エアコンのリモコンを手に取ると、現在室温は『16℃』と表示されていた。少し寒いか、と思って、暖房のスイッチを入れる。
上着を着たままの亜希子を座らせ、とりあえずは風呂を沸かして水を入れたヤカンを火にかけた。
「――紅茶? コーヒー? 腹減ってるなら、ラーメンくらい作るけど」
「あ、ううん。……紅茶、もらえる?」
「分かった」
お湯が沸くのを待って、ティーバッグで紅茶を淹れる。
実家で余ってるのをもらってきたスティックシュガーを添えて盆に載せ、亜希子の前に置いた。
「……ありがとう」
「いや。……まあ、それ飲んで、風呂入って、寝れば。疲れてんだろ」
まだ肌寒さの残るこの季節に、明け方から1人でどこをどう歩いてきたんだろう。
少し青い顔をした亜希子は、熱い紅茶を冷ましながらゆっくりと飲んだ。
だいたいの事情は聞いたし、これ以上何を言ってやればいいかも分からない。
僕は押入れを開けてこの前有也が使った客用布団を出してきたけれど、
どうやってもぴったりと僕の布団と並べて敷くスペースしかないのに気付いてしばらく考えた。
――普段からベッドを使っているのなら、そのベッドを亜希子に貸して自分は床に寝るということで、少しは格好がつくんだけど。
そのうちに、風呂が沸いた合図の音がした。僕は畳んだままの布団から視線を逸らして、亜希子のほうを向いた。
「風呂沸いたから、入ってきなよ。あるもの適当に使っていいから。着替えは――あるよな」
「……うん」
ボストンバッグを引き寄せた亜希子が、申し訳なさそうな瞳を上げる。
僕は洗濯済みのバスタオルを出して、亜希子に渡してやった。
「俺はあとでいいから。ゆっくり入ってきな」
こくりとひとつ頷いて亜希子が風呂場に消え、僕は2組の布団を前にまたしばらく逡巡した。
何だかもう、自分の妹か何かが家出をして来たのを匿ってるような気分だ。
有也には――事実は捻じ曲げているものの――連絡したし、亜希子がお姉さんにメールを送ったのも確認した。
僕と一緒にいることのどこにメリットがあるのか分からないけれど、
まずは亜希子の気持ちを落ち着かせて、これからどうするかを考えさせないとならない。
亜希子は真面目でしっかりしている面もあるけれど、時々こんなふうに、どうしようもなく人に甘える部分がある。
仕事にしろプライベートにしろ、誰かが何とかしてくれるのを待っている感じがして、
いつも、それをフォローしながら引っ張って行くのが有也だった。
……本当に、有也のところに行くのが正解だと思うんだけどな。
あれだけはっきりと、僕の気持ちを確かめた有也だ。こうしてここに亜希子を泊めたことが分かれば、面白くないだろう。
いや、面白くない、で済むとは思えない。
もし、好きな子が自分の友達の部屋に1人で泊りに行ったら。そしてそいつも僕がその子を好きなことを知っていたら。
例えば――まず有り得ないけど、朋佳が有也の部屋に泊ったと知ったら、僕はどうするだろう。
「……セイ君」
「えっ」
「お風呂、ありがとう」
「あ、うん」
パジャマの上にカーディガンを羽織った亜希子とすれ違うようにして、自分も風呂に入ることにした。
……とにかく、今日はゆっくり休ませよう。
僕は一晩起きていても構わないし、明日の朝亜希子が目を覚ましたら、
有也に連絡を取ってどこかで落ち合って、3人で相談しよう、と思った。
風呂から上がってスウェットを着た僕が部屋に戻ると、2組の布団がきっちりと並べて敷かれていて、思わず天井を仰いだ。
――この子はもしかしたら、僕が普通の成人男子だということを、忘れているんじゃないだろうか。
客用の布団の上に膝を抱えて座っていた亜希子が、僕に気付いて顔を上げる。
青白くくすんでいた頬に赤みが差しているのを見て、ほっと息を吐いた。
「少しは、落ち着いた?」
「……うん」
「そっか。んじゃ今日はもう寝な。俺は、起きてるから」
敷いてあった自分の布団を掛け布団ごと3つに畳んで、それに凭れるようにして腰を下ろした。
「え? セイ君、寝ないの?」
「いや……もう一部屋あればいいけど、ここじゃまずいだろ」
「どうして?」
「どうしてっておまえ」
僕は具体的に説明する気も失せて苦笑すると、普段は枕元で使っている電気スタンドを引き寄せた。
