寒い。
夕闇の迫る校庭の片隅、体育館の裏にしゃがんで、俺は震えていた。
2月も半ばになり、3年生はほとんど自由登校になっている。
なんでよりによってこんな日が登校日で、しかも俺は律儀に出てきたりしたんだろう。
理由はひとつ。
この前の電話で、彼女が言ってたからだ。『14日には学校で会えるね』と。
去年の秋から付き合い始めた彼女に、俺は弱い。
あの明るい声で言われたら、うんと言うしかないじゃないか。
登校して来るまで、今日があの日だということをすっかり忘れていた。
中学の時も、1年の時もえらい目に遭ったから、去年は自主的に欠席していたというのに。
俺もずいぶん鈍くなったもんだよ、と、ため息が出る。
しかも、当の彼女にはまだ会えていない。
違うクラスの彼女の教室まで行ってみれば、クラブに顔を出しに行ったと言われてしまうし。
こんな調子で大丈夫なんだろうか。
――俺のほうは、医学部を休学して『放浪の旅』に出ていた兄貴が、
年末になってひょっこり帰ってきやがった。
おかげで親父やお袋のターゲットは再び兄貴に移り、どうにか復学させることになりそうだ。
何が兄貴に起こったのか知らないが、最近は憑き物が落ちたみたいにすっきりした顔で勉強している。
却って怖い気もするが、このチャンスを逃す手はない。
で、無理やり提出させられていた医学部への願書を取り下げ、希望通りの工学部へ進学を決めた。
彼女は――早智はと言えば、短大の家政学部に入ることになった。
来月、この学校を卒業すれば、会う機会も減ってしまう。
それは互いの努力しだいだとは分かっているけれど、
俺が想うより、あいつは俺を必要としていないんじゃないか。
びゅうっと、冷たい風が吹き抜けて、派手なくしゃみが出る。
いつまでこうしてなきゃならないんだ。
今日は2月14日――年に一度の、受難の日だった。
「あ、見つけた!」
いい加減に足がしびれてきて、立ち上がって体を伸ばしていたところへ、かん高い声が聞こえた。
ギクリとして振り返った俺のほうに、1年生と見える女子が3人、走ってくる。
「東條先輩!」
逃げようにも、反対側に道はない。俺は咄嗟にフェンスをつかみ、乗り越えようと足をかけた。
「きゃーーーっ!」
信じられないことに、彼女達は俺の腰のあたりに飛びつき、フェンスから引き剥がそうとする。
「お、おい、待て! 引っ張るな!」
「先輩! 待って! 逃げないで下さい!」
「分かったから、離せ!」
どうにかこうにか制服をつかむ手を振りほどき、彼女達に向き合う。
「何だよ、いったい」
「だって、どこにもいないから、探したんですよぉ」
知るか。俺が探してるのはおまえらじゃないぞ。
「これ、お願いします!」
差し出すのは紙に包まれた四角い箱――俺は天を仰いで、ため息をついた。
これで何人だ。同級生も入れれば、2ケタにはなる。
何で、こんなくだらないイベントが普及してるんだ。
「……悪いけどさ、俺」
「はい、分かってます。受け取ってくれるだけでいいんです!」
「いや、だから、そういうわけにも……」
「お願いします!」
3人並んで頭を下げられても困る。
これを朝から繰り返してるんだ。受難と呼ばずして何と呼ぶ。
赤、緑、茶、色とりどりの包装紙を眺めて、俺は間合いを計った。
息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
「……気持ちは、受け取る。ありがとう」
俺はいつの間に、こんなに丸くなったんだ。……原因は、早智のヤツに決まってるけど。
「先輩……」
6つ並んだ潤んだ瞳から目をそらし、スタートの体制に入る。
「悪い、スマン、ゴメン!」
それだけ言うと、彼女達の脇をすり抜けて一気に走り出す。
後ろで何か叫ぶ声が聞こえたけれど、俺は短距離走にだけは自信がある。
何事かと振り返る生徒達の間をくぐり、非常階段を4階まで駆け上がった。
踊り場にへたり込んで息を整え、慎重に非常口のドアを開ける。
ここは煙草を吸うヤツの溜まり場で、中から鍵が掛かっていることはまずない。
静まり返った廊下の向こうから、かすかに話し声が聞こえた。
やがてひとつのドアが開いて、数人の男女が出てくる。
生徒会の役員達だ。もちろんほとんど2年生だが、中にどういうわけか早智もいる。
「さ……」
言いかけて咳払いをすると、なるべく抑えた声で呼んでみた。
「秋山!」
振り向いた早智が、目を丸くする。
「……皇子、何してんの?」
これは、わざとだな。俺は顔をしかめて、早智を手招きする。
「じゃあ、みんな、あとはよろしくね」
「はい、お疲れ様でした」
後輩達に手を振って、すました顔で非常口まで歩いて来る。
「何でこんなとこにいるのよ?」
「何でって……おまえこそ何やってんだ。もう役員じゃないだろ」
確か2年の時に副会長をやっていた。それがなんで今になって参加してるんだ。
