直情径行――好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり言って、思った通り行動すること。
そんな言葉が浮かんで来た自分は、やっぱり文系だと自覚する。大学も国文科に籍を置いていた。
何を間違って、営業課になんか入ったんだろう。
いや、論点がずれている。僕はそれを思い出して、隣の亜希子を見た。
固まったように動かなかった亜希子が、機械仕掛けの人形のようにぎくしゃくと首を動かして僕に視線を向ける。
僕は軽く肩をすくめて、有也の質問への答えを促すように首を傾げて見せた。
「好きって……あの……そりゃ」
「セイと同じこと言うなよ。友達としての好意があるかどうかは、見りゃ分かる。俺が訊いてるのは、そうじゃない」
だったら、恋愛対象としての好意があるかどうかも、見ていれば分かるんじゃないのか。
とりあえず余計なことは言わずに、僕は黙って亜希子の言葉を待った。
「そういう意味でなら……全然、ないよ、そんな気持ちは」
「はっきり言え。セイを、男として見てるか見てないか」
「見てない」
僕は思わず、テーブルに付いた肘をガクンと外した。まあ、いいんだけど。
「だとよ」
「うん。分かってるよ」
妙におかしくなって、僕は吹き出した。訊いても仕方ないことだとは思っていたけれど、有也の気が済むんならそれでいい。
「なら訊くけど」
有也の口調は静かだった。
今まで言いかけて言わずにいたことを全部吹っ切ったかのように、落ち着いた瞳で亜希子を見ている。
「セイにだけ相談したのはどうしてだ?」
「それは……セイ君なら、ちゃんと聞いてくれると思ったから。あたしの話を、受け止めてくれるって……」
「俺じゃ、ダメなわけ」
「え、だって、ユウ君、いつも怒ってるもん」
今度は有也がずっこけた。僕は再び吹き出しかけて、口を押さえた。
「何でだよ、いつも怒ってるわけねぇだろ!」
「ほら、怒ってる」
「違うって、怒ってねぇよ」
「怒ってるぅ」
「違うっつってんだろが!」
僕はため息を吐いて天井を見上げる。半泣きの顔の亜希子が、助けを求めるように僕を見た。
「まあ、いいから、思ってること言ってみれば」
苦笑した僕に口を尖らせて見せてから、テーブルの上に視線を落として、亜希子が口を開いた。
「あたしには姉がいるけど……何て言うか、すごく自分勝手で、人の話を聞かない人で
……特にあたしの話なんか、絶対、聞いてくれないから」
そこまで言うと、背中を伸ばして正面の有也に視線を向けた。
「セイ君は、なんかお兄さんみたいで……あたしの勝手だけど、一緒にいると安心して
……ただ、聞いて、受け止めてほしいと思ったから」
真顔で亜希子を見つめていた有也が、僕のほうを見て軽くあごをしゃくるようなしぐさをする。
「セイ、おまえは?」
「アコちゃんのこと、どう思うかって? この前言ったろ。
まあ、俺は1人っ子だから何とも言えないけど、妹がいたらこんな感じかな。放っておけない、可愛い後輩ってとこだよ」
僕の台詞に、亜希子が少し顔を赤らめる。有也が呆れたように目を細めた。
「おまえ、そういうことさらりと言えちゃうんじゃないかよ」
「そうか?」
「だったらこの際はっきり言っちまえ。例の同級生の彼女、これからどうする気だ?」
初めて聞く代名詞に、亜希子が一度瞬きをして僕を見る。
そこで料理が運ばれて来て、とりあえずはいったん場に出ているカードが流されたような形になった。
ハンバーグをメインにしたランチを口に運んでいる間、妙な静けさに包まれた空気に意識を向ける。
