賑やかな着信メロディに顔をしかめて、枕元の携帯に手を伸ばす。
「……もしもし」
「あ、兄貴? 俺、悟」
朝っぱらから聞かされる呑気な弟の声に、ますます眉間の皺が深くなった。
時間は朝の7時。目覚まし時計が鳴るまで、あと15分あった。
「何だよ、いったい」
「車貸して、車」
「またかよおまえは」
「んだってよ、今日から旅行だってのに、免停くらったヤツがいてさ。あと3人乗せなきゃなんねーのよ」
大学3年生の弟は、何やら気楽なサークルに入っている。というより、こいつが始めたサークルだ。
「頼むよー。俺の車ツーシートじゃん。2人置いてくわけにもいかねぇし」
「置いてけ」
「兄貴ぃー」
「……どうせ、部屋の前まで来てんだろ」
「よくお見通しで。ほら、ギリギリまで寝かせてあげようという兄想いの弟に免じてさ」
僕は寝癖の付いた髪をかき上げて、玄関の鍵を外してドアを開けた。
携帯を耳に当てて外側の通路の柵に凭れて立つ弟を見つけて、ため息を吐いて携帯の通話を切る。
黙って再びドアを閉めようとする僕に、弟が慌てて駆け寄って来た。
「うわ、ちょっと待ってくれって」
「アホ。キーがなきゃ車出せないだろが。ちょっと待てはこっちの台詞だ」
仕方なく、机の上のケースから車のキーを出して来て、にこやかにもみ手をする弟に渡してやる。
「事故るな、違反すんな、傷付けんな」
「へい。もちろんでやす。毎度」
もう一度ため息を吐いた時に、目覚まし時計が鳴り出した。
10月まで休みの大学と違って、高校はもう2学期が始まっている。つまりは、僕の仕事も始まっているわけだ。
カツン、と音を立ててチョークで最後の一文字を書き終える。
黙々とノートを取る生徒達を見渡して、僕は息を吸い込んだ。
「いいか、この段落で使われている『けれど』。これが前の段落のどこからかかってくるのか、ということだが――」
1年C組の生徒達は、割と扱い易い。中にはあきらかにやる気がなさそうにダレているクラスもあれば、
何かにつけて授業を中断させようとするヤツもいるけれど。
僕は却って、そういう子達は面白いと思う。それに多少は付き合ってやりながら、自分の授業を進めて行くだけだ。
付いて来る気がないなら、好きにすればいい。
義務教育じゃないんだから、甘やかすつもりなど最初からなかった。
「よし、じゃあ、この章の始めから第3段落までを……」
顔を上げると、1人の女子生徒と視線が合った。
僕が顧問を務める文芸部に入部してきた子で、このクラスでは一番最初に名前を覚えた。
木元、と呼びそうになるのを堪えて、黒板に目を戻す。
「えー、今日は9月7日か。じゃあ、くしち63、6足す3で、出席番号9番のヤツ。……志村だな」
「先生、その当て方、小学校並みっスよ」
当てられた志村が、口を尖らせて言う。
僕よりも背の高い男子生徒が机をガタガタ言わせながら立ち上がるのに合わせて、教室に笑いが広がった。
「いいんだよ。俺は現国教師なんだから、めんどくさい計算はできん。ほれ、早く読め」
顔を見合わせて笑う生徒達の中の彼女の顔を、一瞬だけ盗み見る。
いつも、どこか、取り残されたような笑顔をしていた。
「高木先生」
よく通る澄んだ声に顔を上げる。国語教官室のドアから、木元が顔を覗かせていた。
「おう、何だ」
「何だじゃありません、もうみんな集まってますよ」
うっかりしていた。すでに部活の始まる時間になっているのに気付いて、慌てて資料を取り出す。
「悪い悪い。今行くから」
「はい」
先に部室に行くものと思っていたら、木元はおとなしく僕が来るのを待っている。
スラリと長い手足、白い肌、栗色がかった綺麗な髪。
他の教師が見るともなしに木元に視線を向けているのを見て、少しムッとした。
「待たせたな。行くか」
「はい」
