2. Oblivion 〜忘却〜

その日の夕方、僕は自分のベッドで目を覚ました。
しばらくの間、どうして寝ているんだろうとぼんやり考え、淳美は帰ったんだっけ、と考えて思い出した。
―――アツミ。あの奇妙な娘が来たのは今朝早くだった。
『思い出させてあげるわ―――春明』そう言って笑ったアツミの瞳を見つめているうちに、猛烈な眠気に襲われた。
ちゃんとベッドに寝ているところを見ると、自力で寝たらしいな。
―――夢だったんだろうか。そうかも知れない。
とにかく、おかしな娘だった。この季節に半袖のワンピース。華奢な身体、長い髪。
見た目は、僕とたいして変わらない―――20歳になっていないくらいに見えた。
なのに淳美のことを話す時、最後に笑った瞳、どれも僕よりずっと年上の女性の顔に見えた。
淳美のことを、はっきりさせるべきだという警告の夢だったんだろうか。
起き上がると軽い頭痛がした。このところしょっちゅうあることだから、顔をしかめてやり過ごす。
『会えば分かるわ―――イヤでもね』ちゃんと会って話せってことか。
会うだけなら、毎週のように会ってる。淳美が勝手に(と言っても必ず電話はいれるけど)部屋に来て、
食事を作って、たまに泊まっていく。それだけだ。
話すのは互いの仕事の事や、最近あったどうでもいいこと。
自分の考えやこれからのことなんて、話した事があっただろうか。
玄関を見にいくと、鍵がかかっていた。やっぱりアツミが来たのなんて、夢だったんだ。
『俺も気が弱いよな―――』淳美に対して悪いと思っているんだろうか。だから、そんな夢を見るのか。
「会えば分かる、か」
誰にともなくつぶやいて、とりあえずシャワーを浴びることにした。

そう言えば朝から何も食べていなかったことを思い出して、外に出た。
一応『夢のお告げ』に従ってみるか、とひとつ先の駅まで電車に乗る。
この近くで、淳美の親戚の叔父さんが喫茶店をやっている。
淳美は学生の頃からそこでアルバイトをしていて、社会人になってからも週に2日夕方から手伝いに行っている。
まあ、あいつらしいと言えなくもないな。
僕も付き合い始めの頃は何度か顔を出して淳美の叔父さんとは直接話したことはないけれど、
知り合いだということは向こうも分かっている。
付き合ってることは、淳美のことだから話していないだろう。
親にも言ってないらしい。僕のほうから電話をしたり、家まで送っていったのは数えるほどだから、
淳美が話していなければ知らないはずだ。で、僕は話していないほうに賭ける。
そういうやつなんだよな、とまた考えた頃、目的の店についた。

「いらっしゃいませー」
なんだか久しぶりに聞く気がする、淳美の明るい声が響いた。
女にしてはハスキーで、それを気にしているのかいつも小さい声で話す癖がある。
探すまでもなく、エプロンをつけた淳美が見えた。
僕よりかろうじて3センチ低いだけの背。これも淳美のコンプレックスらしく、いつも背中を縮めるようにしている。
昔は伸ばしていたこともあったらしいが、僕の知る限りではずっとショートカットの髪。
一重瞼なのも気にしているようだけど、化粧は苦手だからとほとんど素顔だ。
夢で見たアツミの顔を思い出して、確かに見た目で言えばあっちのほうがはるかに好みだよな、と思う。
「お一人様ですかー?」
にこにこと話しかけてくる淳美。―――これは、わざとか?
「ああ、一人だけど………」
「こちらへどうぞ」
窓ぎわの2人がけの席へ案内される。たいして広い店じゃない。カウンターに、テーブルが4席。
叔父さんは、カウンターの中で何やら作業をしている。
「ご注文はお決まりですか?」
相変わらす愛想よく聞いてくる。逆に不安になるんだけどな、そういうのは。
「え、えー…っと。いや、まだ…」
「お決まりになりましたらお呼び下さーい」
にこやかに告げてカウンターのほうに戻ってしまう。―――どういうつもりだ?
前に何度か来た時も、特別親しそうな態度はとらなかった。
それでも、目が合えば照れくさそうに笑ったり、暇な時間なら僕がいる席のそばまで来て小声で話したりはしていた。
それが、まるっきり普通の客に対する態度と同じだと、何か意図的にそうしているように見える。
「あっちゃん、ブレンド上がったよ」
カウンターの叔父さんが声をかけた。はーい、と明るく返事をして、出来上がったコーヒーを他の席に運ぶ。
僕を一応見知っているはずの叔父さんも、僕のほうを見ようともしない。
とにかく何か注文しないと始まらない、と思って、目が合った淳美に右手を挙げてみせる。
「はい、お決まりですか?」
僕の前で、こんな笑顔でいたのはいつのことだっけ。半年しか経たないのに。その誰にでも見せる笑顔がやけに遠かった。
「………あの?」
「ああ、えーっと……この、ピラフのセット。コーヒーで」
「はい。ホットでよろしいですか?」
「ああ、うん。で、……あのさ」
「?」
小首をかしげて、客用の笑顔を浮かべて、次のセリフを待っている。
それはアツミに―――僕の部屋の窓を叩いたあの夢の中のアツミに似ていて、咄嗟に言葉が出なくなる。
「あの………今日、何時にあがる?」
これじゃナンパだ。どうして今さらこいつをナンパしなきゃいけないんだ。
「えっ?……あ、あの、ごめんなさい、そういうのは……」
やっぱりナンパに見えるんだろうな。他の客や叔父さんも、面白いものを見るように笑っている。
「いや、なんでもない………ゴメン」
「い、いえ、すいません。じゃ、あの、少々お待ち下さい」
しどろもどろにどうにかそれだけ言って、カウンターに注文を出しに行く。
叔父さんに何かからかわれたらしく、それからはもうこっちを見ようともしない。
僕はと言えば食事に入った店でいきなり店員の女の子をナンパして、あっさり断られた情けないやつでしかない。
運ばれてきたピラフは、全然味がしなかった。