「とっくに違うんだけどね。クラブの部長会やら、文化祭実行委員やらで、あの子達とはよく会ったから。
帰ろうとしたら、今後の運営のことで話が聞きたいとかで、つかまっちゃったのよ」
「……つかまるなよ。俺は逃げきったってのに」
「何から?」
「いや……別に」
「東條くん、土足なの?」
「見てのとおり」
「じゃあ、外回ってきて。あたし下に降りるから」
「いや、ちょっと待て、なんか履くものないか?」
今ここから降りたら、またつかまらないとも限らない。
このまま早智と一緒にいたほうが、無駄な受難も避けられるだろう。
「履くもの……? その辺に古いスリッパくらいならあるけど」
「何でもいい。貸して」
生徒会室の奥に放り出されていた、薄汚れた来客用スリッパを引きずって歩く。
途中で自分の教室に寄り、上着と荷物を持って並んで階段を降りた。
「ったく、おまえもご苦労なこったな」
「ほんとよねー。どういうわけかこうなっちゃうのよ。困ったもんだ」
全然困っているように見えない。
この笑顔を見ると、結局は負けてしまうんだ。
きっとこれからもそうなんだろうな。早智は自分の勉強や、仕事や、友達を大事にするだろう。
何事にも責任を持って、精一杯がんばってしまうんだろう。
俺はそんな早智をハラハラしながら後ろから見てて、たまにグチを聞かされて。
まさか自分がそんな役回りになるなんて思ってもみなかったけど。悪くない、と思えるのも事実だった。
「で、何から逃げてたの?」
「え?」
無邪気な声に、顔を上げる。
「……何って……」
「まあ、だいたい分かるけどね。ファンが多いから、皇子は」
「だから、それやめろって」
「いくつもらったの?」
……笑顔が怖いんですけど。
「いや、ひとつも」
「嘘」
「ほんとだって! もらうわけないだろ。おまえが……」
いつの間にか、1階まで降りて来ていた。まだ残っている生徒も多い。
「あたしが、何?」
「いや……だから……」
早智が、イーっと鼻の頭にしわを寄せて、昇降口に向かって行く。
……そういう顔すると、却って可愛いってこと、気付いてないだろ。
「おい、秋山!」
振り返らない。
「秋山、って!」
まわりの連中が、俺と早智を見比べて不審な顔をしている。
ああもう、分かったよ、言えばいいんだろ。
「――早智!」
自分でもちょっと驚いたが、早智はもっとびっくりしたらしい。
ただでさえ大きい目を見開いて、通路に立ち尽くしている。
俺は駆け寄って、一気に言った。
「1個ももらってねぇよ。俺にはおまえがいるんだから、もらうわけないだろ!」
一瞬、場が静まってしまった。
真っ赤になった早智が、自分のクラスの靴箱に向けて歩き出す。
「おい、待てって」
「……分かってるわよ、そんなの」
「じゃあ言わせるなよ」
「言ってほしかったんだもーん」
いつだったか、2人だけの時にしか名前を呼ばない俺に、そう言ったことがある。
1度、みんなの前で名前呼んでくれてもいいんじゃない? と。
そういう自分は相変わらずたまに俺を『皇子』呼ばわりするくせに。
「おまえなぁ!」
くすくす笑う早智をつかまえて、自分のほうを向かせる。
近くに人気がないのを確かめて、顔を寄せた。――が、鼻をつままれて仕方なく離れる。
「ほんとにもらってない?」
「もらってません。……何度も言わすなよ」
「ふーん。いいか。信じてあげよう」
「頼むよ、もう……」
言い終わらないうちに、早智が背伸びをして、軽く唇を合わせてきた。
抱き寄せようとした腕をすり抜けて、自分の靴を出す。
「早智」
「東條くんは、あっち」
にっこり笑って俺のクラスのほうを指差し、玄関を出て行く。
何なんだよもう。第一、肝心の早智からはまだチョコレートのチの字も出ていない。
別に甘いものは好きじゃないけど、こいつからもらえなきゃ意味がないのに。
……まずい。かなり流されてるな、俺。
軽く頭を振って、自分の靴箱にスリッパをしまいに行く。
そこに、紺色の紙に包まれた箱があった。
しまった。こんなクラシックな手を使う子がいたのか。
受け取らないという姿勢を守ってきたが、これはどうすればいいんだ。
まさかゴミ箱に捨てるわけにもいかないし、いっそのことその辺の野郎の靴箱にでも……。
そう思って箱を手に取ると、見覚えのある文字が目についた。
リボンの下のカードに『丈瑠へ』とある。
……そう来るか。
俺は苦笑して、箱を片手に靴を履く。
正門のそばに立っていた早智が、笑って手を振った。
「丈瑠ー!」
だから、声でかいって。
曇った空から、白いものが落ちて来ていた。
俺はコートの前を合わせ、彼女のほうへ駆け出す。
――やっぱり、こいつには、弱い。
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