笑って見上げる視線に、思いがけず息を呑む。――他の女子生徒とはどこか違う、柔らかな仕草。
僕は自分の動揺が顔に出ないように、資料の束を抱え直した。
「先生、少し持ちましょうか」
「いや、大丈夫だ。それより、何だ、原田にでも使いに出されたのか」
原田は、うちの文芸部の部長をやっている3年生の女子だ。
体も声もでかいけれど、ハーレクイン並みのベタベタなラブストーリーを書く。
「いえ、あたしが言ったんです。先生まだ来ないから、呼んで来ますって」
「……そうか」
妙に照れくさくて、目のやり場に困る。
部室にしている教室までの廊下を歩きながら、周りの酸素が急に薄くなったような気がしてきた。
「多分、部活があること忘れてるんじゃないかと思いました」
「当たりだな。すっかり忘れてた」
「やっぱり」
一瞬見えた無邪気な笑顔に、普通の16歳なんだということを思い出す。
それでも、この子は、何かが違う。
分からないけれど、ずっと、そんな気がしていた。
いつからこうなったのかは分からない。
気付けば、僕は視界の隅のどこかで木元の姿を探していた。
1−Cの授業がある日は、何となく朝から気分がいい。
授業中もそれが態度に出るのか、教室移動で1−Cの前を通った他のクラスの生徒から
『先生、C組の時は声が張り切ってるスよ』と言われたほどだ。
しばらく考えて、自分でも思い当たるふしがあるのに気付いて、僕は頭を抱えた。
――16になるかならないかの、子供だぞ。
授業や部活で目に留める木元の容姿や、『先生』と僕を呼ぶ声に、意識しまいとすればするほど心は動いていく。
それなりに年の近い彼女の1人や2人いなかったわけでもないのに、僕はその『子供』に惹かれているのを自覚した。
参ったな、と思っていたある日、廊下の端で立ち話をする木元を見かけた。
背の高い男子――あれは確か、2年生だ。生徒会の役員をやってたんじゃなかったか。
僕は1年を受け持っているから名前までは出てこなかったけれど、何かの集まりがある度に壇上にいたのを覚えている。
と、話が終ったらしく、2年生の男子が木元の頭を、ぽん、と叩いて、軽く手を上げて歩き出した。
手を振る木元と、笑顔を交わす。
……ナマイキに、彼氏ってわけか。
「あ、高木先生」
「……おう」
「この前教えてもらった本、読みました。すごく面白かったです」
「そうか」
今のは彼氏か、と訊きそうになって、視線を逸らす。木元は無邪気な笑顔で、本の感想を話してくれた。
その無邪気な瞳の下に、何を抱えているんだろう。
気になって仕方がないのに、どうしても訊けない。
教師という立場を超えずに、担任でもない1人の女子生徒に関われる範囲は限られている。
僕は木元の話に笑って相槌を打ちながら、胸の奥の痛みをやり過ごした。
放課後の生徒会室の前を通りかかると、ドアは半分開いていた。
中央の会議机に向かって、長い足を投げ出して座っている男子生徒がいる。
声をかけようか、そのまま通り過ぎようかと迷っていると、気配を察したのか、その生徒が読んでいた雑誌から顔を上げた。
「何スか」
「あ、いや。まだ帰らないのか?」
「もうちょっとで読み終わるんで。大丈夫ですよ。鍵は職員室に返しますから」
「ああ、そうか。えーと……おまえ、何の役員だっけ」
「一応、副会長やってますけど」
「あそう」
話題がない。
というより、一番訊きたいことが、訊けない。
「で、何ですか」
「え?」
「俺に何か、用事があるんでしょう?」
机から足を下ろして立ち上がると、僕の立っているドアの近くまで歩いて来た。
「いや、用事ってほどのもんじゃ……。ただ、1年の木元と、おまえが話してたな、と」
墓穴だ。
これじゃ、木元のことを気にしていると大声で言っているようなもんだ。
口を噤んだ僕を見て、副会長の生徒が唇の端を上げた。
