彼の唇は冷たかった。
触れた瞬間の、薄い、冷たい唇の感触と裏腹に、自然に背中に回された腕の温かさに私は戸惑った。
顔を離す。視線が合う。
一瞬の苦痛を堪えるような表情のあと、まるで今自分がしたことを嘲笑うような顔をする。
もう半袖ではいられなくなった秋の夜。私は初めて、恋人ではない人とキスをした。
渉と出会ったのは、インターネットの掲示板だった。
パソコンに不慣れな私が書き込む質問に、丁寧に答えてくれたのが彼だった。
何度か会話をやりとりして、問題が解決できたお礼を書き込んだ私への返信に、彼のメールアドレスがあった。
『何かあったら、メールして下さい』そのあとの冗談のような『何もなくても送ってくれていいよ』という言葉に、
少しも警戒しなかったわけではない。
けれど、結局私はお礼のメールを送り、それに彼からの返事が来て、二、三回それを繰り返した。
やがて互いの住んでいる場所が意外なほど近くだと知り『会おうか』という話になった。
「……『ちぃ』さん?」
待ち合わせの駅の改札に立つ私は、きっと強張った表情をしていただろう。
柔らかく低い声で私のハンドルネームを呼びかけた彼は、安心させるような笑顔を見せてくれた。
「ワタルさん……ですよね」
「そうです。あ、それ本名だから。字はね、さんずいにあるく、の渉」
「ええと、私は千絵です。せんに、絵画の、え」
「よろしく」
そう言って笑った彼と一緒に歩き出して、近くの喫茶店で話をした。
掲示板やメールでのやりとりと同じ、相手を気遣う強さを持った話し方をする人だった。
けれど駅前で別れ際に、また会おうよ、言われた私は、思わず俯いた。
「あの……私、もうすぐ結婚するんです。今仕事で北海道に行っている彼が帰って来る、来年には」
「ああ、そう。おめでとう」
明るく言った彼は次に、軽く肩をすくめてみせた。
「俺も似たようなもん。一応、決まった相手はいるから」
「あ、そう、なんですか」
「うん。だから、友達でよくない? たまにメールしたり、食事に行ったりくらいは」
私より三つ年上の29歳だという渉は、子供のような顔で笑った。
「ダメか」
「……いえ、はい、そのくらいなら」
「じゃ、これ」
と言って携帯を取り出し、自分のメールアドレスを呼び出して私に見せてくれた。
モタモタと登録するのを優しい瞳で見ていた渉が、もう一度笑う。
「何か送ってみて」
そう言われて、しばらく考えてメールを作成して送ると、彼の携帯から軽やかなメロディが流れる。
携帯を開いて確認した渉が、吹き出した。
「え、何か、おかしいですか?」
「いやいや、だって『千絵です』だけって。分かってるっての」
「……だって、何て書いていいか」
「うん。いいよ。ああ、あと、敬語もいらないから。またね」
「はい」
手を振る渉と改札で別れた私は、胸の中で呟いた
『何も、悪いことなんてしてないよ。でも、少し寂しいと思うくらいいいでしょう?』。
三年前に同じ会社で出会って付き合うようになった和明とは、付き合って一年目から一緒に暮らすようになった。
互いの親にも話して、近いうちに結婚すると言って、その二ヶ月後に、和明の転勤が決まった。
急いで籍を入れて私も一緒に北海道に行くという話も出たけれど、
まだ東京で仕事を続けたい私に和明は、二年で帰って来るから、と言った。
そうしたら、一緒になろう。二年、待ってて。
来年の春、和明は東京に帰って来る。式場の予約もして、婚姻届の準備もできている。
だから、私は今、とても幸せなはずで。
何も不安に思うことなど、有り得なくて。
けれど、渉と話をするうちに、会ってその笑顔を見た時に、寂しかったんだ、と気付いた。
和明からは時々メールが来る。月に一度は電話もくれるし、年末や夏休みには帰って来てくれた。
充分すぎるほどの幸せをもらって、何が寂しいというの。
駅のホームに立つ私の携帯が、着信音を奏でた。
開いたメールは渉からで『今度うまいものでも食べに行こう』とある。
しばらくためらって、ホームに入って来た電車に乗った私は、ドアにもたれて再び携帯を開く。
『はい。では、また』その短い文字を何度も確かめて、思い切って送信した。
では、また――会って、話をするだけ。一緒に食事をするだけ。
そう自分に言い聞かせて、短くため息を吐いた。
和明が北海道に行ったばかりの頃は毎日メールが来たし、週末には必ず電話がかかって来た。
けれどいつしか、メールの言葉の端々や受話器の向こうの声に、
忙しく疲れた様子を感じて、私は自分からの連絡を控えた。
二年近く経つうちに、だんだんとメールや電話の回数は減っていく。
長い休みに帰って来ても、実家に行ったりするくらいで、ゆっくり話ができたとも思えない。
何を、話すの?
