メールを送って返事が来ないというのが、これほど不安になることだと思わなかった。
あの週末から2週間。僕は朋佳に3通のメールを送り、そのどれにも返信がないことに、胸の中を埋め尽くされていた。
仕事の手が空いたり、帰りの電車に乗る時などに、無意識に携帯を取り出して受信をチェックする。
たいした内容のメールは送っていない。調子はどう、とか、今日は雨だね、とか、その程度だ。
食事に誘うとか、この前の一方的な行動を謝るといったことは、なかなかできずにいた。
電話をかけることすらできない。直接声を聞いてしまったら言い訳ばかりを連ねてしまいそうで、
僕は気が付くと携帯を手にため息ばかり吐いていた。
その僕の手の中を覗き込むように、有也が隣の机から身を乗り出して来た。
「な、何だよ」
「別にぃー。ため息吐くようなメールでも来たのかと思ってよ」
「そんなんじゃねぇよ」
僕は上着のポケットに携帯を戻し、作成中の書類に目を落とした。
どんな内容でもいい。いっそのこと、もう連絡しないでくれと言われるなら、それでもいい。
何でもいいから、朋佳の様子が知りたかった。最近は、社内で仕事中の彼女を見かける機会すらない。
それならば、メールアドレスを変えてしまうとか、僕からのメールは受信拒否をするとか……
ダメだ、どんどん思考がマイナスになっていく。
「はい、23回目」
「え、何」
「ため息。通算23回」
「マジ?」
ヒマなヤツだな、と言おうとした僕の顔を見て、今度は有也がため息を吐いた。
「んなもん、いちいち数えてるわけねぇだろ」
「あ、そう」
「おまえね、企画に行くっつうんなら、俺くらいのノリと勢いが必要よ? 斬新なアイデア出してナンボなんだからよ」
「んじゃおまえが企画行けば」
「アホか。俺が営業にいないで、誰が仕事取ってくんだっての」
相変わらずだ。亜希子にあれだけのことを言ったというのに、有也はまるで何もなかったように仕事をこなしている。
亜希子は、答えたんだろうか。イエスかノーか、はっきりしたことはまだ聞いていない。
「……でさ」
「あ、坂下、コーヒー頼む」
「はい」
言いかけた僕の台詞を読んでいたようなタイミングで有也が亜希子に声をかけ、彼女は席を立って給湯室に向かった。
いつもの、会社の風景だ。この2人の間で告白だとかいう事件があったことなど、微塵も感じ取れない。
当たり前か。これだから僕は『分別』を意識する羽目になる。
「24回目、っと」
「もういい」
有也のほうを見ずに追い払うように手を振り、僕は事務所を出た。
給湯室に行くと、亜希子が2つのカップにコーヒーを注いでいる。
「ひとつ持とうか」
「あ、ううん、大丈夫」
「何だ、自分のも淹れればいいのに」
「あたしは、さっきお茶飲んだから」
笑顔の亜希子を見て、少し肩の力が抜けた。顔色が明るく見えるのは、有也とうまく行っているからなのか。
「……セイ君、あたし、一応引っ越したの」
「え、どこに」
「叔母さん家。あれから、叔父夫婦が父と話してくれてね。とりあえず落ち着くまで、
叔母さんの家に居候することになったの。――母は、1人で部屋を借りたわ」
「そうか……」
良かったと言っていいのか微妙な状況だった。亜希子を可愛がってくれているという
叔母さんのところに行けたのはいいけれど、亜希子の両親の仲が決定的になったのには違いない。
けれど亜希子の様子を見ると、まずは悪くない状態のようで安心した。
「それ、有也に話した?」
「うん……それは……まあ」
視線を逸らせて口篭るのを見て、思わず吹き出しそうになった。
「何だよ」
「だ、だってユウ君、毎日電話してくるんだもん。だから、何も言わないわけにもいかないし」
「ふーん」
「それだけだよ? 別に、何もないよ?」
「いや、訊いてないよ、何も」
自分が掘った墓穴に気付いたのか、たちまち顔を赤くして俯く亜希子の頭をひとつ小突いて、僕は自分のカップを持った。
「じゃ、そっちはよろしく」
有也の分のカップを指差して事務所に戻ると、当の有也が渋い顔で僕を見上げた。
「なーに油売ってんだよ。ほれ、今届いたぞ」
白い封筒を受け取って席に着いた僕に、有也が眉を寄せる。
「何、コーヒー、おまえだけか」
