雨が少し小降りになったのを見計らって、2人で駅前まで走る。
羽織ったジャケットの上から、彼の腕が自然に肩に回されているのを、意識の外に追い出そうとしながら。
『おまえが好きだから』
そう言ってくれた声と、抱き締められた胸の鼓動が、耳の奥に残っている。
私は、現実と夢の狭間にいるような気分で隣に立った彼を見上げた。
「結構濡れちまったし、真っ直ぐ帰ったほうがいいな」
「……あ、うん。そうだね」
小さく笑った彼が自販機で切符を買い、私はバッグから定期を取り出す。
「送ってくよ」
「え、でも」
「大丈夫」
ぽん、と私の頭を叩いて、先に改札を抜けていく彼の背中を、慌てて追いかけた。
ホームに上がって電車を待つ間、ぼんやりとしていた私の顔を彼が覗き込む。
「どうした?」
「え? 何が」
「ぼーっとして。ああ、いつもか」
黙って彼の腕を叩くと、笑った瞳に出会う。
この優しい瞳が、私を見ていてくれると、信じてしまっていいのだろうか。
「要?」
「はい?」
「ほら、電車来た」
「あ、うん」
軽く肩を支えられて、混んだ電車に乗る。自分の周りの空気が、ふわふわと揺れているような気がした。
ドアに凭れた私を包むように、彼の手が頭上の手すりを掴む。
それだけでも何だか落ち着かない気分になるのに、彼は相変わらず優しい瞳で見下ろしているだけだ。
……慣れてる?
そりゃそうだよね。他に付き合った女の子もいただろうし。
――どうして、私を選んでくれたんだろう。このまま、一緒にいてくれると、思ってしまっていいのかな。
家の近くの駅に着くと、彼がコンビニでビニールの傘を買って来た。
「ちょっと小さいけど、まあ、ないよりましだろ」
「うん」
1つの傘に寄り添って、家までの道を辿る。
送ってもらうことなんて何度もあったのに、目に見える景色がいつもとまるで違っていた。
「寒くないか?」
「うん。大丈夫」
前を向いたまま頷いた私に、彼が苦笑した。
「そんなに硬くならなくても、何もしないって」
「え、や、そんなことないよ」
見上げる私の視線を受け止めて笑った彼が、左手に持っていた傘を右手に持ち替えた。
「……え?」
空いた左の手が私の右手に触れ、緩く掴む。
「このくらいは、いいっしょ」
「あ、うん」
ぎくしゃくと頷くと、彼がとうとう吹き出した。
「……そんなにおかしい?」
「いや、うん。可愛い」
一気に顔が熱くなるのが分かる。どんな顔をしていればいいのか分からない。
私の手を包んでいた彼の手が動いて、指を組み合わせるようにしてしっかりと繋ぎ直す。
……やっぱり、なんか、慣れてるよ……。
何を話せばいいのかと考えているうちに、家の前に着いてしまった。
「じゃ、また明日」
「明日?」
「バイト、来るだろ?」
「あ、そうか。そうだね」
「忘れんなよ」
笑ってそう言う彼と、視線が合った。
繋いでいた手に、微かに力が篭る。
「……今日は、なんか、半端な時間だからさ」
そろそろ8時半になる。髪も服も細かい雨に濡らされて、早く着替えたほうがいいと急かしている。
「そうね。風邪ひかないように、早く帰らないと」
「うん」
傘の中で見詰め合う彼の目が、ゆっくりと細められた。
繋いだ手を静かにほどいて、私の髪に触れる。
反射的に目をぎゅっと瞑ると、彼が笑う気配がした。
「明日、学校終ったら、メール入れて」
「え?」
「俺、多分また残業だから。終ったらメシ食いにでも行かね?」
明るく言う彼の声に、肩の力が抜けていく。
「……うん」
「じゃあ、明日、な」
「うん。あ、これ、ありがとう」
羽織っていたジャケットを手渡すと、彼の手が私の頭を引き寄せた。
おでこと言うよりは、髪の生え際に近いあたりに、彼の唇が触れたのが分かる。
びっくりして見上げる私に笑ってみせると、優しく私の肩を押した。
「ほら、早く風呂入らないとほんとに風邪ひくぞ」
「――え、あ、そ、そっちこそ」
「はいはい。おまえが中入ったらすぐ帰るって」
もう一度視線が合う。どちらからともなく軽く手を握って、私は門の中に入った。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
手を振る彼にどうにか笑いかけて、ようやく玄関のドアを開けた。
お風呂と夕食を済ませて自分の部屋に入ると、途端に体中の力が抜けてそのままベッドに倒れこんだ。
友達、という言葉で一緒にいてくれた彼。
いつも、笑って私の話を聞いてくれる優しい瞳。
さっき交わした言葉で、私が彼の一番近くにいられると、そういうことになるんだろうか。
全然実感が沸かない。彼氏ってことになるのかな。本当に?