結婚することは決まっている。和明となら、特別な話をしなくても、一緒にいられるだけでいい。
本当に?
遠くへの旅行や、凝った食事や、何気ないプレゼントや、互いを思いやる小さな言葉は、必要ない。
何も言わなくても、もう、分かり合えているから。
一人の週末に、和明と過ごす休みの日に、私は何度も言い聞かせた。
これで、いいんだと。このままこうしていさえすれば、幸せなんだと。
渉から何度かメールが来て、それに私が返信して。
いつの間にか、敬語で話すこともなくなり、私からメールを送ることも増え、会って一緒に過ごす時間が増えていく。
人通りの多い街を歩いた時、渉が自然と私の腕を引いた。
すれ違う人や車とぶつからないように、二人がはぐれることがないように、
軽く私の腕に添えられた手が、いつしか私の右手首を掴むような形になっていた。
どちらが先に動いたのか分からない。途切れた会話を繋ぎとめるように、気付けば黙ったままで手を繋いでいた。
いつもより会話が少ない一日を過ごし、歩く時にはどちらからともなく手を繋ぎ、
私の――和明と二人で借りた部屋の前まで、送ってもらった。
そして、その、冷たい唇に、触れた。
私の唇は、同じように冷えていただろうか。それとも、温かかったのだろうか。
「――じゃあ、また」
「ねえ」
上がって行く? という言葉が出掛かり、それに驚いた私は、瞬間息を止める。
「何?」
まるで何もなかったような顔。『友達』の私にキスをしたことなど、忘れたように笑う。
「……彼女、って」
「え?」
「渉の彼女って、どんな人? 私、和明のことは結構話したけど、彼女のことって、聞いたことない」
「聞きたい?」
「少し。だって、週末にはほとんど私と一緒にいるでしょ? 大丈夫なのかな、って……」
苦笑した渉が、足元に視線を落とした。
そして、ひとり言のように呟く。
「会うだけなら、毎日会ってるよ。平日の夜でも、週末でも」
「……一緒に、住んでるの?」
「いや。俺は一人暮らしだけど、彼女は自宅。……そうだなあ、ここ一ヶ月くらいかな、毎日会うようになったのは」
「じゃあ、付き合ってそんなに経たないんだ」
「いや」
軽く首を横に振ると、諦めたようにひとつ息を吐いた。
「俺と彼女は――同じ年で、今まで生きてきた人生の半分くらい、一緒にいる」
「――人生の、半分?」
「そう。中学の時に付き合い始めた。ませてたよな、ガキのくせに」
片目をしかめるように細めて笑う。
そう、いつも、渉は笑っていてくれる。疲れた顔も見せない。仕事の愚痴も、言わない。
私は本当の彼を知らない。生きていれば当たり前に受ける傷も、痛みも、知らない。
「中学から――ずっと?」
「うーん、その辺は微妙なんだよなあ。何度か、別れた。
彼女はどうか知らないけど、俺は他の子と付き合ってた時期もある。けど」
言葉を選ぶように視線を泳がせてから、私の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「もう、あいつとは離れない。もう少ししたら、きっと、籍を入れる」
「……そう」
こっちも、おめでとう、と言えばいいんだろうか。
「先月、一応プロポーズのようなことは言ったよ。そろそろいい年だし」
「そう」
じゃあ、どうして、私にキスなんかしたの? こみ上げる言葉は、声にならない。
「でも、断られた」
「えっ?」
渉の話がよく飲み込めない私は、戸惑った顔で見上げる。
「子供を、さ」
少し言いにくそうに唇を噛んで、大きく息を吐くと、一息に言った。
「あなたの子供を無事に産めるかどうか分からない。そんな女と結婚するなんて、間違ってるよって」
「……」