「おまえのは今特製のが来るよ。アコちゃんオリジナルブレンド」
「はあ?」
とぼける有也を無視して封を切る。中身は――今年の秋の部署異動辞令。
どうやら僕は、企画開発課第2係に所属することになるらしい。先輩の野上さんのいる、5駅先の事務所だ。
「――来たか」
「うん」
短いやりとりのあとで顔を上げると、お得意の表情でにやりと笑う有也の視線に会った。
「ま、送別会くらい開いてやるよ。これで希望の課に入れるってわけだしな」
「……サンキュ」
「セイの奢りで」
「ええ?」
にやにや笑う有也の机に、ようやくコーヒーが置かれた。
「お、これが特製か」
「は? いえ、普通ですよ」
「いいんだよ。有也には、特製」
すましてそう言った僕に、2人が同時にイヤな顔をする。しばらくは、楽しませてもらえそうだ。
「――冷めてんぞ、これ」
席に戻った亜希子には聞こえない声で呟く有也に僕は言ってやった。
「その分アコちゃんの熱が上がってればそれでいいんじゃねぇの」
「おまえ、ほんっとオヤジな」
そう言いながら冷めたコーヒーを一口飲んで、探るような視線を僕に向けた。
「……ま、そういうわけだから、邪魔すんなよ」
「ご冗談を」
僕はひとつ肩をすくめて、仕事に戻った。この席で仕事をするのも9月までになる。
僕は僕にできることを、有也や亜希子に残せるものを、見つければいい。
外回りに出ようとロビーに下りて、ほとんど習慣になってしまったメールのチェックをする。
携帯の画面にはいつものように『新着メールはありません』の文字。
またしてもため息を吐きそうになった僕の肘を、有也が突付いた。
「あの子だろ?」
「え?」
ロビーの柱の向こうに、朋佳がいた。ピンクのキャップをいつもより深めに被って、俯きがちに床にモップをかけている。
――気付かれないようにしていたんだろうか。そんなにも、僕と会うのがイヤだったんだろうか。
言葉を呑んで動けない僕を置いて、有也が先に立って歩いて行く。通り過ぎるかと思った朋佳の隣で、ふいにヤツは足を止めた。
「こんちは」
「は?」
「最近来てなかったね。担当、代わったの?」
何をする気なのか分からず、僕はその場に凍り付いていた。
朋佳が戸惑ったように視線を巡らせて僕に気付き、慌てて目を逸らす。
「俺ね、永峰の同僚。畠山っていいます」
「……岸田、です」
僕はようやく足を踏み出した。そのあとはほとんど走るようにして、有也と朋佳に追い付いた。
「おい、おまえ、何……」
「岸田さん、今日仕事上がったら、ヒマ?」
営業の本領発揮といったところか。有也はにこやかに朋佳の顔を覗き込んだ。相手の警戒心を潜り抜ける手腕は、ダテじゃない。
「え、あの……」
困った顔で僕を見上げる朋佳に、僕は軽く片手を上げて顔をしかめた。
「ごめん、気にしないで。何でもないから」
「そうそう。他意はない。永峰の友達でしょ? 一緒にメシくらい行かね?」
軽く言った有也の顔を見返す僕と朋佳は、多分同じような表情をしていただろう。
「何、なんかマズイことあるか」
「いや、そりゃ、おまえ……」
「おまえの友達は、俺の友達。俺の友達は、アコの友達。単純明快でいいじゃんか」
単純明快なのは、おまえの頭の中身だ。そう思ったのが顔に出たのか、朋佳が吹き出した。
「お、受けた受けた。笑ったほうが可愛い。永峰にゃもったいないな」
「アホかおまえは! 何言ってんだよ」
「……面白い人だね」
ようやく、朋佳が僕に向かって言葉を発した。僕はそれが形になって胸の中に降りて来たようで、しばらくは呼吸を止めていた。
「うん、面白いと思ってくれればおっけー。もう1人女の子来るし、6時にここの前でどう?」
「えっと……一度会社に戻るから、6時だと間に合うかどうか」
「んじゃ6時半。7時のがいい?」
「いえ、6時半なら、大丈夫」
「おっけーおっけー。あ、俺らよくボーリング行くんだけど、嫌いじゃなかったら今度行かない?」
「……うん。しばらく行ってないし、ヘタだけど」
「ノープロブレム。遅くまでは付き合わせないし、帰りは永峰に送らせるから」
ここで2人の視線が僕に向いた。張り付きそうな喉に息を吸い込んで、僕はやっとのことで朋佳を見下ろした。
