4.
年度末は忙しい。
会社員のケンちゃんだけでなく、学生のあたしにも、やることはいっぱいある。
一、二年生のうちはなんとなく過ごしていた感じの大学生活だけれど、
三年になると、そろそろ先のことを考える必要が出てくるし。
もうすぐ春休みに入って、学生でいられるのもあと半分だ。
就職することに、なるんだろうか。
大学院ということも、考えないでもない。今やっている英米文学の研究が少し面白くなってきたし、
もうしばらく学生でいられたら、とも思う。
ケンちゃんがいなかったら、迷わず院に進んでいただろうな。
でも、良くんじゃないけど、早く社会に出てみたいというのもある。
ケンちゃんがいる世界に、少しでも近づきたくて。彼の周りに見える景色を、分かりたくて。
そんな理由で社会に出るべきじゃないのかな。もちろん、自分のためでもあるんだけど……。
考え込みながらキャンパスをあとにする。
今日は仕事帰りのケンちゃんと待ち合わせて、一緒に食事をすることになっていた。
まだ時間に余裕はあるし、駅前じゃなくて会社の近くまで行ってみようかな。どんなところで働いてるのか、見てみたいし。
思いついて足を速めたあたしに、名前を呼ぶ声が聞こえた。
「夏菜ー! もう帰るの?」
同じゼミの友達の紀子だ。あたしは足を止めて、彼女が追いつくのを待つ。
「どうしたの?」
「いや、用事ってほどでもないけど。急ぐ?」
「……うーん、ちょっと。約束があって」
「あ、彼氏?」
「うん、まあ」
へへ、と笑ったあたしに、紀子が肩をすくめた。
「夏菜は安定してるもんね。長いんでしょ?」
「んー……長い、のかな」
そう言えば、三年になる。周りの友達に比べたら、長いほうなのかも知れない。
「じゃ、来ないよね。このあと合コンあるんだけど」
「パス」
「即答かい。一人足りないんだよねー。この際彼氏持ちでもいいかと思ったんだけどな」
「ダメ」
「分かったよもう。……でも、夏菜の彼氏って見たことないよね?」
「あー……うん、社会人だし」
「そうだっけ。でも結構いるよ? 社会人の彼氏がいる子。皆で遊ぶ時とか、連れてくればいいのに」
「彼、シャイだから」
「あははは。そうなんだ」
……笑うとこですか?
「一応、言っとく。機会があったらね」
「うん。一度会わせてよ。じゃあ、邪魔してごめんね」
「ううん。またね」
手を振って、駅に向けて歩き出す。……ケンちゃんが、うちの友達の集まりに顔出してくれるかなあ。
女の子に囲まれて引きつっているケンちゃんを想像して、笑いそうになる。
でも、意外と喜んだりしてね。
ここかー……。
ケンちゃんの名刺の住所を頼りに辿り着いたのは、五階建てのビル。
入り口の表示で確かめると、その中の三階から上がケンちゃんの会社らしい。
グレーのタイル貼りのビルに、夕陽が反射して眩しい。あたしは手にした名刺を改めて眺めた。
『企画開発課 主任 野上賢一』
なんだか、知らない人の名前みたいに見える。この中の、何階にいるんだろう。
ロビーのプレートは会社名だけで、入っている部署までは分からない。
時間は五時を回ったところ。そろそろあたりも暗くなり始めるだろう。待ち合わせは駅の改札で五時半なんだけど……。
会社というから、受付のようなものがあるのかと思っていたけれど、ロビーには人気がない。
下のフロアには別の会社も入っているみたいだし、三階に行けば受付があるのかな。
どっちにしろここにいたら通るだろうし、分からなかったら携帯にかけよう。
そう思って入り口のドア付近に立っていると、エレベータから男の人が二人降りて来た。
一人はケンちゃんで、もう一人は、小柄な若い人。あたしとあまり変わらない年かも知れない。
スーツを着て、コートを腕にかけたケンちゃんは、いつもよりずっと大人に見える。
あたしには気付かずに、後輩らしい彼に何か話しかけると、片手を上げてこっちに歩いて来た。