「そりゃ、話くらいしますよ」
「まあそうか。そうだよな。で、悪い、おまえ、名前何だっけ」
僕の言葉に一瞬目を丸くした生徒が、吹き出すのを堪えるような顔をする。
「木元ですけど」
「……は?」
「2−Aの、木元隆太郎です」
今度は僕が、目を丸くする番だった。
「え、じゃ、うちの……えー、1−Cの木元は」
「義妹です」
いもうと、という言葉に、膝から力が抜けた。
「あ、そう……」
校舎の中に、チャイムの音が鳴り響いた。生徒会室の窓ガラスを通して、秋の色を見せ始めた夕焼けが広がるのが見える。
黙って部屋の中に戻った木元が、自分のデイパックを担いで部屋を出ると、ドアを閉めて鍵をかけた。
「じゃ、俺、これ返してから帰ります」
「……うん」
「失礼します」
「ああ。気を付けて帰れよ」
ほとんど無意識に言葉を返した僕に、木元が足を止めて振り返り、にやりと笑った。
「先生、バレバレっすよ」
バレバレ、か。
もう、自分にも『バレバレ』だ。
僕は木元の――いや、麻子の見せる仕草のひとつひとつに、簡単に気分が上下するのを認めざるを得なくなった。
彼女が友達と楽しそうに話しているのを見れば、こちらも嬉しくなる。
相手が男子生徒だったりすると、気にしないようにしていても落ち着きがなくなる。
授業中に何か考え込んでいる様子を見ると、注意するよりも心配になる。
いい加減に1人で頭を抱えているのにも疲れてきた10月半ば。
文化祭を控えてどこか浮き足立った教室の中で、僕は麻子の顔色が悪いのに気付いた。
「――木元、どうした」
僕の声に笑顔を作ろうとした麻子が、つらそうに口元を押さえた。
「おい、大丈夫か。気分悪いのか」
途端に周りがざわつき始め、1人の女子が席を立って麻子のそばに来た。
「先生、あたし、保健室に連れて行きます」
「ああ、そうしてくれ。えーと、杉浦、おまえ保健委員だっけ」
「いえ。文実です。保健の中西さん、今日休みですから」
「あそう。じゃ、頼む」
俯いた麻子が、杉浦に腕を支えられて立ち上がりながら、一瞬僕に済まなさそうな視線を向けた。
僕はそれに軽く頷いて、あとを追いたい気持ちを抑えて教壇に向かった。
「よし、授業は終ってないぞ。ここの主人公の心情吐露と言えるのが、次の段落になるわけだが」
授業は終ってない。仕事は終ってない。僕は自分にそう言い聞かせながら、気持ちは保健室に飛んでいた。
授業が終っても、麻子も杉浦も戻って来なかった。
僕は駆け出したいのを堪えて保健室へ向かい、一度ノックをしてからドアを開けた。
「先生」
ベッドの脇の椅子に座った杉浦が顔を上げた。養護教諭の姿は見えない。
ベッドには麻子が横になっていて、彼女の上着が杉浦の座っている椅子の背にかけられていた。
「どうだ、具合は」
「貧血みたいです。保健の先生、これから会議があるって言うんで、残ってたんですけど」
「恵美、もう大丈夫だから教室戻って。次の授業、数学でしょ」
「うん。だから麻子に付いてようかな、と」
へへへ、と笑う杉浦につられて笑いながら、そのくせっ毛の頭を軽く小突いた。
「こら。おまえは授業に出ろ。俺が付いてるから」
「あれ、高木先生、サボるんですか?」
「冗談は顔だけにしろよ。俺は次の時間は空いてるんだよ」
天に感謝したい気持ちなのが表に出ないように、憮然とした態度で言ってやる。
「ちぇーダメかー。じゃ、杉浦、戻ります。先生、麻子お願いしますね」
「おう」
麻子と杉浦が軽く手を振り合って、小柄な杉浦の影が廊下に面した擦りガラスの向こうをパタパタと去って行く。
僕は改めて空いた椅子に座り、麻子の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「はい。すみません。ただの貧血なんで、少し休めば治りますから。……先生、お忙しいんじゃないですか」