「明日土曜だけど、仕事だろ?早めに送ってくよ」
「……うん」
朋佳が笑った。僕を見上げて。
圧縮された酸素が突然開放されたように、僕の胸の中に澄んだ空気が広がっていく気がした。
「おぉっと、やべぇぞ、Y社の平口さん、3時から予定入ってるって言ってたな」
「それを早く言え!」
「悪ぃ悪ぃ。んじゃ、岸田さん、あとでね」
僕は有也の肩をどやしつけて、朋佳を振り返った。まだ少し戸惑いを残した瞳で、小さく手を振ってくれる。
それに軽く笑い返して、僕は有也と2人でロビーを走り抜けた。
「どうよ、有也様の話術は」
「ああもう、すごいよ、おまえは」
仮契約の書面を確かめながら事務所に戻った時には、5時を過ぎていた。
もちろんすでに朋佳の姿はない。亜希子には有也がメールを送って、すっかり4人で食事に行く予定になっていた。
「有也マジックとでも呼んでもらおうか」
「面白くない、それ」
「あ、そういうこと言う。午後からため息吐かずに済んでるのは誰のおかげかね」
「んじゃ、アコちゃんにコクるきっかけできたのは、誰のおかげですかね?」
エレベータの中で言い返すと、有也が口をへの字にして僕の頭を小突いた。事務所に戻ると、
いつものように亜希子が、お帰りなさい、と迎えてくれた。
今日一日の仕事をまとめて、来週からのスケジュールを確認して、課長に報告をする。
ここにいていいんだ、という言葉が、ゆっくりと胸の奥に広がっていった。
秋には異動すると決まった今になって、この一瞬一瞬が大切に思えてくるから不思議だ。
今までとは違う形で、ここの人間達と関わっていくことになる。新しい仕事の中で、別の人間関係がまた、新たに広がっていく。
――朋佳。君は今、何を大切に思っているのだろう。
彼女の会社に訪ねて行った時、通用口から出て来て僕に気付くまでの笑顔を思い出した。
一緒に仕事をしているらしい少し年上の女性と、楽しそうに話をしていた。
僕はその笑顔を、朋佳が笑っていられる場所を、守りたい。守れる距離にいたいと、そう思う。
それは、きっと――。
「な、何」
気付けば、有也と亜希子が2人並んで僕の顔を覗き込んでいた。
「そろそろ時間なんだけどね」
時計を見上げると、6時20分を過ぎている。後片付けも済んで、残業のある者以外はすでに事務所から消えていた。
「ああ、うん」
「彼女に会えるのが嬉しいのは分かるけど、シャンとしろよな」
「うるせぇな、そんなんじゃねぇよ」
2人揃って何か含んだように笑う顔を見て、僕は今日25回目になるらしいため息を吐いた。
――憎からず思い合ってる2人ってのは、似てくるものかも知れない。
時間になって下のロビーに行くと、朋佳が待っていた。
少し緊張した顔の彼女に亜希子を紹介し、堅苦しい所はよそうという有也の提案で駅前の居酒屋に寄った。
女性2人は結構ウマが合うのか、何やら笑って会話をしてくれているのを見てほっとする。
「あ、そうそう、セイ、朋佳ちゃんにも見せれば」
朋佳ちゃんという呼び名に僕は左の眉を上げ、隣の席の朋佳は少し呆気に取られた顔をし、
亜希子は苦笑して僕に片目を細めて見せた。
「……見せるって何を」
「おまえのすべて」
両手を広げた有也に、朋佳が吹き出した。
「いいねぇ、素直な反応。こいつら最近受けてくんねーのよ」
「それはいいから、何だよ」
「アレだよ、今日来た辞令」
ああ、と頷いて、僕は鞄から白い封筒を出した。
「何?」
「いや、俺、秋から異動になるんだ。企画開発にいる先輩のとこで、世話になる」
封筒から出した書面を朋佳に渡すと、彼女はしばらくその文面を眺めてひとつ頷いた。
「そっか……。なんか、永峰君らしい気がする」
「そうかもな。やっぱ、そっちのが向いてそうだと思って」
「ま、言い換えりゃ、営業の才能は俺様ほどではない、と」
ニヤリと笑う有也に、僕と亜希子は同時に天井を仰いだ。
「はいはい。そうでございますともさ」
「所詮、凡人のおまえが俺に追い付くには無理があったのさ」
「そんなことない!」
突然上がった声に、僕ら3人は軽く口を開けて朋佳を見た。
「永峰君は、何でも頑張ってるもの。営業だって、ちゃんと頑張ってたもの。