ふいに携帯の着信音がして、私は思わず飛び起きた。
メールが入っている。沙姫ちゃんだ。
『今電話しても平気ー?』とある。何だろう。私は深く考えずに『いいよ。大丈夫』と返信した。
ほどなく、電話の着信を知らせるメロディが流れる。
「はい」
『沙姫だよーん。今大丈夫ー?』
「うん。もう、ご飯もお風呂も済んだから」
『えー、今どこ?』
「どこって、家だよ」
当たり前でしょ、と笑うと、沙姫ちゃんが意味ありげに笑う声がした。
『なーに、もう帰ってきちゃったの?』
「え? 何で?」
『せっかく尚也くんとラブラブになったんだから、ゆっくりしてくるかと思ったー』
「ええ!?」
どうして知ってるんだろう。
驚く私に沙姫ちゃんは、会社で大西さんを待っていたこと、そこで聞こえてきた尚也と大西さんの会話を、聞かせてくれた。
「えー……やだ……ほんとに?」
『ごめんねー。でもまあ、結果オーライって感じ?』
「う……まあ、ね……。ありがと」
『いーのいーの。こうなるとは思ってたんだからー』
バイト先で社員として働く沙姫ちゃんは、今まで周りにいなかったタイプだ。
すごくキレイでスタイルもいいのに、全然飾りっ気がなくて、話しやすい。
彼女と、尚也の同僚で沙姫ちゃんの彼氏でもある大西さんのおかげで、ここまで来たと言っても過言ではないかも知れない。
『で?』
「何?」
『ちゅーぐらいした?』
「やっ……」
私は少し慌てて部屋のドアを振り返った。両親の部屋は1階だし、聞かれることもないだろうけれど。
「まさか、そんなわけないでしょ」
『あらやだ。何やってんのかしら尚也くん』
「……そりゃ、あの」
『なになに?』
「手は……繋いだけど」
『きゃー! 可愛いー!』
同じ台詞を彼に言われたとは、やっぱり言えない。
『あとはあとは?』
「そっ、それだけだよ」
『うっそーん。信じられなーい』
私はしばらくためらって、結局言ってしまった。
「おでこ……って言うか、頭に……だけど」
『ちゅー?』
「う……うん」
『いやー、もー、可愛い過ぎー!』
ぴょんぴょん跳ねている沙姫ちゃんが目に浮かぶ。
もう、きっとこの先もこうやって楽しまれてしまうんだろうな。
自然と笑ってしまっている自分に、少し驚いた。
しばらく関係のない話をしていて、ふと思いついたことを口にする。
「尚也って……結構女の子に慣れてるよね?」
『いやん、呼び捨てー』
「だっ……だって、そう呼べって言うから」
『うん。もう、全然OKじゃん。で、何だっけ、尚也くんが、女慣れしてるって?』
「……なんか、そうかなって」
『どうかなあ。春頃まで付き合ってた子はいたみたいだけど』
「……ふーん」
『でもそんなにマジな付き合いでもなかったみたいよ? って、フォローになってないね』
笑って言う沙姫ちゃんの声に、ため息を吐く。
確かに、喜んでいいのかどうか微妙な答えだと思った。
「そっか……まあ、いろいろあったよね」
『ま、そりゃ見栄えがいいからね、彼は。でも要ちゃんは、そういうんじゃないでしょ?』
「え?」
『だから、ちょっとカッコいいからとかで好きになったわけでもないでしょ』
「うん……そう……かな」
『大丈夫だってー』
「うん、別に、気にしてないよ」
そう自分でも思おうとしたけど、よく分からない。
多分、私が男の人と付き合うという事態が、飲み込めてないからだと思う。
先生は――塚本さんは、いつも優しくしてくれた。
もちろん、ただの友達というか、妹みたいに思ってくれていたのは分かってる。
一緒にいる時に、軽くリードするように肩や腕に触れてくれることくらいはあったけど……。
「私が……慣れてないからな……」
『あれ、そう?』
「そうだよ。ちゃんと付き合った人なんていなかったもん。だから、手を繋いだのも、おでこにキスも」
言いかけて、自分の言葉に戸惑った私は、そのまま語尾を濁した。
『ふふーん。尚也くん、ちょーらっきーじゃん』
「ど、どういう意味よ」
『いやんもう、オイシ過ぎ、彼』
「やだ、何言ってるの」
笑っているうちに、小さな不安が込み上げてきた。
「あの……沙姫ちゃん」
『はいはい?』
「えーと……やっぱり、あの、痛い?」
『は? 何が?』
沈黙。
数秒の後に、沙姫ちゃんが吹き出した。
『ああ、そういうこと』
「や、あの、いい。やっぱり、何でも」
『うーん、人それぞれじゃない? あたしは高校の時で相手も初めてだったからー』
「あ、そ、そう」
なんか、すごいことを聞いてしまっているかも知れない。
『ちょっと大変だったかなー。までも、尚也くんなら、大丈夫でしょ』
「……慣れてるから?」
『じゃなくってー。要ちゃんのペースに合わせて、優しくしてくれるだろうってこと』
それは、いいことなんだろうか。
私に合わせて、面倒な思いをさせてしまうんじゃないだろうか。
そう呟くと、沙姫ちゃんが苦笑混じりにため息を吐く。
『そんな人じゃないっていうのは、要ちゃんが一番分かってるんじゃないの?』
「うん……そうかな」
『こういうのは、2人のペースで行けばいいことだからね。尚也くんを信じられるなら、何も心配いらないよ』
「……うん」
『大丈夫』
「うん」
尚也が言ってくれた言葉のひとつひとつ、私に触れてくれた仕草のひとつひとつが、
ゆっくりと温かく広がっていくような気がした。
先生に、いつか、言えるかな。
好きな人と、両想いになれました、って。
笑って、そう言える日が来るといいな。
沙姫ちゃんの話に相槌を打ちながら、あの頃の私に言い聞かせるように、白い傷跡の残る手首を、そっと押さえた。
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