「嘘」
今にも泣き出しそうな瞳を見開いて、小さく叫ぶように朋佳は言った。
僕は黙って、首を横に振る。
どこかの窓から流れてくる、シャボンの匂い。微かに感じ取れる春の終わりの気配。
「……間違ってるよ、そんなの。あたしは、あの、岸田だよ? みんなから嫌われて、高校出るのがやっとだった」
朋佳の声が震えた。そんなことはどうでもいい。
今の朋佳を、僕は好きだと言える。何もかもを切り捨てて、抱きしめてしまいたい。
それでも僕は黙っていた。朋佳との2メートルほどの距離を縮めることもせずに、ただそこに立っていた。
「仕事に出たって、本音で話せる人なんかいなかった。
嫌われないように、不快な思いをさせないように、それだけでしかできなかった」
ずっと、体の奥底に閉じ込めていた想い。朋佳が抱えてきた傷が、開こうとしている。
「何も、……何も、できなかった。あたしは、誰にとっても、マイナスの存在でしか……」
「なあ、プラスとかマイナスって、どこで決まるんだろうな」
僕の声は、不思議とのんびりしたものだった。空を見上げて明日の天気の話でもするように、僕は言葉を続けた。
「誰が決める? それになんの価値がある? 今の俺とおまえは、ゼロかも知れない、マイナスかも知れない、
少しくらいは、プラスかも知れない」
自然と笑みが浮かんだ。ああそうか、こんなことだったのか。僕らはなんて、遠回りをしてきたんだろう。
「どうでもいいじゃないか。同じことをしても、受け取る人によって変わる。
何がプラスかマイナスかなんて、誰にも決められない」
僕から視線を逸らした朋佳が、微かに唇を噛んだ。
握り締めた小さな手が震えているのに気付いて、僕は少し躊躇ったあとで1歩前に踏み出した。
「おまえをマイナスだと決める権利は、誰にもない。俺にも、橋詰にも、――おまえ自身にも」
驚いた瞳で、朋佳が顔を上げる。僕の胸の中で暴れる心臓と裏腹に、言葉は静かな波のように広がっていった。
「自分の価値を決めるのは、結局自分でしかないんだ。
おまえがマイナスだと思ってる高校の頃のおまえに、俺は確かに惹かれた。気になった」
「……そんなの……信じられない」
「俺を信じる前に、自分を信じろ。俺はあの夏の校庭で見たおまえを忘れられない」
乾いた砂の匂い。照り付ける陽射しの色。笑って手を振る残像が、消えることはない。
「だって、永峰君が、あたしを、なんて……」
「俺はきっと、おまえが思ってるような俺じゃないよ」
苦笑して、僕は言った。今も台所の隅に常備されている白い錠剤。眠れずに迎えた朝、叫び出したいくらいの不安。
「だから、今、答えはいらない。これから先、友達として、俺を見ていてほしい」
「……友達?」
「うん。8月までは」
気が付いたのは、先週だった。あの日、夏の校庭で朋佳と出会ったのは8月10日。
キリのいい日付だったから覚えている。今年の8月10日をカレンダーで追って、日曜日なのを知った。
僕の真意を量りかねたように、朋佳が無言で見上げる。
「俺、9月まで今の事務所にいるし、有也とかアコちゃんとでも、たまに遊びに行こうよ。絶対変な気は起こさないから」
少しおどけて言って、僕はホールドアップをするように両手を挙げた。困ったような表情から、朋佳の顔に笑みが広がる。
「8月の、10日。今年はちょうど日曜日なんだ」
訝しげに揺れていた朋佳の瞳が見開かれた。僕はそれを見て、笑ってひとつ頷く。
「……それって……」
「そう。おまえと俺が会った日。その日に、あの校庭で待ってる。夕方まで待って、おまえが来なかったら諦める」
ふいに笑いがこみ上げてきた。こんなふうに彼女を口説いている自分が、滑稽に思えて仕方なかった。
でも、悪くない。こうやって舞台を作り上げることも、ひとつの形かも知れない。
そう、人生はエンタティナーだ。有也ならそのぐらいの台詞も出てくるんじゃないか。
「てことで、どうかな」
泣き笑いのような顔で、朋佳が頷いた。僕はそれに笑い返して、大きく息を吐く。
「じゃ、また。なんか有也がボーリング行きたがってたし、たまにメールとかするよ」
「うん」
「あ、返事くれよな。ないと寂しいからさ」
「……分かった」
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
手を振って、背中を向けて、歩き出す。今さらながら、自分の手足がどう動けば前に進めるのか、分からなくなりそうだった。
大通りに差し掛かる交差点で、またクラクションの音がする。僕は思い切って振り返った。
朋佳がまだアパートの前にいて、小さく手を振って笑った。
5月の連休が明けると、まるで夏の予告編を見せるかのように、時折蒸し暑い日がやってくる。
