、玄関の鍵開けてくれるか? 俺、そこまで連れて行くから」
「上がっていかないの?」
とろんとした瞳で見上げられると、さすがに一瞬言葉に詰まる。
「まさか。ほら、早く家に入って、今日はもう寝ちまえよ。今度また相談に乗るから。な?」
相談と言っても、僕に何ができるわけでもない。ここはやっぱり、有也に話すべきだろう。
そんなことを考えていると、玄関に向かって2、3歩足を踏み出した亜希子が、よろけた。
慌てて腕を掴んだ僕に、亜希子がしがみつく。
「大丈夫か?」
「……セイ、君」
コートの袖を掴んでいた亜希子の右手が、僕の首に回される。空いた左手は、僕のコートの背中を掴むような形になった。
つまり、僕は、亜希子の家の玄関先で、彼女に抱きつかれてしまったことになる。
――こうして、柔らかで華奢な体に触れるのは、何ヶ月ぶりだろう。
そんな考えが頭に浮かんだが、とりあえず僕は、両手をバンザイの形に上げてから、彼女の肩を掴んで引き離した。
「おい、大丈夫かよ。彼氏と間違えてんのか?」
冗談で流そうとした僕に、亜希子は泣き笑いのような顔で僕から離れた。
「彼氏がいたら、こんなこと、しない」
まあ確かにそうだろう。
僕はここでもやっぱり有也の名前を出したくなったが、やめておいた。
「いろいろあると思うけどさ、アコちゃんが一番いいと思うようにすればいいんじゃないかな。
反対されたって、家を出る権利はあるんだし」
話を聞いているのかいないのか、亜希子はフラフラとバッグから鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。
「……ごめんね。ありがとう」
「いや。また、話くらいは聞くから。あんまり思い詰めるなよ」
そう言った僕に笑顔を作ると、亜希子は玄関の中に消えた。
やがて鍵の閉まる音がして、家の中に電気が点いたのを確かめると、僕はため息を吐いて歩き出した。
少し行けば、地下鉄の駅がある。真っ直ぐ帰れば、日付の変わらないうちに部屋に着くだろう。
――有也に、何と言おう。
僕よりよっぽど気の利いた助言ができるだろうし、何より彼女が幸せになることを望んでいるのは
――つまり、惚れているのはヤツのほうなんだから。
亜希子が有也より先に僕に相談したというのは、気にいらないだろう。
僕が逆の立場だったとしたら、絶対に面白くない。
どう言えば、有也にうまく伝えられるのか――。
その時、上着の内ポケットの中で携帯が鳴り出した。取り出して画面を見た僕は一瞬で凍りつく。
他ならぬ、有也からの電話だった。
「……もしもし?」
『おー、俺だ、俺!』
ご機嫌な声の調子からすると、今日の接待はうまく行ったんだろう。
「結果は?」
『ふははははは。今度から俺を有也様と呼ぶように』
「へいへい。有也様、首尾はいかがなもんでしょうか」
『セイ、おまえ今どこにいんの』
ギクリとした僕は、咄嗟にひとつ手前の駅の名前を出す。
「近くに友達が住んでてさ。そいつのとこにちょっと……」
言い訳は、すればするほど真実から遠ざかる。
『じゃあそのまま家まで来いよ』
「今からか?」
『泊まってけばいいじゃん。有也様のお話を聞きに来なさい』
「……分かったよ」
結局帰れなくなってしまった僕は、有也の部屋まで行く間も、亜希子の話をどう伝えるかで悩んでいた。
ずっと狙っていたD社の担当の人から、ようやく前向きな話が聞けたということ、
そこに行くまでの営業トークがどれほど素晴らしかったかを、僕は延々と聞かされた。
有也の部屋でシャワーを浴びて、少し大きめのスウェットを借りると、ベッドの隣に敷かれた布団に横になる。
――なんだか、長い一日だった。
会社で締めの作業をして、ワイシャツ1枚になって大掃除をしたのが、何日も前のことのような気さえする。
ふと、朋佳の顔を思い出した。
彼女と再会したのも、ついこの間のことなのに、僕の中では、昔と今の2人の朋佳がごちゃまぜになってしまっている。
今頃、何をしてるだろう。もう寝ただろうな。誰かと一緒なのか。それとも1人なのか。どんな暮らしをしてるのか――。
「セイ」
「え?」
眠っているとばかり思っていた有也の声が、ベッドの上から降ってきた。
「いや……この前アコを食事に誘ったんだけどさ」
「うん」
僕がけしかけた日だ。亜希子が仕事でミスをして、悩み事を抱えているのを隠せずにいた時。
「断られた」
「え、マジ?」
「うん。セイ君も一緒ならいいけど、て」
……何だそりゃ。
「あー……いつも3人だからな。きっと俺は、安全パイってことだろ、アコにしたら」
ベッドの上の有也が、上体を起こした。暗がりの中で、その瞳が僕に向けられているのが分かる。
「だから、ほら、アコはみんな一緒のほうが、相談しやすかったとかさ。2人だと深刻な感じになりそうだったとか」
僕はアリ地獄を思い浮かべた。うまい答えを探そうと砂地を駆け上がれば駆け上がるほど、落ちていく。
「……何があった」
「は?」
有也の低い声に、僕もつられて起き上がる。
「おまえ、アコと、付き合うことにしたのか?」
「ええ? 違うよ。全然そんなことはない」
「じゃあ、何があった」
「いや、別に何も……」
とぼける僕の頭の中では、様々な言葉がグルグル回っていた。
うまく、亜希子の家の状態を伝えて、相談役を有也にバトンタッチするつもりだったのに、どうしてこうなっているんだ。
「何もないとは、思えないけどな」
「……どうして」
「おまえ今『アコ』て呼び捨てにしたぞ。今まで『アコちゃん』だったのに、何で変わったんだ」
……気付かなかった。
亜希子の話を聞いているうちに、彼女が妹か何かのように思えて、いつの間にか呼び捨てにしていた。
今までは、仕事のパートナー以上の付き合いをする気はなかったし、
有也の気持ちを知ってからは尚更、呼び捨てにはできなかったけれど。
「いや、ほら、おまえがいつもそう呼ぶからさ。……別に、何もないよ」
しばらくの間黙って僕を睨むように見つめていた有也が、バタン、とベッドに横になる。
僕は布団に起き上がってあぐらをかいたまま、どうやっても這い上がれない砂地をつかもうとしていた。
「……だったら、いい」
自分の腕を枕にした有也が、放り投げるように言う。
「アコをどう呼ぼうがおまえの勝手だ。アコが嫌がらなきゃ、好きにしろ」
「だからほんとに、何もないって」
「もう、いい。何かあったら、その時は言ってくれ。でないと、俺1人で空回りすることになる」
目を閉じて言う有也の声からは、何の感情も聞き取れなかった。
「寝ようぜ。おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
僕もそう返して、布団に潜り込んだ。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、ピンク色のツナギ。明るく笑う今の朋佳と、真っ白い光の中の、高校生の朋佳の残像だ。
その残像の輪郭がだんだんとぼやけていき、今と昔の朋佳の姿が重なりかけた時、再び有也の声が落ちてきた。
「……最初から、空回りしてんのかも知れないけどな、俺は」
それに返せるようなうまい答えは見つからず――僕は寝た振りをしたまま、乾いた砂地を滑り落ちて行った――。