台所にでもいればいいのかも知れないけれど、かろうじて調理をするスペースがあるだけの
板張りの床に一晩いるには、まだつらい季節だ。
亜希子が寝てる部屋の隅でこうして本でも読んでいれば、少しはマシだろう。
「いいから、寝ろ。疲れてる時に話しても、いい結論は出ないだろ。明日、ゆっくり相談にのるから」
「うん……」
「じゃ、おやすみ」
電気スタンドのスイッチを入れて部屋の照明を消し、スタンドの灯りが亜希子に届かないように調節して読みかけの本を取り出した。
畳んだ布団に凭れているうちに眠くなりそうな気もしたけれど、それならそれでいい。
とりあえず、亜希子と枕を並べて眠るよりは、自分に言い訳が立ちそうな状況にしておこうと考えた。
亜希子がおとなしく布団にもぐって、しばらくごそごそと落ち着く姿勢を探したあとで、静かになる。
僕はそれを横目で確かめると、ため息をひとつ吐いて読書に集中することにした。
ふと何かの気配を感じて目を上げると、布団に起き上がった亜希子と視線が合った。
「……どうした」
「ごめん……眠れない」
有也じゃないけれど、参ったな、という台詞が出かかる。まさか添い寝して子守唄でも歌ってくれっていうわけでもあるまい。
「まあ、いろいろ考えちまうかも知れないけどさ、今は体を休めるほうが先だろ。無理に寝ようとしなくていいから、休んでな」
そう言って再び本に視線を落としたけれど、亜希子は横になろうとしなかった。
「……アコちゃん」
嗜めるような僕の声に顔を上げた亜希子が、首を横に振った。
「そうじゃ、ないの」
「ん?」
「この頃……1ヶ月くらいかな、よく眠れなくて」
「それは、やっぱ、家のことで?」
今度は首を縦に振った。どうしたものか。こうなったら徹夜覚悟で、とことん相談にのるべきか。
「セイ君……」
「何?」
「そっちに行ったらダメ?」
「いや……いいけどさ」
布団から出た亜希子が、僕のそばまで来て腰を下ろした。
「寒いだろ」
「ううん。大丈夫。あの……」
「うん」
僕は諦めて読みかけの本を脇に置き、俯いた亜希子の顔を覗き込んだ。
「少しの間でいいから、……ぎゅって、してくれないかな」
一度にいろんなことが浮かんだが、僕はとりあえずそれを頭の隅に追いやった。
――その気持ちは、少し分かるような気がしたから。
「あの……」
「向こう、向いて」
僕は亜希子の後ろにある壁を指差した。つまりは、僕に背中を向けろという意味だ。
戸惑った顔をした亜希子が、足を移動させて後ろ向きになる。僕は少し前に動いて、立てた両膝の間に彼女を挟み込むようにした。
「……寄りかかって、いい?」
「いいよ」
僕の胸に背中を預けた亜希子が、大きく息を吐く。僕はしばらく躊躇ったあとで、両腕を前に回してゆるく亜希子の肩を包んだ。
組み合わせた僕の腕に軽く手を添えると、細い肩が小刻みに震え始める。
「寒い?」
「……ううん」
「アコちゃん」
「……ん?」
「いいよ、泣いても」
「ごめ……」
言い終わらないうちに、亜希子は僕の腕に額を押し付けて泣き出した。
彼女の涙が畳に落ちる、ぽとり、という音が、時折僕の耳に届く。
有也の顔が浮かんだ。悪い、という言葉も出そうになる。
けれど、僕は、不思議と穏やかな気持ちで亜希子の肩に回した腕に少し力を篭めた。
小さい子供をあやすように、亜希子の二の腕のあたりをゆっくりとリズムをつけて叩いてやる。
しばらく声を噛み殺して泣いていた亜希子が、ようやく頬を拭って僕を振り返った。
「ごめんね」
「いや」
僕は微かに笑って腕をほどくと、自分の足を引き寄せるようにして亜希子から離れた。
「ほんとに眠れないなら、一度医者に行ったほうがいい」
「……そうかな」
「うん。甘く見てると、いろいろ別の症状が出てくることもある。眩暈や耳鳴りがしたり、長い時間狭いところにいられなくなったり」
「そう、なの?」
「俺がそうだった」
小さく息を呑んで僕を見上げる亜希子に、笑いかける。
「もう、だいぶ前だけどな。今でも、月に1度は病院に行ってるよ。――たまに、どうしても眠れない時があるから」
「どうして……」