3人で食事をしたことは数え切れないくらいあるけれど、こんなに静かにそれぞれの食事に集中していたことはないんじゃないだろうか。
おかげで、時計の針が昼の12時を知らせる前にあらかた食べ終わってしまった。
「……何か言えば」
「おまえが言え。俺は、さっきの質問の答えをもらってねぇぞ」
とっくに食べ終わった有也が煙草の箱を取り出し、向かいの亜希子がまだ食事中なのに気付いて再びポケットに戻した。
「うん……まあ、いろいろ」
「全然分かんねぇ」
「いやだから、事情があるんだよ、彼女にも」
「そんなこた訊いてねぇよ。おまえがどうするつもりかって訊いてんだ」
「あのぉ……」
料理の3分の1くらいを残した皿を前に、亜希子が右手を肩のあたりまで上げた。
「はい、坂下さんどうぞ」
そう言った僕に、有也がものすごくイヤそうな顔をして目を上げる。
「えーと、同級生の彼女って? セイ君の彼女?」
「いや、違うよ」
「そうだよ」
有也が亜希子を指差した。
「え、何?」
「だから、違うって」
「じゃなくて、セイは、あの子を彼女にしたいのかしたくないのかってこった」
再び沈黙が落ちた。2人とも僕が答えるのを待つように動きを止めている。
僕は、黙って残りの食事に手を付けた。
「――ユウ君、会ったことあるの? その人に」
「ああ、まあ、見かけただけ。うちに清掃に来てたんだよ。セイの高校ん時の、同級生だとさ」
「へえ……それで?」
またしても2人の視線が僕に向く。目の前の皿が空になってしまって、仕方なく僕は水を一口飲んだ。
「ああ、あっちじゃねぇぞ。あの、お水の姉ちゃん。あれも訳アリっぽかったけど」
「そっちは、昔付き合ってたよ」
さらりと言った僕に、有也と亜希子が顔を見合わせる。
「マジ?」
「え? 何? お水って?」
有也が亜希子に、僕と栄子が再会した経緯を話していると、僕と有也の皿が下げられ、デザートをどうするか訊かれる。
「あ、こっちも、もういいです。下げて下さい」
まだ料理の残っている皿を、亜希子が店員のほうに押しやる。それを見て、有也が眉を上げた。
「アコ、ちゃんと食え。最近全然食べないじゃねぇか」
「そうでもないよ。今日は、あんまりお腹すいてないから……」
「いいから、食え」
そのやりとりを見て困っている店員の女の子に、僕はとりあえず3人分のデザートを持って来てもらうように頼んだ。
「おまえ、とにかくしっかり食え、そんで、夜はちゃんと寝ろ。分かったか」
「……有也」
ため息まじりに言った僕に、文句あるか、という顔で有也が視線を向ける。
「言ってる内容は正しいんだけどさ。もうちょっと優しく言ってやれば」
「充分優しいじゃねぇかよ」
反射的にぷるぷると首を左右に振った亜希子に、有也が口をへの字にする。
僕はそれを見て笑いながら、自然とその言葉を口にした。
「――彼女の――岸田っていうんだけど。その子のことは、何とも言えない。俺がどうしたいのかも、分からない」
「あぁ?」
どうやっても怒ったような言い方になるらしい有也に、亜希子がため息を吐く。
すっかり冷めているであろう料理の残りをゆっくりと口にしている間に、デザートが運ばれて来た。
小さめのチーズケーキにアイスクリームが添えられている皿を見て、亜希子が一瞬嬉しそうな顔をする。
「……もういいよ、アコ。こっち食え。俺のもやる」
有也は視線を僕に向けたまま、亜希子の前の皿を片隅に追いやって、デザートの皿を2枚亜希子の前に並べた。
「俺には分かるけどな」
「何がだよ」
甘さを抑えたアイスクリームを一口食べて、僕は訊き返した。
「そうやって逃げ道を作んのが、おまえの言う『優しさ』かも知れないけど。おまえは彼女が気になるんだろ?