『会えば分かるわ―――イヤでもね』
アツミの言葉が頭の中で回っていた。どういうことだ?本当に俺を忘れたのか?それとも、他に理由があるのか?
考えても仕方がない。だいたい、淳美がバイトをあがる時間は見当がつく。
駅の改札で、僕は淳美を待っていた。ここにいれば、そのうち通りかかる。
明日も会社があるんだし、会社や家の前で待っているよりは、ここにいたほうがましだろう。
電話をかける気はしなかった。今まで2、3回かけた時も、淳美の親は一応取り次いではくれるものの、
あからさまに迷惑そうな声だったからだ。淳美に替わってからも、ほんの少し用件を伝えただけですぐに切る羽目になる。
淳美もそれだから、僕からの連絡は期待していないようだった。
それで別に問題はなかった―――今までは。
「なぁにやってんのよ、こんなとこで」
場違いなほど明るい声と一緒に、どん、と背中をどつかれた。
僕は思わず自分の頬を叩いた。―――そこに、アツミがいたからだ。
「馬鹿ねー、言ったでしょ?会えば分かるって。いつまでこうしてる気?」
「お、お前いったい………」
「ちょっと待った。あたしに話し掛けないほうがいいわよ。あたし、他の人には見えないんだから」
「―――は?」
「あんまり変な人だと思われても困るでしょ?だから、話は部屋に帰ってからね。行きましょ」
「行きましょって………おい」
なんだか分からないうちに僕は切符を買って、改札を抜けた。
僕の腕につかまったままのアツミも、そのままくっついて一緒に抜ける。―――これって、まずいんじゃないのか?
結局アツミは無銭乗車のまま、地元の駅についた。
他の人には見えない―――それが本当かどうかはともかく、
アツミのほうが何も喋る気はなさそうだったので、黙って僕の部屋まで歩いた。

「まあったくもう、人の話を聞いてないわね、あなたって人は」
部屋に入るなり、僕はアツミに怒られていた。
「だから言ったでしょー?淳美さんの、あなたを好きな部分は全部あたしなんだって。
春明のことが好きじゃない淳美さんなんて存在しないんだから、覚えてるわけないじゃないの」
だから言ったって言われても、そんなわけの分からない話があるか。
「強いて言えば、合コンで会ったばかりの春明のことなら覚えてるのかな―――でも、そんなの面倒だしね。
全部消しといたわ。そのほうがいいし」
こいつが、淳美の一部分(アツミに言わせれば、僕を好きな部分)だっていうのか?
こんなに強引で、よく喋る、うるさいのが?
ちょっと待て、消しといた、だと?
「少しは分かってくれたかしら?あたしは淳美さんの替わりに来たの。だからあたしがアツミなの。お分かり?」
「―――俺のところより、病院に行ったらどうだ」
「んもー、他の人には見えないって言ってんでしょ?あたしは春明のためにだけ存在するんだから。
医者だろうが学者だろうが、あたしの存在は確認できません、て」
「幽霊かなんかか、お前」
「まあ、似たようなもんかなぁ。でも、朝も言ったけど、悪い状態じゃないでしょ?
あなた好みの外見で、こうだったらいいのにと思ってた性格で、そのうえ、あなたのことを想う気持ちは淳美さんのもの」
こいつの言ってることの、何を信じろと言うんだ。
「淳美の記憶を消したのは、お前なのか?どうやったらそんなことができるんだ」
「………あたしにもよく分からないのよねぇ」
ため息をひとつついて、床に座ったまま足を伸ばし、後ろのベッドによりかかる。
「分からない、だと?分からないで人の記憶をどうこうできるもんなのか?他人から見えないって、どういうことだ?」
「だからそれは、春明のためにだけ存在するのがあたしだから。ああ、これはちょっと違うかな。
春明と、淳美さんのために存在してるんだと思うわ、あたし」
「―――淳美の、ため?」
「そう。あなた達二人が望んだことが叶ったわけ。ああでも、淳美さんはあたしと関わるわけにいかないし、
あたしの存在を知るよりも春明を忘れるほうがいいと思ったから、そうしたの」
簡単に言ってくれる。こいつはいったいなんなんだ。化け物か、悪魔か―――天使か。
「それとも、あなたは困る?あたしよりも、あの淳美さんでないと、イヤ?」
「………とにかく、一度あいつと話させてくれないか」
「今はやめといたほうがいいわ。今日の彼女を見たでしょ?明るくて、生き生きしてた。
これ以上淳美さんが傷つくのはイヤなのよ、あたしとしても。仮にも彼女の一部なわけだし」
「で、淳美を傷つけてたのは俺だから会うなってことか」
「そう短絡して取らないでよ。あたしに言わせれば、どっちもどっちよね、男と女なんて。
淳美さんも、言いたいこと言わないし。あなたもそうよね。無駄な傷付け合いはやめてほしいから来たんだけど」
「………頭痛ぇ」
「そうでしょうねぇ」
そのまま二人で、ぼんやりと天井を眺める。アツミはベッドによりかかったまま。僕は、床にあお向けにひっくり返って。
「とりあえず、また来るから。少し頭冷やしてて。じゃあね」
天井を眺めている僕に、そんな声が聞こえた。体を起こすと―――アツミは、消えていた。
頭冷やせ、だ?
どのぐらい冷やせば、この状況を理解できるんだ。
どうすれば『無駄な傷付け合い』が終わって、それで―――僕は、どこに向かえばいいんだ。



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