「うん、俺、やっぱ営業って合わなくてさ。この前たまたま企画にいる先輩に会って踏ん切りがついたけど、
なんとか合わせようとしてた頃も、あったから」
「……知らなかった」
「そりゃ、そうだろう」
朋佳の言葉が耳に蘇った。
『人の間にいることが、上手な人に見えた――』きっと僕の『仮面』は、僕をそう見せてくれていたんだろう。
その仮面を脱ぐことには、今でも躊躇う。素顔のままの僕は、どこまで人とうまく関わっていけるだろう。
今までは、仮面を脱ぐことなど思いもしなかった。外向きに作られた顔で人と接していれば、それで済むと思った。
――けど、僕は今、朋佳の素顔に会いたい。
自分を否定することでしかここまで来られなかった彼女の、本当に望むことを知りたい。
そのためにはまず、僕が自分の素顔を知ることから始めなければならない。
僕は立ち上がって台所に行き、白い錠剤と水の入ったコップを持って部屋に戻った。
「何?」
「俺が病院でもらってる、軽い入眠剤。……ほんとは、他人に飲ませるのはいけないんだと思うけどさ。
アコちゃんの顔色見てると、とにかく少し眠ったほうがいいんじゃないかって」
少し躊躇ってから腕を伸ばした亜希子が、僕の手から錠剤とコップを受け取る。
「ごく軽いやつだから、多分大丈夫だと思う。薬のアレルギーとか、ない?」
「うん……大丈夫」
そう言ってようやく小さく笑うと、パッケージから出した錠剤を口に入れ、水を一口飲んだ。
こくり、と亜希子の白い喉が動くのを確かめて、僕はゆっくり息を吐く。
「これで眠れるんじゃないかな。……これからどうすればいいかは、明日ゆっくり考えよう」
「うん。ありがとう」
「いや。おやすみ」
布団に戻った亜希子が、鼻のすぐ下まで掛け布団を引き寄せて、元の位置に座った僕に視線を向けた。
「セイ君……そこにいてね」
「いるよ。大丈夫」
亜希子の瞳が安心したように細められ、ゆっくりと閉じる。再び本に戻った僕の耳に、やがて、柔らかな寝息が届いた。
まぶたの裏は、一面の白。
そこには、あの夏の校庭が広がっている。
野球部の練習の声、膨張する白い光。駆けて行く靴音、紺色のスカート。朋佳の、黒い瞳。
「……セイ君」
「ん……」
「あの、電話、鳴ってるよ。携帯」
聞き覚えのある着信メロディに、僕は手探りで携帯を見つけ、開いて耳に当てた。
「……もしもし」
「おう、俺だ。まだ寝てたか?」
有也の声に、一気に目が覚める。
亜希子が使っていた布団は畳まれていて、いつの間にか身支度を整えた亜希子が困った顔で座っていた。
僕は畳んだ布団に凭れて眠ってしまったらしい。夜中に少し寒い気がして毛布を被ったのがいけなかったか。
「あ、うん、今起きた」
時計は9時半を指している。休みの日は目が覚めるまで寝ているほうだから遅くはないが、
有也にしたらこの時間まで待って、しびれを切らして電話してきたんだろう。
「アコ、やっぱ捕まらねぇんだよ。昨日ほんとに家に帰ったのか?」
この様子だと、亜希子の自宅にも電話をかけたんだろうか。僕はうまく回らない頭を動かすために、一度きつく目を瞑った。
「うん。そのはずだけど」
「んじゃ、もう出かけたのか……携帯も相変わらずなんだよなぁ」
「あ、そのことだけど」
「何」
「えーと、昨日約束しといたんだ。有也が心配してるから、俺と2人で相談にのるって。えー……11時に『ラグレス』で」
時々3人で行くレストランの名前を挙げると、有也が大げさにため息を吐いた。
「あの、なぁ。おまえ昨日、ひとっことも俺にそんな話しなかったぞ?」
「ごめん、悪い。言ったつもりになってた」
「ああ、そう……。じゃ、アコはその時間に来るんだな?」
「うん」
亜希子のほうを向いて言うと、彼女は困った顔のままでひとつ頷いた。
「分かった。とにかく、そん時話そう」
「ああ。じゃ、あとで」
電話を切ると、こっちも大きくため息が出た。
「あの……ごめんね」
「いや。なんつうか、言い訳すんのって疲れるな」
「だよね……あ、一応簡単に朝ご飯作ったけど」
折り畳みのテーブルが広げられて、オムレツとサラダが載っていた。うちにそんな材料があったかな、と思ってそれを訊いてみる。
「ううん。さっきコンビニに行って来たの。だから、サラダはもう、お皿に移しただけ」