また会いたい、話したいと思うんだろ?それが『好き』ってことじゃねぇか。それから逃げてちゃ、何も始まらねぇぞ」
正論と言えば正論な有也の台詞に、僕と亜希子は一瞬デザートを食べていた手を止めた。
有也は亜希子に、いいか、と訊いて彼女が頷くのを待ってから煙草に火を点けた。
「いい加減その辺くらいは、はっきりしろ。どんな事情があるのか知らねぇけどさ。
別に、向こうに決まった相手がいるわけでもないんだろ?」
それを聞いて、僕は自分の顔から表情が消えていくのが分かった。有也が煙草を口から離して、僕の目を真っ直ぐに見る。
「何、そういうわけ?」
「いや、違う、と……思うけど」
「それくらい訊けよ」
「……うん」
指に挟んだ煙草を一口吸って、椅子の背に凭れると同時に大きく吐き出した有也が、亜希子のほうを向く。
デザートは『別腹』なのか、亜希子がご機嫌で2枚目の皿に取りかかるのを見て、ゆっくりと目を細めた。
まずはおまえのほうがはっきり言えば、と言いかけた時、有也が口を開いた。
「アコ」
「え?」
「俺は、そういう意味では、おまえが好きだってことになる」
カラン、と音を立てて、亜希子の手から皿の上にスプーンが落ちた。
ちょっと待て、いきなりだ。とりあえず、僕がいない時に言ってくれればいいものを。
「俺はアコが気になるし、少しでも一緒にいたい。おまえがイヤじゃなかったら、俺のものにしたい」
そこで、俺のもの、とか言っちゃうからダメなんじゃないかよ。
僕はそう思ったけれど、なるべく無関心な顔でデザートの皿に目を落としていた。
「まあ、いきなりそう言われても困るだろうし、好きなヤツでもいるんだったらしょうがない。
とりあえず、俺がおまえを好きなのは事実だ。困ってるなら力になりたいと思う。だから」
そこまで言うと、大きく息を吸い込んで吐き出す。
凍り付いたままの亜希子の瞳を一瞬見つめ返して、有也が上着と伝票を手に取った。
「アコが俺を信用できないってんなら諦めるけど、そうじゃなければ、これからは俺に何でも話してくれ。
で、セイ、おまえは、彼女にどう行動するのがいいのか、考えろ」
「……あ、うん」
どうにか答えた僕に黙って頷くと、有也は席を立って店の出口に向かった。
「え?」
「……言い逃げかよ」
僕はため息を吐いて、残りのデザートを片付けた。亜希子の皿の上では、2つ目のアイスクリームが溶けかかっている。
「アコちゃん、それ食べちゃえば」
「うん……」
ぎこちなくスプーンを使い始めた亜希子を見て、苦笑する。まったく、こう来るとは思わなかった。
「どうやら有也の奢りみたいだし。あいつのことだから、経費で落とす気かも知れないけど」
「まさか。経理の笹原さん、そういうのは見落とさないわよ」
「いや、それをかいくぐるのが有也のテなんだって」
そう言った僕を見て、亜希子がようやく笑う。――結局、亜希子がこれからどうするのか、全然決まってないじゃないかよ。
有也が出て行ったドアのほうを見て、もう一度ため息が出る。照れて逃げ出す前に、話すべきことを話してくれないと困るんだけどな。
歩道に落ちた桜の花びらを、なるべく踏まないように歩いた。
どうしてだろう。やがては全部、土に還っていくものなのに。薄い花びらの色と形を、できることなら崩したくない、と思う。
――淘汰――その言葉が浮かんだ。散った花びらのように、朋佳の存在を消していたのだろうか、あの頃の僕らは。
まだ帰りたくない、と言う亜希子に付き合って、ブラブラと街を歩く。
時々雑貨屋の店先を覗き込んだりする時には何もかも忘れたような顔をしているけれど、
やはり、亜希子の中ではいろんな声が戦い続けているようだった。
「なあ、アコちゃん」
デパートのショーウインドウに飾られた春物のワンピースを見上げていた亜希子が、僕に視線を移す。
「やっぱさ、親戚の人とか、昔からの知り合いとか、間に入ってくれそうな人に話してみたら」
「うん……そのことなんだけど」
俯いてガラスに手を触れた亜希子が、自分の靴の先を見ながら口を開いた。
