1.
目を開けてみても、白い天井に変わりはなかった。
視界の端に見える点滴は、相変わらず気の遠くなりそうな速度で落ち続けてる。
お腹に当てた氷が融けてぬるくなってきたので、あたしは静かに起き上がってみた。
だいぶ痛みはひいているようだ。
急にお腹が痛くなって病院に来て、そのまま入院になってしまったのが一昨日の夜。
急性虫垂炎――つまりは、盲腸。
てっきり切られるかと思ったら、 この程度なら点滴で腫れがひくのを待つ温存法でいくものらしい。
で、食事もできずにおとなしくお腹を冷やして寝ているわけだ。
……お腹すいたなぁ。
食欲があるってことは、もう治ってるんじゃないかと思ったんだけど、
朝の回診に来た担当医には、明日まで様子を見るように言われてしまった。
とにかく明日の朝陽が一刻も早く昇るように祈って、もう一度横になって目を閉じる。
遠くに聞こえていた廊下のざわめきが、だんだん近づいてきた気がしてきた。
「はーい、お食事でーす」
明るい栄養士さんの声と、ガラガラとワゴンを引っ張る音、 そして、夕食の香りが部屋になだれ込んで来る。
――あんまりだ。
高校3年の春。受験だなんだと縛られて、 おいしいものを食べるくらいしか楽しみなんてないのに。
ここで断食の苦しみを味わわなければならないってのは、どういうわけなのよ。
「秋山さーん、いかがですかぁ?」
ざわざわと食事が配られる気配の中、元気にベッド周りのカーテンが開けられた。
「あら、氷融けちゃったの? 替えましょうかー?」
ああもう、白衣の天使も悪魔に見える。
「いえ、だいぶ痛くなくなりましたんで……氷はもう、いいです」
結構つらいのよ、冷やしてるのも。
「そう? ちょっとごめんなさいね……ああ、腫れもひいてきたみたいね」
「そうですか!?」
前言撤回。
次の台詞によっちゃ、やっぱり天使よ、神様よ。
「じゃあ、もう……」
「そうね、明日の朝センセイに診てもらいましょうね。痛くなったらすぐ呼んで下さーい」
にっこり天使の笑顔。悪魔なお言葉。
あからさまにがっかりしたあたしに再び笑顔を向けて、無情にもカーテンは閉まる。
6人部屋の夕飯の香りをそのままに。
「……ちくしょー……」
口の中で呟いたあたしは、脱走を試みる。
とは言っても、食事の匂いや食器の音からの逃亡に過ぎないから、 せいぜいロビーまでしか行けないけど。
トイレか電話にでも行くような顔をして、点滴を引きずって廊下を歩く。
よし。歩いても痛くないし、明日こそは何か食べられるかも。
17歳のオトメが食べ物のことばかり考えてるのも情けないけど、
うとうと眠れば駅前の洋食屋の特製オムライスの夢なんか見るし。
配膳に忙しい病棟は、フラフラ歩くあたしを気にする人もいない。
エレベータに乗り込んで、少し考えて、最上階のボタンを押してみた。
なんとなく、一番人が少ないかも知れないし。
5階で降りると、目の前は一面窓ガラスだった。夕暮れの街が見下ろせる。
しばらくぼんやりと景色を眺めていると、またしても悪魔の香りが漂ってきた。
廊下の右奥に『職員食堂』の文字。
ハズした。ここまで来るんじゃなかった。
食事時間が終わるまで外来のロビーにでも行こうかと考えて、廊下の左奥が気になった。
少し薄暗いその方向に、点滴を引いて歩いて行ってみる。
途端、突き当たりのドアがものすごい勢いで開いた。
「おい、丈瑠!」
低い男の人の声に、廊下に出て来た男が足を止める。
ちっ、と舌打ちをして、振り返らないまま怒鳴り返した。
「とにかく、あんたの言うなりにはならない! もう決めたんだ!」
言うが早いか、バアン、と音高くドアを閉めて、ついでにそばの壁を蹴り上げた。
まあ、何をそんなに怒ってるんだか。
ぽかんと口を開けて眺めていると、あたしに気付いた彼が顔を上げる。
「――何だよ」
こわ。
ついでに睨みつけられて、そのまま帰ろうと思ったんだけど――あれ?
「……皇子……?」
「はあ!?」
思わず口をついて出た呼び名に慌てて口を押さえたけど、しっかり聞こえてしまったらしい。
「……おうじ? ……俺のことか?」
「あ、いや、あの」
「じゃ何か、俺は白いタイツにちょうちんブルマでも穿いて、白馬に乗ってるってか」
誰もそこまで言ってない。
意外と面白いこと言うじゃない。でも目が怖いんですけど。
「いえ、そうじゃなくて、皇子。皇帝の、子」
「……何なんだそれは」
「えーと、東條くんでしょ? A組の。あたし、秋山。D組の秋山早智」
「知らねぇ」
「あ、うん。そうでしょうね」
うちは結構でかい高校だもん。1学年10クラスもあったら、知ってるほうがびっくりだわ。
「……」
だから、睨まないでほしいなぁ。
「えー、あのね、東條くん、カッコいいし。女子に人気あるでしょ?
だからあたしも顔は知ってたって言うか…」
フォローになってるんだかなんだか。
「――で、皇子ってなんだよ」
「それは……えー……イメージと言うか……」
「勝手に作んな」
「まあ、それはそうよね。いつの間にか言われ始めたんだよなー。
王様の子じゃなくて、皇帝の子の、皇子って感じだよねーって」
「誰が」
「……誰だろ。出所は分からないけど、東條くんのファンだよ。きっと。
一部ではみんな『丈瑠皇子』とかって……」
まずい。
これはかなりお気に召さないようだ。
「呼ぶな。勝手に変な名前、つけんな」
「はい。そうですね、ええ。やめるように働きかけてみます」
へこへこともみ手をしたあたしを睨みながら、腕につながった点滴に視線を移す。
「……おまえ、病人じゃないのか」
「はあ、一応。あ、たいしたことないの。盲腸だから」
「ここは患者の立ち入り禁止だ。出てけ」
「――あら、そうだったの。すいません。……で、皇子は……」
今のはわざと。さらに険しい顔になった彼に笑いかけて、言い直す。
「東條くんは、どこか悪いの?」
そう訊いたあたしを呆れたように見て、ため息をつく。
「……体中悪くなりそうだ、ここにいると。いいから部屋に帰れ。悪くなっても知らねぇぞ!」
そう言い捨てて、あたしの横を通ってエレベータに乗って行ってしまう。
ようやく息を吐いたあたしは、彼が叩き付けたドアを見上げる。
『院長室』――重々しいプレートが、掲げられていた。
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