僕は木綿の長袖のシャツを、肘までまくり上げたついでに腕の時計に目を落とした。
遅い。車で自分の部屋を出て、途中で朋佳を拾ってこのボーリング場まで来たけれど、
約束の時間を20分過ぎても、有也と亜希子の姿は見えなかった。
「何してんだかな、あの2人は」
携帯にメールをしても、電話をかけても、返事はなかった。
朋佳は僕と並んで車のボンネットに凭れたまま、陽射しに手をかざして苦笑する。
「どうする?」
「んー、あと10分待って来なかったら予定変更。どこ行きたい?」
「どこって……そうね」
「暑いしな。水族館とかいいかも」
「あ、行きたい」
笑顔になった朋佳を見て、僕は腰を上げた。
「んじゃ、行っちまうか。なんかあれば携帯に連……」
その時、見慣れた紺色の車が駐車場に入って来た。運転席に有也らしき人影。助手席にいる亜希子は、何故か俯いている。
「来たね」
「だな、残念」
「やだ、何言って……」
少し赤くなった朋佳に笑って、車から降りた有也に近付いて行った。
「よ。スマンね」
いつものように軽く言った有也だけれど、どこか表情がぎこちない。
しばらく経ってから助手席のドアが開いて、亜希子が視線を下に向けたままで立ち上がった。
僕は朋佳と顔を見合わせた。何か理由を付けて今日の予定を流すか、何事もないように振舞うべきか。
「ほら、アコ、もう拗ねんなって」
「す、拗ねてないもん」
「……何、どうかしたの」
訊かないわけにもいかなくて口を開いた僕に、有也は大げさに肩をすくめてみせた。
「何でもない。朋佳さん、行こう」
朋佳と並ぶと、亜希子のほうが少し背が高い。
スタスタと歩く亜希子に腕を取られて歩きながら、朋佳が戸惑った顔で僕を振り返った。
こちらも、肩をすくめるしかない。
「ま、いいけど。2人の問題ですから」
「違うって。何つうか……アコのとこも、全面解決ってわけじゃないからよ。
裁判やら何やら、意外と長引いてるらしくて、それでちょっとな」
「あ、そう……」
それがどうして、有也と亜希子がケンカでもしているかのような様子に繋がったんだろう。
「あー……んでまあ、俺がちょっと、突っ込み過ぎた」
「へぇ」
有也の突っ込み過ぎはいつものことだが、亜希子に関することだけに、普段は慎重にしてるようには見えた。
「別に、彼氏気取りってつもりでもないんだけど、そう取られるようなことを言っちまったかも知んねぇ」
「いいんじゃないの? 今さら。アコちゃんだって、有也の気持ちは分かってるんだし」
「まあそうだけど『あたし、ユウ君のものって決まっちゃったの?』て言われるとな。
こっちも何て答えりゃいいのか考えちまうよ」
意地っ張りな亜希子のことだから、なかなか素直になるには時間がかかるらしい。
それを僕が言うと、有也は口の端を上げて空に目を向けた。
「まあな。長期戦で行くさ」
「同じく」
頭上には濃いブルーの空。夏に向けて色を変えていく空の下に、あの校庭も広がっている。
「ユウ君!」
ボーリング場の入り口に立った亜希子が、大声で有也を呼んだ。口を尖らせた表情が、こちらからでも分かる。
隣に立つ朋佳は、笑い出すのを堪えているような瞳を僕に向けた。
「おう」
呑気に片手を上げて、僕に軽く目配せをして、有也が歩き出した。僕もそれに続いて、朋佳に軽く手を上げて見せる。
そう、僕らはまだ、始まったばかりだ。
雨が続いている。7月に入っても、梅雨前線はしぶとく居座っていた。
「あー、もー、ちくしょー、今日も雨かよー!」
湿気で曇った窓ガラスを乱暴に拭って、有也が舌打ちした。
「雨だねぇ」
僕はそう応えて、書類のチェックを進めていく。
「どうするよ、S社。今日の打ち合わせで決めようと思ってたのによ」
「それがどうかしたか」
「俺ね、晴れ男なのよ。雨だとさ、調子が出ないわけ」
「へぇ。調子が出ないくらいが、ちょうどいいんじゃねぇの、静かで」
「……のヤロ、言うようになりやがったな」
向いの席の亜希子が、抑えた声で笑った。
「なんか最近、落ち着いてますよね、永峰さん」
「そう?」
「落ち着いてるっつうよりよ、おっさん臭さに磨きがかかったよな」
何とでも言え。僕は僕だ。
自分の価値を上げるのも下げるのも自分だと知った。
分別とプライドと思いやりを忘れなければ、人として生きていく価値がある。
壁にかかったカレンダーを見上げた。約束の日まで、あと1ヶ月と少し。
上着のポケットで携帯が震えたのに気付いて取り出す。朝送ったメールへの、朋佳の返信だった。
「お、彼女か」
「まだ彼女じゃない」
「素直じゃないねぇ、2人して」
「その台詞、そのまま返すから」
食事の誘いにOKが出たのを確かめて、僕は待ち合わせの場所と時間を考えてメールを返した。
