いっそのこと、体を交わしてしまえばいいんだろうか。
互いの相手のことは忘れた振りで、好きだと叫べばいいんだろうか。
冷たい唇が一瞬で離れて、あの優しい笑顔で渉が手を振る時、私は叫んでしまいそうになる。
もう、やめて。
彼女を選んだのなら、私に触れないで。友達なんて言葉の細い糸で、私を繋ぎ止めないで。
そうでなければ。
好きだと言って。私にそう言わせて。これから先もずっと、好きでいると約束して。
和明。
あなたの帰りを、私は待っているよ。
メールが来れば、電話で話ができれば、安心するよ。
ねえ、私が必要?
渉より、他の誰より、あなたは私を必要としてくれる?
これから先に、幸せが待っていると、約束をしてくれる?
そう、私は、こんなにもずるい。
自分が幸せになることだけを、求めている。
それに思い至った時、吐き気にも似た痛みに、私は襲われた。
一人きりの部屋で、両手で口を覆って、呼吸を整えようとして、涙が溢れた。
どうして泣くの。何のために、誰のために泣くの。
これだけ、自分の幸せに貪欲になってまで、まだ自分のために泣くとでも言うの。
携帯を開いた。
渉のメールアドレスを呼び出して、作成画面をキャンセルして、和明のアドレスを開いて、携帯の電源を切った。
誰に、何を、言うつもりなの。
もうこれ以上、誰に甘えれば気が済むの。
声を押し殺して、奥歯を噛みしめて、ただ、泣いた。
体の奥から突き上げてくる、寂しい、という気持ち。誰かの手に触れて、しがみつきたくなる衝動。
好きだと、会いたい、と、私は誰に向かって叫んでいるの。
どうしたの? と、何度も訊かれた。
繋いでくれる手は、温かかった。
季節はもう、春を迎えている。渉の彼女もきっと、手術が終って、回復してきたことだろう。
もうすぐ、和明が帰って来る。
もう、互いに、利害は一致しない。
帰り際の、いつものキスのあと、私は渉の首に腕を回して引き寄せた。
「……千絵?」
冷たい唇に触れる。舌で歯列を割って、深く、長く、キスを交わす。
私の背中に回された渉の腕に、力が篭る。いつも冷たかった唇が、柔らかく、熱く、私のそれと溶け合うようになる。
硝子が、割れた。
息を吐いて、互いの体に腕を回したまま、見つめ合う。
「もう……やめよう」
押し出すように言った言葉に、渉の瞳が細められた。
「……うん。分かった」
「彼が……帰って来る。私は、結婚する」
「うん」
「だから、もう、ダメ」
「うん」
「もう、ダメなんだよ!」
震える私の肩を、渉の両手がそっと引き離す。
涙は、出なかった。
結局、私も、渉も、本当の自分を、本当の感情を見せないままに一緒にいた。
友達という言葉で。互いの本当の相手と、離れていなければならない寂しさ、という理由で一緒にいた。
「千絵」
「……もう、会わない。メールも、しない」
「うん。分かった。顔、上げてくれないかな」
きつく唇を噛んで、閉じた目にぎゅっと力を入れて、私はゆっくりと顔を上げた。
優しく笑う渉の瞳が、そこにあった。
唇の冷たさが不思議に思えるくらい、いつも、温かい瞳だった。
「……渉」
「ん?」
「彼女、もう退院したんでしょ? これから、ずっと一緒にいられるね」
笑おうとした。けれど私のその言葉は、やきもちを妬くすねた女のように、皮肉に聞こえた。
「……そう、したかったけどね」
「え」
「ダメだった」
「どういう、こと」
「かなり、難しい手術だった。これ以上は、彼女の体力がもたない、ギリギリの賭けだった」
優しい瞳は変わらなかった。まるで自分には関係ないことだというように、淡々と言葉を紡ぐ唇を、私は見つめた。
「彼女と、彼女の家族と、俺は、それに賭けた。――でも、勝てなかった」
「――そんな……まさか」
「うん。手術の途中で、彼女――死んじまったよ」
「い、つ……」
「先月。桜が咲くのを、楽しみにしてたんだけどね」
私が泣くのは、おかしい。
彼女を失った渉が、こうして自分の足で立っているのに。私の前では、一言も、そんなこと言わなかったのに。
私は、自分の膝が震えるのを、止められなかった。
「千絵。ありがとう」
「……え?」
「彼女の前で、笑っていたかった。あいつを亡くしても、自分で立って歩いて行きたかった。
その力を与えてくれたのは、千絵だ」
違う。私は、ただ、ずるかっただけ。寂しさを埋めてくれるキスを、優しい瞳を、手放したくなかっただけ。
「私……」
和明の顔が浮かんだ。今夜の飛行機で、彼は帰って来る。何も知らずに。これから先、私を幸せにするために。
私は彼を失くせない。もし、彼が私より先に逝ってしまったら、こんな風に立っていられない。
だから、今、言ってはいけない。
あなたが好き、という言葉など。
「……幸せに」
軽く額に触れた唇は、温かかった。
もう、硝子は、割れてしまったのだ。
渉が手を振って、歩き出す。その背中が見えなくなって、私は一人で部屋に入る。
しばらく部屋の真ん中に座り込んでいると、携帯が鳴った。
和明だ。
「もしもし」
『あ、俺。今東京着いた。これから電車で帰るよ』
「うん」
『いや、こっちはもうだいぶ暖かいな』
「……そう」
『千絵?』
「え?」
『どうした。泣いてるのか?』
「……ううん。――和明」
『うん?』
「お帰りなさい」
『……ああ。ただいま。ごめんな、長いこと待たせて』
「うん。寂しかった」
寂しかったよ。けれど、それだけで、あの冷たい唇に、優しい瞳に触れたかったわけじゃない。
渉が、好きだった。きっと。
『俺も。もうすぐ帰るから。な』
明るい和明の声に、黙って頷く。
『泣くなって。これから電車乗るから』
「うん。大丈夫。気を付けて」
電話を切って、ぼんやりと携帯の画面を見る。
メールの履歴を呼び出して、ひとつひとつ読み返しては消していく。
そして、渉のアドレスを呼び出そうとした時、メールが入った。渉からだ。
『ごめん』と書かれた三文字を、指で辿る。
彼女を想いながら私に触れたことに対する『ごめん』なのか、和明から私を奪うことを選ばなかったからなのか。
どちらでもいい。
携帯のバックライトが消えたのを合図に、私はそのメールを消去する。
そして、渉のアドレスを、消した。
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