どうしよう。ケンちゃん、て呼ぶわけにもいかないし。野上さん? マサカズさん? ……どれも変だな。
口を開きかけた時に、後輩の彼が声を上げた。
「あ、主任!」
主任、て呼ばれてるんだ。それはそうだよね。その声にちょっと眉をひそめたケンちゃんが、振り返る。
「何だ」
「来週の金曜日ですけど、空いてます? 田辺さんの送別会。六時からあるんですよ」
そう言って彼が挙げた店は、前に大学の飲み会で行ったことのある場所だった。
最近できた洋風居酒屋で、この辺ではかなり大きい店なので人気がある。
「いや、その日は――企画会議が入ってるから、間に合わないな」
「途中からでいいから、来て下さいよー。せっかく藤村さんも来るんですし」
藤村さん。ケンちゃんの同僚の女性だ。あたしは一度だけ、ケンちゃんと付き合う前に会ったことがある。
その名前に、ケンちゃんの瞳が軽く見開かれた。
「……何で」
「え? 藤村さんですか? 田辺さんと仲良かったみたいですよ」
「ああ、そう……俺はちょっと……」
そこまで言ってこっちに視線を向けたケンちゃんが、また、驚いた顔になる。
「夏菜、どうした」
「かな?」
復唱してあたしのほうを見た後輩くんを殴る真似をして、ケンちゃんが足を速めた。
「待ち合わせ、駅じゃなかったか?」
「うん、そうなんだけど……時間があったから、来ちゃった。どんな所なのかなって……ごめんね」
「いや、別にいいけど」
「あ、もしかして」
いつの間にこっちに来たのか、後輩くんがケンちゃんの肩越しに覗き込んで言う。
「何だよおまえは! いいから部屋戻れ」
「主任の、彼女さんですか?」
……彼女に、見えてくれるのかな。
曖昧に笑ってケンちゃんを見上げると、後輩くんのほうを見たままで小さく息を吐いた。
「……従妹だよ」
キン、と音を立てて、あたしの周りの空気が凍った。
すぐ隣にいるケンちゃんとの間に見えない壁が出来たみたいに、彼の気配が感じ取れない。
「へぇ、そうなんですか。――あ、俺、橋本って言います。野上主任には、いつもお世話になってます」
いえ、こちらこそ、と言いそうになって、慌てて笑顔を作る。――そんな台詞『従妹』のあたしが言うのは少しおかしい。
「……はじめまして。吉村です」
「うわー、可愛いっスね! ほんとに主任の従妹さんですか?」
「だから、おまえは、帰れっての!」
ケンちゃんが橋本さんの首に腕を回して、エレベータのほうに引きずって行った。
「あ、痛ててて! 吉村さーん、また遊びに来て下さいねー」
両手を振る橋本さんを放り出して、ケンちゃんが早足で戻ってくる。
あたしは、笑えているだろうか。
会社の人の前で『彼女』だなんて言えないんだ。このくらいのこと、笑って聞き流せないといけないんだ。
「……ったく。あいつはどうしてああ落ち着きがないかな」
吐き出す息と一緒に苦笑したケンちゃんと、目が合ってしまう。
「早く行こ。お腹空いちゃった。あんまり遅くなれないもんね」
「……ああ」
――目を逸らしたのは、どっちが先だったんだろう。
「ごちそう様でしたー。おいしかったー」
「うん。結構うまかったな」
ケンちゃんの会社近くのお店で食事をして、下りの電車に乗った。
ちょうど混み合う時間なのか空席はなくて、ドアの近くに立ったあたしの横に、ケンちゃんが立つ。
時折交わす言葉は、あたしの体に被った1枚の透明な皮膚の上を滑っていった。
その薄い皮との間に溜まっていく本当の声が、すべてを押し流して溢れていきそうで、どうしても口数が少なくなってしまう。
ケンちゃんも黙ったままで、頭の上にある手すりを掴んで暗いガラスの外を見ていた。
途中で停まった駅で、大勢の人が乗り降りする。他の路線と接続するせいで、ますます車内は混んできた。
「……きゃ」
ドアが閉まるギリギリに飛び込んで来た人に押されて、少しよろける。
ケンちゃんがあたしの肩を支えて、ドアの上に片手を付いた。
「大丈夫か」
「うん」
電車が揺れて、ケンちゃんの背中に他の乗客の重みがかかる。
