深い緑に囲まれた坂道を登って行くと、急に目の前が開けて、あたしは額に手をかざした。
海を見下ろす高台にある霊園に、麻子のお母さんのお墓がある。
眩しそうに目を細めて海を見ていた隆太郎が、
「こっちだ」
と言って歩きだした。
墓石の間の敷石を踏んで歩いて行くと――しゃがみ込んでいる麻子を見つけた。
立ち止まった隆太郎の視線の先に、木にもたれて立つ男の人がいる。
――あれ? ……あの人、どこかで見たことがある気が……ええ?
「……恵美……リュウ――」
麻子が立ち上がってあたしと隆太郎を見つめ、後ろに立つ男の人と顔を見合わせる。
「……高木……先生?」
呆けたようにいうあたしに、麻子が困った顔で微笑んだ。
高木先生は、うちの現国の教師だ。
確か、25歳かそこらだったと思うけど。ああ、そう言えば、
麻子の入っている文芸部の顧問だったような。
まあ、独身だし問題はないのか……って、マジですか?
「ほんとに……麻子の……?」
「らしいな」
「リュウ、知ってたんだ」
「そりゃね」
麻子のそばに歩いて来た高木先生が、麻子と同じくらい困った顔であたしと隆太郎を見る。
「――すまん、心配かけて」
「ええまあ、妹のことですから」
渋い顔で先生を見返した隆太郎が、麻子と向き合う。
「で?」
「……え?」
「何て言ってたんだ? ……お袋」
そうか。麻子は、お母さんに相談しに来てたんだ。
「ん……何も。あたしに都合のいい声が聞こえるだけ」
「――何て言ってた?」
もう一度訊いた隆太郎に、麻子が先生のほうを見てから小さく笑う。
「……帰っても、いいって。お義父さんに……リュウに……甘えたらって」
「おう。分かってんじゃん」
隆太郎が、麻子の額を小突く。――あたしは、ここから外したほうがいいのかな、と考えた。
「でもね」
泣き出しそうな瞳で、麻子が隆太郎の腕に触れる。
「あたし、もうずいぶん甘えちゃったでしょ? ……お母さんのほうに行けないからって、
引き取ってもらって、高校まで行かせてもらって……」
「当たり前だろが」
少し怒った顔をした隆太郎に、麻子が首を横に振る。
「仕事で少しは役に立てたらいいかな、と思ってたけど――それもできなくなっちゃったし」
「あのなぁ、親父は一応今日会社に出てるけどさ、
おまえが手伝ってくれなきゃ、ただのお飾り社長だぜ」
「またそんなこと……」
「実際そうだろ。いくらおまえが頑張ったって、ほんの何ヶ月かで会社が回せると思うのかよ。
今までなんとかやってたのは、神崎さんやら何やら、周りの人が助けてくれたからじゃねぇのか。
親父が戻ったって、それは変わらない。助けてくれる人と親父をつなぐのに、
おまえがいないでどうすんだよ」
「……でも」
「でもじゃ」
「でもじゃないでしょ!? 麻子が……なんで麻子がそんなこと思うのよ!」
黙っているつもりだったのに、隆太郎の台詞をひったくって言ってしまった。
「あんなに頑張ってたじゃないの。会社の人達が麻子に協力してくれたのだって、
麻子だからなんだよ?
……あたしが、手伝いたいと思ったのだって、麻子だから……こんなに綺麗で可愛くて、
なんでも一所懸命な麻子が、そんな悲しいこと言わないでよ!」
うまく言えない。言いたいことの半分も言えない。
唇を噛みしめて泣きたいのをこらえていると、隆太郎が黙ってあたしの頭に手を乗せた。
「……恵美……ありがとね。あなたがいたから、なんとかやってこれた」
「あたしなんて……」
「ううん。ほんとに。……1年遅れて高校に入って、初めはすごく怖かった。
こっちに住んでた頃みたいに、自分のままで友達を作れる自信がなかった。
クラスのみんな、いい人ばかりで良かったけど、恵美を見てて、とても楽になったの」
ふわり、と微笑む。……いつも、天使みたいだ、と思う笑顔。
「あなたはいつも真っ直ぐで……たくさんの人に愛されるものを持ってて、羨ましかった。
素直で、可愛くて、あたしともなんの気負いもなく話してくれる。
……恵美と一緒にいると、なりたい自分でいられたの」
あたしは麻子に言われたことにびっくりして、隣の隆太郎を見上げた。
「『右側の天使』だな」
と、それまでずっと黙っていた高木先生が口を開く。
「麻子にとって、杉浦は『右側の天使』なんだよ」
言われたあたしがぽかんとしていると、隆太郎が説明してくれた。
「……そういう例えがあるんだよ。右側の天使は人を善に導いて、
左側の天使は人を悪に導くっていう。
麻子は、おまえと一緒にいると『善』でいられる、ていうんだろ」
「それはリュウもそうなんじゃないの?」
少し元気になった感じのする麻子が、からかうように言う。
「さあな。俺の場合はちょっと違うから」
……どう違うっていうんだろう。
「でも、そんな、あたしが……」
天使と呼べるのは、麻子のほうだ。
綺麗な華奢な容姿も、優しく慈しむようなしぐさも――。
「認めてやれば?」
苦笑した隆太郎が、あたしを見下ろして言う。
「それは、象徴なんだから。おまえが天使かどうかよりも、麻子の中でそうなら、それでいいじゃんか。
で、おまえも、麻子が好きで協力したいと思ってるなら、今までどおりでいいんだろ」
「……そう、なのかな」
「そういうこと……麻子、おまえは親父にとったら娘だし、俺には妹で――
まあ、同い年だからなんでもいいけど、とにかく、もう家族なんだよ。
どうせそのうち嫁に行くなりなんなりするんだろ? そん時ゃうちから行けよ。
で、いつでも帰ってくればいい。……俺と親父しかいないから、役には立たないけどな」
嫁!?