次の授業の始まるチャイムが鳴った。廊下に響くざわめきが、少しづつ鎮まっていく。
「いや、さっき言った通りだから気にすんな。それより……」
元々白い肌が、青ざめて透き通りそうに見えた。僕は無意識に麻子の髪に手を伸ばし、額にかかる前髪を分けた。
「あ、スマン」
「……いえ」
授業中の校舎は静まり返っている。校庭からは体育の授業の声、時折通り過ぎる車の音。
「木元、おまえ、無理してないか」
「え?」
「俺の気のせいならいいけど。もし何か悩んでるなら、俺で良ければ話してくれないか」
今、自分はどんな顔をしているんだろう。
生徒を心配する教師の顔だろうか。それとも――。
戸惑ったように僕を見上げていた麻子の瞳が、ふいに揺れた。目尻から、白い頬へ、涙がひとつ零れていく。
綺麗だ、と思って、次の瞬間には慌てて麻子の頬を拭おうとし、思い直して手を引っ込めた。
「――どうした」
「すみません。何か……嬉しくて」
「何が」
「先生が、あたしを、見ていてくれたって」
「そりゃ、おまえ――」
言葉に詰まった。8歳も下の子供を相手に、どう言えばうまく伝わるのか。
「見てたよ。ずっと……おまえのことばかり、気になってた」
頭で考えるより前に言葉が口から出て、僕は思わず口を押さえた。
「先生……あたし」
またひとつ、麻子の頬を涙が滑り落ちていく。
「あたし、先生が、好きです」
時間が止まった。
耳の中から雑音がすべて消えて、泣きながら僕を見上げる麻子と僕の間で、空気が音を立てて凍り付く。
「な、に、言って……」
ダメだ。
いくら自分に、笑え、流せ、と言い聞かせても、僕の中の僕は、反乱をやめない。
視線が合った、と思った次の瞬間には、僕は麻子の上に屈み込んでいた。
瞼を伏せた麻子の唇に、自分の唇を重ねる。枕の脇にある華奢な手を、包むように握り締めた。
「……先生」
切なげな麻子の声に苦笑して、僕は額を合わせるようにして彼女の瞳を見つめた。
「この状況で、先生はカンベンしてくれ」
「だって、先生の名前、知りません」
「――透、でいい」
「透さん――」
「さん、も、敬語もいらない。――他に誰もいない時に限られちまうけど」
涙に濡れた麻子の頬をてのひらで拭って、そこにそっと唇を触れた。
参った。16歳の教え子に、僕はここまで参らされてしまった。
「……麻子」
「はい」
「俺で、いいのか?」
「せん……透が、いい」
「8つも年上のオジサンだぞ?」
「7つです」
「え?」
「あたし、本当は1年遅れてるんです。だから、来月で17歳になります」
微笑んで言う麻子に、僕は息を止める。……いや、でも、それなら。
「木元は……ああ、2年の、生徒会の木元は? 双子なのか?」
ここまで似てない双子ってあるのか。普通の兄妹にしても似ていない。あいつはあいつでファンも多いし、男前だけど。
「いえ、リュウは――義兄とは、血が繋がってません」
「……そうなのか」
僕は麻子の小さな手を、もう一度握り直した。この細い体で、僕の知らないたくさんの物を背負ってきたんだろうか。
「聞いて、くれますか」
「うん」
「あたし、お義父さんにもリュウにも良くしてもらってるけど、本当は、寂しかっ……」
泣き出した麻子の髪を撫でて、額や瞼に口付けを落とす。
「ゆっくりでいい。話せる範囲でいいから、俺に預けてくれ。……一緒に、背負うから」
白いカーテンを通した陽射しが、オレンジ色に染まる。
僕はあやすように麻子の髪を撫でて、途切れながら零れる言葉に耳を傾けた。
――もう、僕の中で反乱は起きない。すべてを一緒に背負っていくと、今、決めたから。
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