5.
春休みに入って、一日は気の遠くなるような速度でゆっくりと過ぎていった。
バイトのない日は特に、何をしたというわけでもなく時間が過ぎてしまう。
ケンちゃんは、会社で忙しくしているんだろう。こんなふうに、何もしないでいられる日が続くなんて、彼には滅多にない。
当たり前なんだけど。
会社で会って、食事をして、送ってもらったあの日から一週間。互いに連絡しないまま、週末になってしまった。
あたしは携帯を手に、ベッドに寝転んで画面を見つめる。何度かメールの作成画面を呼び出して、
ケンちゃんのアドレスを呼び出して、手を止めた。
ずっとあたしの中にある言葉にならない声は、ため息の向こうで固体になってしまったように溜まっていく。
どんな形にして伝えればいいんだろう。伝えることが正しいのかも、分からない。
諦めて放り出した携帯がいきなり鳴り出して、慌てて画面を見た。
……なんだ、紀子だ。
「もしもしー」
『はいはいー』
「何よ、はいはいって」
久しぶりに聞くのんびりした声に、力が抜ける。
『夏菜、今日忙しい?』
「んー、別に」
『夜ちょっと出られない? あ、合コンじゃないよ。ただの飲み会。うちのサークルの子とか、来るんだけど』
「……えーと、あたしは……」
あんまりお酒は強くないし、部活の集まりだとかごく親しい女友達との集まり以外、飲み会に行くことはないほうだ。
何も予定はないんだから行ってもいいんだけど、その間にケンちゃんから電話があるかも知れないと思うと足が重くなる。
『ヒマだったらおいでよ。あ、場所はね』
ああ、そこなら行ったことがあるな、と思って、その店の名前を最近耳にしたことを思い出す。
「何時?」
『ん? 七時くらいにはみんな来るんじゃないかな。適当だよ』
あたしは壁のカレンダーに視線を投げた。今日は金曜日。間違いない。
『週末だからやっぱ無理かなー』
「行く」
『え、ほんと? 大丈夫?』
「うん。遅くはなれないと思うけど」
『いいよー。なんか風邪ひいて来れない子とかいてさ。人数少なくて寂しいから、来て』
「分かった。現地集合? じゃ、適当に行くね」
電話を切って、急いで着替える。ケンちゃんが来れないのは分かっていたけど、あの人が来るかも知れない。
あたしのことは多分覚えていないだろうけど、なんとなく、遠目でも会ってみたい気がした。――藤村さんに。
「……人、少ないんじゃなかったの」
少なく見積もっても、二十人近くは来ている。店の一角を貸切にした感じで、何だか妙に盛り上がっている一団がいた。
「いやー、あちこち声かけてたらこうなっちゃって。まあまあ、飲んで飲んで」
半分以上は知らない人だ。あたしはとりあえず紀子の隣に座って、ビールを受け取ると少しづつ飲んだ。
藤村さんらしい人は、見当たらなかった。店全部を見回したわけではないけれど、髪の長い女の人は見つからない。
会ってどうしようと言うのだろう。
あたしのことを覚えていたとして、何を話すんだろう。
手近にいる人と適当に話をしながら、あたしの頭の中にはそんな言葉がグルグル回っていた。
トイレに立つついでに他のブースを横目で見て、橋本さんらしい人がいるのに気付く。
あのグループなのかな。ケンちゃん、あとから来たりしないかな。
「あら?」
向こうから歩いて来た女の人の声に、顔を上げた。背の高い、ショートカットの綺麗な人。
「やっぱり。野上クンの彼女ちゃんだ。そうでしょ?」
「え? ……ふ、じむら、さん?」
「当たりー。髪切ったから分からなかったよね」
笑顔のその人を、改めて見上げる。あたしとは別の位置から、あたしの知らないケンちゃんを知ってる人。
「彼、今日は来られないみたいよ? どうかしたの」
「あ、いえ、学校の仲間と来てるんです。ちょっと通りかかって」
「へー、偶然ね。私は前の会社の友達が寿退社するんで呼ばれたのよ。
