6.
「……夏菜」
ケンちゃんの声が聞こえる。やだな、そんなに飲んだのかしら。
「大丈夫か?」
まだ聞こえる。変だな。
「おい」
いきなり目の前にケンちゃんの顔が現れて、あたしは飛び上がった。
「きゃ!」
「俺はバケモンか」
「ある意味そうかも」
横から聞こえた笑いを含んだ声に、ケンちゃんが顔をしかめる。
「うるさいよ、おまえ」
「……ケンちゃん?」
「他に誰に見える?」
「はいはい、私が呼びましたー。仕事無理やり終わらせましたー」
藤村さんが片手を上げて笑う。
「……あいつら、どこにいるんだ?」
「ああ、うちの子達? あっち。いいんじゃない? 放っといても。私ももう帰るし」
そう言うと、本当に鞄を手にして立ち上がる。
「帰るのか?」
「うん。一応義理は果たしたし。二次会まで付き合う気はなかったからね。田辺ちゃんに挨拶して帰るわ」
「おまえ……」
「はい、仕事してます。元気です。彼氏はまだいませんが、これからがんばります。ね?」
最後はあたしに笑いかけて、ケンちゃんを見上げた藤村さんに、彼が苦笑する。
「あ、そう」
「じゃ、そういうことで」
「――藤村」
「何よ」
「サンキュ」
イーっという顔をした藤村さんが行ってしまうと、空いた席にケンちゃんが座った。
「えーと、水下さい」
近寄って来た店員さんにそう言うと、煙草を取り出して火を点けた。
「……ごめん、ね」
「いや。いきなり電話で呼び出されたから。週明けに残業は覚悟しないとな」
「あの……」
「おまえが謝ることじゃないよ。友達、いいのか?」
「うん。なんか忘れられてるみたいだし」
笑って、運ばれて来た水を一口飲んで、あたしのほうを向く。
「……じゃ、帰るか」
「――うん」
カウンターを立って、あたしの友達がいるスペースを通りかかると、ケンちゃんが振り向いた。
「ここ?」
「そう。……一応、声かけて来るね」
盛り上がっている中を掻き分けて、紀子の姿を探す。
「紀子」
「夏菜ー。どこ行ってたのよ」
「ごめん、ちょっと。あの、あたしもう」
「あ、彼氏? 迎えに来たんだ」
「え?」
紀子の視線のほうに顔を向けると、ケンちゃんが立っている。
「こんばんは」
照れくさそうに笑うケンちゃんを見上げて、あたしは固まった。
「こんばんはー。夏菜の彼氏さんですか?」
「そう。野上です。夏菜がいつもお世話になってます」
「こちらこそー。いやー、お会いしたかったんですよ。全然連れて来てくれないんだから。
あ、今度みんなで遊びに行く時とか、来て下さいよー」
「ちょ、ちょっと紀子」
慌てるあたしの背中に手を回して、ケンちゃんが楽しそうに笑った。
「そうだね。仕事あるから休みの時なら。で、悪いけどこいつ連れて帰っていいかな」
「はいはい、どうぞどうぞ」
「ケ、ケンちゃん?」
笑って手を振り合うケンちゃんと紀子の間でオロオロしているうちに、ケンちゃんに肩を抱かれて通路に出る。
「ああ、そうだ」
「え?」
「俺も、声だけかけて帰るよ」
「あ、えーと、あっちにいたよ?」
「そうか」
そのままあたしの背中を押すようにして歩いて行き、会社の人達のいるブースに近付く。
「じゃ、あたし外で――」
「あれ、主任?」
あたしの言いかけた声は、今度は目ざとく気付いた橋本さんの大声にかき消された。
「よ。遅くなってスマン」
「あー、野上さんだー」
七、八人の人に囲まれて話しているケンちゃんの後ろに立って途方に暮れていると、橋本さんと目が合った。
「あ、この間の」
何故か嬉しそうに腰を上げた橋本さんを遮って、ケンちゃんがあたしを振り返る。
「うん。俺の彼女」
一瞬で静まり返った中で、ぽかんと口を開けた橋本さんがあたしを見た。
「え、あれ? 従妹って……」
「そう。従妹。うちの母親の妹の子だから。で……俺には、彼女」
すまして言うケンちゃんに、近くにいた男の人が立ち上がった。
「何だよ、おまえ、いたのかよ」
「いたのかって、何」
「全然そういう話しないからさ。俺てっきり――」
言いかけて口を噤むその人の肩を、ケンちゃんが笑って小突く。
「てっきり何だよ。何か知らんけど、誤解」
「ああそう。そりゃ失礼。――どうも、はじめまして。同期の早瀬です」
端から挨拶される声に応えながら、お酒のせいだけでなく、あたしは足元から浮き上がってしまいそうになった。
「まあ、ついでに紹介しに来た。じゃ、今日はこれで」
「え、何、言い逃げ?」
「そりゃーないんじゃないのー」
「悪い、ちょっと急ぐから。田辺さん、おめでとう。元気でね」
「あ、うん、ありがとう」
呆気に取られる人達に手を振って、店の出口に向かう。
……あたしは、もう、立っていられるのが不思議なくらいだった。
外に出てタクシーを拾うと、ケンちゃんが自分の部屋の場所を運転手さんに告げた。
「……ケンちゃん?」
「うん?」
「今日……どうしちゃったの」
「どうしちゃったんだろうなあ」
「酔ってる?」
「そんな訳ないだろ。会議が終って、書類まとめてたら電話が来て、
仕事放り出して飛んで来たんだから。店じゃ水しか飲んでないし」
「……藤村さん、何て言ってたの?」
「ん? ……夏菜が、泣いてるって」
「それだけ?」
「充分だろ」
窓枠に肘をかけて頬杖をついたケンちゃんが、空いている左手であたしの右手を引き寄せた。
窓の外に目を向けたまま膝の上であたしの手を握って、苦笑する。
「俺、開き直ると強いのかもな」
「開き直ったの?」
「さあ」
おかしくて仕方がないと言うように笑いを堪えて、あたしの手を握る手に力をこめた。
あたしも、そっと握り返す。
こっちを見ようとしないケンちゃんの耳が、微かに赤くなっているのに気付く。
――そうか、照れ屋って、本当だったんだ。
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