そうか、先生となら、卒業してすぐに結婚してもおかしくはないのか。……おかしくはないけど。
「そうね……そのうち、帰ったら恵美が待っててくれるかも知れないし?」
ど、どういう意味ですか、それは?
「ま、そうかもな」
「え、ちょ、ちょっと」
微笑んであたしと隆太郎を見つめていた麻子が、先生を振り返って、お墓の前にしゃがんだ。
そのまま手を伸ばして、そっと墓石に触れる。
高木先生が、隆太郎と視線を合わせて頷いた。
少し考えたあとで、ぺこりと頭を下げる隆太郎を見て、あたしも慌てて頭を下げた。
先生は麻子の隣に並んでしゃがむと、同じようにお母さんのお墓を見つめた。
麻子の瞳から、涙がひとつこぼれ落ちる。
――隆太郎があたしの背中を軽く叩いて、黙って歩き出した。
あたしは麻子の穏やかな横顔をもう一度振り返って、並んで歩く隆太郎を見上げる。
初めて見る、静かな瞳をしていた。
その夜、あたしは梨佳から電話で質問責めに遭い、なんとかごまかした。
……隆太郎とは、なんでもないって言っても無駄だろうから曖昧に肯定させられてしまったけれど。
電話を切っても、寝付かれずにぼんやりと本をめくったりして過ごす。
麻子の言っていたことを、ずっと考えていた。
『右側の天使』自分を正しいほうへ導いてくれるもの。
あたしが麻子にとってそうなら、麻子だってあたしの天使だ。
『俺の場合はちょっと違うから』
……どう違うっていうのか、訊いたら答えてくれるのかな。
そんなことを思った時、携帯が鳴り出した。
『――起きてたか?』
「……隆太郎。うん。起きてた」
『麻子、さっき帰ってきた。高木さんに送られて』
「え、ほんと? 良かった」
『うん。今親父と話してる。――多分、しばらく仕事も手伝ってもらうんじゃないかな』
「そうね。そのほうがいいと思う」
『――恵美、窓開けてみ』
「え? 窓?」
『結構星が見えるよ。都会の空も捨てたもんじゃないな』
「そうなの?」
あたしは立ち上がって、窓を開けた。
――向かいの家の塀にもたれた隆太郎が、携帯を耳に当てて笑っていた。
「りゅ、隆太郎! そこにいたの!?」
『……でかい声出すなって』
隆太郎の声が、携帯と外から同時に聞こえる。
「ちょっと待って、今降りるから」
『いいよ、遅いし。ちょっと顔見に来ただけ――』
「待ってて!」
あたしは電話を切り、慌しく着替えて1階に降りた。
寝ている両親を起こさないように、息を潜めて玄関を出る。
半分困ったような笑顔の隆太郎を見た途端、思わず駆け出していた。
腕を広げて抱き止めてくれた隆太郎が、
「――どうした?」
と訊く。
「……すごく、会いたいと思ってたから」
「なんだよ、素直だな」
照れくさそうに笑う気配が伝わってきて、あたしは目を閉じた。
「……どうやって来たの?」
そろそろ終電の時間なんじゃないだろうか。
「あれ」
と言って指差すほうを見ると、うちの塀に沿って自転車が止めてある。
――電車で2駅だから、来れなくはないだろうけど。
「とりあえず、受験終わったら免許取るから。それまではこれでガマン」
「そっかー……そう言えば受験なんだよね」
「ああ。ぼちぼち本腰入れてかからないと……ま、落ちるつもりはないけどな」
「忙しくなるね」
「そりゃ多少は――なんだ、寂しいのか?」
「うん。寂しい」
「……おまえな。いくら麻子に素直だって言われたからって、なんか調子狂うんだけど」
「何よもー、人がせっかく……」
顔を上げたあたしの頬に、隆太郎の手が触れる。
見つめる瞳に吸い寄せられるように、唇が重なる。
……あたしは、正しいほうへ歩いているのだろうか。
迷った時、悩んだ時、何を思えば歩き出せるのだろう。
麻子の瞳。友達の声。家族の笑顔。
あたしを包む、隆太郎の胸の鼓動――。
そのすべてが、在るがままのあたしでいいと、道を示してくれる。
――だからあたしは、天使の声を聞く――。
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