少し顔をしかめて、あたしを庇うように腕の中に包んでくれる。
目の前にあるスーツの襟元から微かに煙草の匂いがして、あたしはどうしようもなく泣きたくなった。
「……どうした」
黙って首を横に振る。このまましがみついて、大声で泣いてしまえたら、どんなに楽だろう。
あたしは、何をすればいいの。どこへ向かえばいいの。
『おまえがいないとダメだ』
その言葉は、どこまで信じたらいいの。
次に停まる駅のアナウンスが入った。ケンちゃんの部屋のある駅。
あたしはこのまま乗って、乗り換えて、家に帰ればいい。
「あ、次だね。じゃあ、またね」
笑って。お願いだから。
あたしは自分自身に、真顔で見下ろす彼に、祈る。
ドアが開く。大勢の人と一緒に、ケンちゃんもホームに降りる。
笑って手を振りかけたあたしの腕が、ぐい、と引っ張られた。
「……きゃっ!」
足をもつれさせたあたしを抱き止めたケンちゃんの後ろで、ドアが閉まった。
「あ、あの」
「……送ってく」
「え?」
そのまま手を引かれて階段を降りる。ケンちゃんは定期を、あたしは切符を改札に通して、駅前の雑踏を抜けた。
「ケンちゃん、あの」
「何」
「送ってくって」
「だから、車。そのほうがいいだろ」
「大丈夫だよ。まだ時間早いし。明日仕事でしょ? あたし電車で帰るから」
「おまえは」
足を止めて振り返る。ケンちゃんのほうが、泣き出しそうな瞳をしてた。
「何でそう気ばっかり遣うんだよ。悪いのは俺だろ? 怒りたけりゃ怒れよ」
「……怒れって……何を……」
つないだ手に力をこめて、ケンちゃんが歩き出す。
駐車場まで黙って歩き、車の助手席のドアを開けると、あたしに乗るように促す。
「ケンちゃんのほうが、怒ってるんじゃないの」
「いいから、乗れ」
車に乗り込んでエンジンをかけるケンちゃんの横顔が、初めて会った人のように見える。
怒っているような、苛立っているような、それでいて泣き出しそうな顔。
ギアを入れ替えて、ハンドルを切って、少し走った所で、ケンちゃんが大きく息を吐いた。
「……ごめん」
「何が?」
「あいつさ、橋本。悪いヤツじゃないんだけど、男のくせに口が軽いっつうか……お調子もんだから」
言葉を押し出すようにしながら、おどけた調子を作る。気を遣っているのは、あなたのほうだよ。
「……いいよ」
唇の端を上げる。それだけでもきっと、少しは笑って見えるはず。
「だって、嘘じゃないでしょ? あたしはケンちゃんの従妹だもん。
会社の人に、余計なこと言わないほうがいいってことくらい、分かってるから」
本当は。
彼が訊いた『彼女ですか?』に対しての答えになってしまった『従妹』は、
あたしがケンちゃんの彼女だということを否定している。
そう言ってしまったことをケンちゃんは謝っているのに、あたしはそれがうまく飲み込めない。
怒っていいの? 泣いていいの?
あなたを困らせても、このままそばにいてくれるの?
「違う、そうじゃなくて……」
「いいよ。ほんとに遅くなるから。今日はもう帰ろう?」
赤信号で車を停めている間、黙って見つめ合う。
ケンちゃんの気持ちが、読めない。その瞳の奥にある正しい答えが、見えない。
信号が変わって、ケンちゃんの視線が動いた。前を向いた横顔を見て、あたしはいつもと違うことに気付く。
「ケンちゃん、メガネ」
「……え? ああ、そうか」
「どこ? かけないと危ないよ」
「悪い、俺の鞄の中」
後部座席に放り出してあった鞄を開けて、メガネケースを出す。
レンズに触れないように取り出して、ケンちゃんの左手に渡した。
「忘れてた……サンキュ」
「うん」
どこかぎこちなく、笑い合う。
けれど、もう、それだけでいい。
ごめんと言ってくれたこと、少し照れたようなこの笑顔で、あたしは言葉を飲み込むことができる。
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