返す言葉を見つけられない私に、渉が少し困った顔をする。
「心臓が、悪いんだ。先天的に。何度も入院して、手術を受けて――でも、今度の手術できっと最後になる。
今、入院してそれを待ってる」
「……じゃあ、毎日会ってるっていうのは」
「そう。病院に面会に行ってるから。あいつは一応高校まで卒業できたけど、休みがちで友達も少ないからさ」
「だったら、放っておけないよね」
「悪い。そういう言い方はしないでほしい」
怒らせたのかと思った。けれど、私を見つめる渉の視線は、変わらずに優しかった。
「俺一人で彼女を守ろうと思ってるわけじゃない。これから、手術が成功すれば、いろんな人と関わる機会も増える。
それで俺が振られたら、まあ、しょうがないけどさ」
おどけた調子で言って、軽く首を傾げてみせる。
「俺は、子供を産んでもらうために彼女を選んだわけじゃない。そこまでバカにするなって言って、泣かせちまった」
「……嬉しかったんだよ、きっと」
「どうかな。とにかく、今度の手術が終ったら、俺はもう一度あいつに結婚を申し込むつもりだよ」
少し風が出てきた。冷たさを増していく夜の空気の中で、そこだけが晴れた青空のように、渉の瞳は明るかった。
そう、良かったね。お幸せに。
私はそう言うべきだろう。そして私も、渉にそう言ってもらえばいいんだろう。
「ま、彼女のことは、こんな感じ」
「……うん」
「じゃあ、またな。おやすみ」
「おやすみ」
笑って歩き出す渉の背中に、私は曖昧に手を振る。
そう。だったら、私は? ただの友達? これから、どうするの。どうなるの。
いつまで、こうやって会うつもりでいるの。
それから、彼女の話は出なかった。
私も、和明のことはあまり話さない。
互いの趣味のこと、育った環境のこと、渉と話していると、あっという間に時間が過ぎた。
並んで歩く時には、自然と手を繋いでいる。
そして、帰り際には、あの冷たい唇で私に触れる。
ただ一言の『好き』という言葉すらない。笑って、冗談を言って、一人で過ごすべき時間を共有している。
渉と会うようになって、キスをするのが当たり前になって、和明からのメールや電話の度に私は緊張した。
けれど不思議なほど、当たり前に楽しそうな声が出せる。
和明の帰りだけを待って、一人で過ごしているように甘えられる。
そんなに、私は、ずるい女だったのか。
そして渉は、毎日彼女の病院に行って、私と繋いだ手で彼女に触れ、
私に触れた唇で、彼女に優しい言葉をかけるのだろう。
私達は、こんなにもずるい。
渉と一緒にいることで、私は和明と笑って話せる。
喉まで出かかった不満や不安を、うまく隠して。仕事で疲れている彼を、安心させるような振る舞いができる。
渉は、どうなのだろう。
病院にいる彼女と一緒に過ごせない分を、私で埋めているのだろうか。
渉からのメールが来ない日は、少し不安になる。
私は彼の携帯番号も、自宅の電話番号も、住所も、彼の苗字すら知らない。
このアドレスを消してしまえば。どちらかが黙ってアドレスを変更してしまえば、それで終る。
渉から二、三日メールが来ない時は、和明からの連絡があった時ですら、私は落ち着かない時間を過ごした。
こちらから送ったメールに返事が来なければ、尚更だ。
もうダメかも知れないと思う頃に、渉から当たり前にメールが来たりする。
そして、一緒の時間を過ごして、キスをする。
いつも、軽く触れるだけのキス。
渉の体温が感じられる手前で、離れていくキス。
それは、薄い一枚の硝子のように思えた。
どちらかが一歩でも踏み出せば、たちまち割れてしまうようなキスだった。
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