あんまり来られる立場じゃないんだけど、仲のいい人ばかりの集まりだから」
そう言ってブースのほうをちらりと見ると
「一人ウルサイのがいるけどね。去年入った子が店とか決めてくれて」
指差す先は、橋本さん。こっちには気付かずに、盛り上げ役に徹している。
「あの、前の会社、って……」
「あれ、聞いてない? 私、辞めたのよ。今は実家にいて、友達のお店を手伝ってるの」
そうだったんだ。だから、彼女が来ることにケンちゃんは驚いてたんだ。
「ここで服売ってるから、良かったら見に来て。似合いそうなのがあるわよ」
ブティックの名前の入った名刺をもらって、あたしはそれに視線を落とす。
「じゃあ、今度彼と買い物に来てね」
「あ、あの」
小首を傾げる笑顔に、あたしは声を絞り出す。
「あの……ええと」
「どうしたの? ……何かあった?」
どうしよう。ケンちゃんの前でも、誰の前でも出てこなかった涙が、溢れそうになる。
周りを見渡した彼女が、あたしの肩を叩いた。
「友達、大丈夫だったら、あっちでちょっと飲もうか」
カウンターの隅に並んで腰を下ろすと、軽めのカクテルを二つ注文してくれた。
「あそこのブースと、一緒にしといて」
店員さんが頷くのを見て、あたしは慌てて財布を出す。
「いえ、そんな」
「いーの。そのうち彼に倍にして返してもらうから。あ、うちの店のワンピースで手を打とうかな。倍どころじゃすまないけど」
明るい声に、つられて笑ってしまう。白っぽい色のカクテルが来て、なんとなく乾杯をして、
一口飲んだところで藤村さんがあたしの顔を覗きこんだ。
「少し痩せた?」
「え、そうですか?」
「ああでも、前に会った時はまだ高校生だったもんね。大人になったってことかな……あーやだ、親戚のオバサンみたい」
ケンちゃんがこの人と仲がいいわけが分かる気がする。笑ったあたしに鼻の頭にしわを寄せてみせて、声を落とした。
「……で、どうしたの」
あたしはぽつぽつと、最近のことを話した。
ケンちゃんの本音が見えないこと、どうしても思ってることが伝えられなくて、言葉が空回りしていること。
先週言われた『従妹』の話になると、藤村さんが額に手を当てて呻いた。
「……ほんっと、バカ」
「いえ、それはでも、会社の人の前だし」
「まあそりゃ確かに、あの子はね。歩くスピーカーだから」
そう言ってパンツのポケットから携帯を取り出すと、
「ごめん、ちょっと待ってて」
と席を立った。
あたしはどうして、彼女にこんな話をしてしまったんだろう。
明るくて優しい雰囲気につられて、というか、こんなふうに聞いてほしかったんだろうと思う。
それと――どこかで、あたしはケンちゃんの彼女だと、主張したかったってこと。
なんだかものすごい自己嫌悪に駆られて、手にしたグラスに目を落とした。
「お待たせー、ごめんね」
「いえ、大丈夫ですか?」
「うん。……まあ、だいたい分かったわ」
「え?」
「野上クンね、あなたが可愛くて、大事で、どうしようもないのよ」
ストレートに言われた言葉に、耳が熱くなるのが分かる。
「や、そんな」
「まあまあ、それは覚えておいてあげてよ。間違いないから。でもほら、照れ屋だから」
「……そうですか?」
「こういうことに関しては、そうだと思うわよ? 不安になる気持ちは分かるけど、信じてあげて」
優しい瞳。
こんな大人の表情ができるようになるには、どうしたらいいんだろう。
ケンちゃんの隣で、何も怯えたりせずに、穏やかに笑っているためには、何をすればいいんだろう。
「でも……でも……」
いけない。少し飲み過ぎたかも知れない。
あたしも彼女も他の仲間と来てるし、こんな所で時間を取らせるわけにはいかないのに。
切れ切れに吐き出す言葉と一緒に、涙が零れ落ちてしまう。
藤村さんの手が、優しく背中を叩いてくれるのにまかせて、あたしは両手で顔を覆った。
|