「そっか」
「コーヒー淹れるね。あと、パン買って来たから」
僕は普段朝食は食べない。コーヒーだけで充分だったけれど、せっかくだから食べることにした。
「アコちゃん、昨夜は眠れた?」
「うん。おかげ様で。8時頃かな、起きたの」
「そうか……ぼーっとしたりしない?」
「大丈夫」
薬を飲ませたのは少し心配だったけれど、何ともなかったことに安心する。
僕は笑って軽く伸びをすると、テーブルの前に移動した。
少し時間を潰してから約束の店に行くという亜希子を送り出すと、洗顔と着替えを済ませた。
しばらく考えてから、携帯を取り上げて開く。アドレスから有也の番号を呼び出してかけると、すぐに応答があった。
「何だ。まだ早いだろ」
「うん。……あのさ、ちょっと先に話しておきたいことがあるんだ。早めに、店に来てもらえるかな」
「ああ……いいけど」
簡単なやりとりをして電話を切り、戸締りをして部屋を出る。僕はもう『仮面』には頼らないことに決めた。特に、有也の前では。
10時半に店の前に着くと、すでに有也が立っていた。少し寝不足のような顔をして、僕に向かって眉を寄せてみせる。
「何だよ、いったい」
「うん。とりあえず、入ってお茶でも飲もう」
開店したての空いた店に入り、窓際の4人がけの席に向かいあって座ると飲み物を注文した。
窓の外には大きな桜の木があって、満開の花が少しづつ散り始めていた。時折風が吹いて、道端に散った花びらを巻き上げて行く。
コーヒーのカップが運ばれて来るまで、2人で黙って桜を見ていた。
――次の桜の季節には、僕は、どうなっているだろう。希望通りに企画に異動して、そこの仕事に追われているだろうか。
「――で、何」
「実はさ」
僕は窓に向けていた視線を、有也の瞳に据えた。同じように外を見ていた有也が、僕と視線を合わせて不思議そうに顔をしかめる。
「昨日、アコちゃん、うちにいたんだ」
「……ああ、そうだろうな」
「え?」
目を見開いて固まった僕を見て有也が鼻で笑うと、再び窓の外に視線を投げた。
「昨夜おまえから電話あった時から、そうだろうと思ったよ。朝になってアコの家にかけたらお袋さんが出て、
友達の家に泊りに行ってるって言うしさ。ああまた、おまえんとこに泣きついたな、と」
「あ、そう……」
気の抜けた返事をした僕に一度視線を向けて、けっ、と笑った。
「んで、何、既成事実ができたってか」
「え! 違うよ。それはない。絶対」
「冗談だ。笑っとけ」
笑えない。とりあえず。
「まあいいや。おまえとアコが、互いにどういう気持ちでいるのかは、アコが来たら聞くよ」
「いや、どうもこうもないと思うけど……」
「だから言ってんだろうが。アコの気持ちを確かめろってよ」
それはない。うまく言えないけれど、兄妹に近いような感覚だと思った。
僕は1人っ子だから、妹がいたらこんな感じかな、と亜希子を見ていて思う。
亜希子の気持ちを確かめていない以上、詭弁なのかも知れないけれど、
亜希子の有也に対する意地の張り方を見ていて、微笑ましく思うのも事実だった。
カラン、と音がして、店のドアが開いた。
一度家に帰ったのか、朝とは違う服装で小さなショルダーバッグを下げた亜希子が、こちらに歩いてくる。
「ユウ君……ごめんね」
「ほらな、ビンゴ」
「え?」
僕と亜希子は、同時に有也を見た。にやりと口の端を上げるお得意の笑い方をして、有也が亜希子を見上げる。
「セイには謝らないってのは、そういうことだろ。昨夜、一緒にいたってこった」
うろたえて視線を泳がせる亜希子を見て、僕は苦笑した。
僕の隣に座ったものかどうか思案しているのに気付いて、僕は席を立って奥の椅子に亜希子を座らせた。
少し考えて有也の隣に腰を下ろすと、しかめ面をした有也がこっちを向く。
「アホか、おまえ、狭いだろが。これからメシ食うんだぞ? あっち座れ、あっち」
仕方なく、亜希子の隣に移動する。
注文を取りに来た店員にランチをそれぞれ頼んで、しばらくは僕ら3人の上に沈黙が雲のように浮かび上がる。
「……で?」
「何」
訊いた僕を細めた目で一睨みして黙らせると、有也が亜希子の顔を真っ直ぐに見た。
「アコ、おまえ、セイのこと好きなのか?」