「小さい頃、うちの母は仕事に出ててね。姉は1人でも留守番できたけど、あたしの相手はしてくれなかったから、
いつも、叔母さんの家に預けられてたの」
「へえ」
「父の弟の、奥さんかな。子供がいない家だから、あたしが行くと、いつも遊んでくれて、可愛がってくれた」
「……お父さんの弟さんか……話、聞いてくれるといいけどな、アコちゃんの家族が」
「うん。最初は無理かも知れないけど――このまま黙っているよりは、マシかも知れない」
ガラスの中では顔のない白いマネキン人形が2体、オレンジと黄緑のワンピースを着て立っている。
オレンジのほうはふわりと裾が広がった形で、亜希子に似合いそうだと思った。
「叔母さん家、どこ?」
「千葉県。東京寄りだから、電車で1時間もあれば着くけど……ちょっと電話してみる」
「うん」
亜希子が携帯を取り出して道の端に寄り、僕は少し離れてガードレールに腰を下ろした。
グレーの雲が浮かぶ、水色の空。春はゆっくりと、その表情を変えて行こうとしている。
僕はふと、朋佳とこの空を見上げたいと思った。
どこか――広いところで。2人で空を見上げて、たくさんの話をしたい。
あの頃の自分達が見てきたもの、今の自分達が、見ているもの。
会いたい、話がしたい、それが、好きってことじゃねぇか。
「セイ君」
「ん?」
僕は少し慌てて立ち上がった。携帯を閉じた亜希子が僕を見上げる。
「あたし、とりあえず、これから叔母さんの家に行く。そこで少し話してみるね」
「分かった。じゃ、叔母さん家まで送るよ」
「え、いいよ、遠いし」
「いや、どうせヒマだし」
そう言って肩をすくめた僕を見て、亜希子が笑った。久しぶりに見る、どこか安心したような笑顔だった。
何度か電車を乗り継いで進む間、亜希子とゆっくり話をした。
どこか異性としての気持ちを勘ぐる部分があった時とは違う距離感で、穏やかに彼女を見下ろしている自分に気付く。
「……セイ君が、ほんとにお兄さんだったらいいのにな」
拗ねたように言う亜希子に、僕は苦笑した。喜ぶべきか、がっかりするべきか。まあ、この場合は喜んでいいんだろう。
「そのうち、お姉さんが結婚でもすればできるんじゃないの? お義兄さんてものが」
「うん……あの姉が結婚するって考えられないけど、そんなことにでもなれば、また違ってくるかもね」
「そうそう。環境が変われば、人も変わるよ」
空いた電車の座席に並んで、窓の外を見る。一瞬通り過ぎた桜並木に、緑の葉が見え始めていた。
「ユウ君……何であんなこと言ったんだろ」
「何?」
「だって、あたしのこと、好き、とか……ウソばっかり」
「いや、あいつマジだよ」
僕は窓の外を見たままでそう言った。自分の膝を見つめていた亜希子が、居心地悪そうに姿勢を変える。
「有也のこと、嫌い?」
「そんなことない、けど。……何か、セイ君のほうがいつも静かに話を聞いてくれるし……話し易くて」
「うん。それは光栄」
笑って両手を広げると、つられたように亜希子も笑顔になる。
「でも……ユウ君がいないと、それはそれで何か、変だよね」
「まあ、な」
「いつも、あたしやセイ君のことや、会社の人達のことちゃんと見てて、何をまかせても大丈夫だって感じで」
「頭の回転速いからな。他の人が気が付いた時には、もう動いてる」
「うん。だから……いてくれないと、不安になる……かな」
それは『好き』のカケラだ。僕はそう思ったけれど、黙って微笑んで窓の外を見た。
「ユウ君に――もっといろいろ話してみたほうがいいのかな?」
「それはアコちゃんが決めること。ただ俺は、あいつが本気なのを知ってるだけ。アコちゃんが話したいと思えば、話してみなよ」
分かった? と念を押すように亜希子の顔を覗き込むと、少し困った顔をしたあとで、小さく笑って頷いた。
これは高くつくぞ、有也。その言葉に笑い出しそうになったのをごまかすために、ぽん、と亜希子の頭に手を載せた。
窓の外では白い鳥が、一本の線のように横切って行く。桜色の風、水彩絵の具の空。
――明日、朋佳に会おう。そう思った僕の中の風は、不思議なほど静かに凪いでいた。