「やだねー、もー、顔が笑ってるっての」
「そりゃ、好きな子と会えりゃ嬉しいに決まってるだろ」
書類に目を落としたまま言った僕に、有也が絶句した。
「……こいつ……」
「無理無理。馬に蹴られますよ」
「やめろって。坂下にまでオヤジな発想が移ったじゃんかよ」
2ヶ月で、有也と亜希子の間はだいぶ進展したらしい。
とりあえず詳しいことを聞けばこっちが馬に蹴られるし、なんとなく照れ臭いような気もする。
けど、互いに交わす視線や言葉の柔らかさに2人の距離が縮まったことが伺えて、
僕は何か温かいものが広がっていくような気がした。
「ま、そのうち追い付くから」
「あん? 何が」
「いろいろ」
そう、いろいろ。
仕事でも、人間関係でも、僕は有也に学びたいことがたくさんある。どこかで、有也を支える存在にもなれたらと思う。
すべては自分次第だ。10月から始まる企画課での仕事にも、ここで得たものは無駄にはならないだろう。
無駄にしたくない。3人で組んで乗り越えて来たものも、僕が今まで出会ったさまざまな思いも。
ふと、栄子の顔が浮かんだ。
あいつは今どうしているだろう。もっと、きちんと向き合ってやれば良かったのかも知れない。
けれど、僕はいつか、栄子のことも自分の一部として受け入れていけるだろう。そんな気がする。
「よし、チェック完了。行くぞ、畠山」
「有也様とお呼び」
「気が向いたら。ほら、S社行くんだろ、もう出るぞ」
「へいへい。……って、何仕切ってんだよおまえは」
相変わらずの会話を交わして、事務所の仲間と亜希子に見送られて、外回りに出る。
傘に当たる雨音は激しくなっていたけれど、僕は夕方には出会えるだろう朋佳の笑顔を思い浮かべて足を踏み出した。
僕は晴れ男だったんだろうか。
ピーカン、などという言葉がぴったり来そうに、真っ青な空が広がっていた。
ああ、夏の空だ。雲は厚みを増して、ゆったりとそこにある。
午前10時、僕は駅前の道を左に向かった。朋佳が通って来た、踏み切りを越えた狭い路地だ。
一応、地図で確認してみると、確かに20分ほどで高校の門に着く。
出かける前に見た地図を思い浮かべて歩きながら、住宅地の隙間から覗く空を見上げた。
何を思って歩いていたんだろう。その足は、どれだけ重く感じただろう。
この3ヶ月というもの、僕は約束した手前、朋佳にあくまで『友達』として接してきたつもりだ。
有也や亜希子を交えて遊びに行ったり、僕と2人で食事に行ったり。
その間に、いろんな話をした。朋佳が必死で変えようとしてきた自分、守ろうとしてきた自分。
僕が乗り越えられずに押し込めてきた弱さ。本当に大切なものは、どこにあるのかという疑問。
こうして回り道をして、ひとつの答えに辿り着けるのだろうか。
同級生達の視線を避けて歩いて来たこの道は、結局は同じ門へと向かっている。
同じだよ、朋佳。
みんな、弱い自分と戦っている。正しい答えを探している。
見覚えのあるフェンスが見えて来た。ここを右に曲がれば正門だ。
僕は左に折れて校舎の裏に周り、例の壊れたフェンスに手をかけて隙間を作った。
このまましておくと、関係者に怪しまれるかも知れないとは思ったけれど、
僕がここに来ていることを知らせるために、傾いたフェンスをそのままにして歩き出す。
耳鳴りがしそうに響く、蝉時雨。あの春の日に桜の花びらを落としていた木も、緑の葉を茂らせている。
校庭に人気はない。陽射しを照り返す地面は白く膨張して、やけに広く見えた。
――制服を着た自分が、うんざりした顔をしかめて通り過ぎて行くような気がした。
熱気を帯びた風が、砂埃を舞い上げる。僕は目を閉じた。その瞼の裏にまで広がる、白い光。
歓声が聞こえる。打ち上げられるボールの音。笑いさざめく大勢の声。
ゆっくりと開けた目に、小さな人影が見えた。
陽炎の向こうから、そっと様子を伺うようにこちらを向いて立っている朋佳がいた。
右手を高く上げて振る僕に、朋佳が困ったような顔で笑った。
一歩一歩、確かめるように歩いてくる。答えはもう、その瞳の色で分かる。
僕は足を肩幅に開いて、両手を大きく広げた。
一瞬戸惑った顔で足を止めた朋佳を促すように首を傾げて、僕は笑った。
軽く唇を噛んで僕を見ていた朋佳が、弾けるような笑顔になるのが見える。
僕に近付く足を速めて、ついには駆け出した。
僕は、彼女の体を抱き止めるために軽く腰を落とす。
やっと、辿り着いた。僕らが出した答えに。無邪気に笑い合う、この夏の校庭に。
そして、8月の、君に――。
〜fin〜
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