あの頃から、人一倍努力してて、それを顔に出さないで、ちゃんとこなして、て……」
フェイドアウトしていった言葉に合わせるように俯いた朋佳の耳が、赤く染まっていた。
有也と亜希子が顔を見合わせ、僕はどこに視線を向ければいいのか困って、ビールのコップを口に運んだ。
「んじゃ、あとはお若いお2人で」
「はあ?」
亜希子の腕を取って腰を上げる有也に、思わず僕と朋佳の視線が合った。
弾かれたように目を逸らす僕と朋佳を見て、有也が声を上げて笑う。
「ま、頑張れや。行くぞ、アコ」
「おい、何言ってんだよ」
亜希子が軽く手を振って有也に付いて行き、ふと気付いた僕がテーブルの端に置かれた伝票を手に取ると、
その下に万札が1枚置かれていた。
「……割り勘にしちゃ、ちょっと気前がいいかな」
「あの……ごめんなさい、変なこと言って」
「いや、有也は今、アコちゃん落とし中だから。うまい具合に逃げられたっつうだけ」
「あ、そうなんだ」
少し気が緩んだように笑って僕を見上げる。何となくうまく視線が合わせられないまま、僕は手に持ったコップを空にした。
「――じゃ、帰るか。送るよ」
何を言おう。どう言えば、朋佳に僕の気持ちは伝わるのだろう。
――それが、好きだってことじゃねぇか――。だとしたら、僕は、あの頃から朋佳が好きだったのかも知れない。
教室の片隅で、ぼんやりと窓の外に視線を向ける横顔を見ていた。
卒業が近付いて、空いたままの席をどこかで気にかけていた。
都合のいい解釈だろうか。それでも、少なくとも今は。
「……ありがとう、送ってくれて」
「いや」
たいした話もしないまま、朋佳の部屋の前に着いた。時間は夜の9時。4月も終りに近付き、僕らを包む空気は暖かい。
「この前は……ごめん」
とにかくこれだけは言わないと、と思った。勝手な行動を取ったのは事実だ。
朋佳が僕に心を開けないとしても、責められるべきなのは僕自身だ。
「……ううん」
小さく笑って俯く朋佳に、制服姿の彼女が重なる。記憶の中の朋佳はいつも、夏服だ。
3年間同じ学校に通い、1年同じクラスにいて、浮かぶのはあの夏の朋佳ばかりだった。
戻って、みようか。
あの夏の僕の視点に戻って、今の僕の言葉で、話がしたい。
「少し……話してもいいかな」
「え? うん……じゃあ、あの……上がって行く?」
戸惑ったように2階の部屋を見上げた朋佳に、僕はゆっくりと首を横に振った。
「ありがとう。でも、今はやめとく」
「……うん」
風がひとつ、僕らの間を吹き抜けていった。春先の花の匂いとは違った、緑の葉を思わせる香りが流れていく。
もうすぐゴールデンウイークだ。それを過ぎて、梅雨を越えて、また夏が来る。
軽く目を閉じると、白い光に満ちた校庭が浮かんだ。あの場所に、帰りたい。今の僕で、今の朋佳で、あの夏の校庭から始めたい。
「ひとつ、言いたい。……俺は、おまえを淘汰するのはイヤだ」
「……え?」
「あの頃のおまえも、今のおまえも、消したくない。消してほしくない。
――確かに、俺とおまえのいる場所は違ってた。見える景色も、価値観も」
息を詰めて僕を見上げる朋佳の緊張の糸を解くように、僕は笑顔を作った。
そう、誰もがきっと、ある程度の仮面を持っている。壊したくない関係に、優しくしたい相手に、使う場合だってある。
許す、ということが、必要なんだと思う。僕にも、朋佳にも。
「それでも俺は、高校の頃のおまえを見てた。まさかこんな形で会えるなんて思わなかったけど、会えて嬉しかった。
いろんなものを乗り越えてきた今のおまえに――」
出かかった言葉を一度呑み込んで、大きく息を吸い込んで、朋佳の瞳を見つめる。
「惹かれた。また会いたい、話がしたいと思った。それを、信じてほしい」
「……だって、あたしは……」
「うん」
「岸田だよ?」
「分かってるよ」
僕は苦笑して、朋佳の肩に伸ばしかけた手を握り締めた。
「おまえの名前は、岸田朋佳だ。俺は『岸田』も『朋佳』も失くしたくない。全部、おまえだから。俺は、おまえが」
すべてが止まっていた。朋佳の表情も、息遣いも、僕の鼓動も、時間さえも。
「……好きだから」
路地の先にある大通りから、車のクラクションがひとつ、闇を切り裂いて通り抜けた。