3.
昨日から降り続いた雨は、いつの間にか雪になっていた。
ひとつひとつの白いカケラは凍った水分の集まりだと分かっているけれど、
ひらひらと舞い落ちる様子は、花びらか紙切れのように乾いて軽そうに見える。
カーテンを開けたサッシの向こう、ベランダ越しに雪が落ちるのを見ながら、手にしたカップから温かい紅茶を一口飲む。
ケンちゃんはベッドに寝転んで、黙って雑誌をめくっていた。
二月最初の土曜日の午後。待ち合わせてお昼ご飯を食べてから、久しぶりにケンちゃんの部屋に来た。
ゆっくり話がしたいと思ってから、あっという間に時間が過ぎていった気がする。
クリスマスは食事をしただけで、お正月もあまり一緒に過ごせなかった。
あたしはケンちゃんと二人でいたかったのに、ケンちゃんがうちに来て両親と話している時間のほうが長かったように思う。
あの後病院に行って検査をし、胃炎と軽い貧血の診断を下されてしまったあたしは冬休み中のバイトを休みにして、
外に遊びに行くことも控えていた。
最近ようやく薬を飲まなくてもいいようになり、新学期が始まる頃にバイトも再開して、体調のリズムも戻ってきたのに。
ケンちゃんは相変わらず、忙しいのか何なのか、会える時間が少ない。
あたしもちょうど試験に入り、ますます接点のない日を過ごしていた。
いつもなら、仕方ないな、と思えるのだけれど。これから先のこと、ケンちゃんが思っていること、
話したいことがたくさんある今は、待っている時間が長かった。
「……ケンちゃん」
「ん?」
「それ、面白い?」
メガネをかけた横顔は、あまり面白がっているようには見えない。
あたしには良く分からない、ビジネス関係の本みたいなのを読んでいる。
「読むか?」
ちょっと意地の悪い顔をして、ケンちゃんがニヤリと笑う。あたしは口を尖らせて首を横に振った。
「もう少しで終るから。ちょっと待って」
そう言うと雑誌に戻ってしまうケンちゃんに、こっそりとため息を吐く。
――最近、こんな感じだ。
話しかければ、優しく答えてくれる。電話やメールもくれるし、会えば家まで送ってくれる。
でも、あたしの体調を気遣ってか、例の『疑い』があったせいか、
ケンちゃんの部屋に泊まっていくことは何となくはぐらかされてしまっていた。
このまま、距離を置かれてしまうのかな。
話したいことはたくさんあって、訊きたいこともたくさんあったはずで。
ほんの短い時間しか会えない日が続いて、やっと二人になれたのに、 何を話したらいいのか分からなくなってきてしまった。
そっと隣を伺うと、文字を追う横顔は変わらない。あたしはゆっくりと息を吐き出して、窓の外に視線を投げた。
静かに流れているラジオの音。ヒーターの動く音。窓の外をすべる雪に、吸い込まれていく雑音。
「ひゃっ!」
いきなり冷たい指で首すじをつかまれて、あたしは飛び上がった。
「お待たせ」
「もー、何すんのよ!」
「ぼーっとしてるからさ」
「……誰のせいですか」
「はいはい、俺です。ゴメンな」
笑って言うと、メガネを外してケースにしまい、ベッドの上にあぐらをかいて手招きをする。
ケンちゃんの隣によじ登ると、ひょい、と膝の上に抱え上げられた。
……嬉しいんだけど、小さい子にするみたいな気がするのは何でだろう。
「どうした?」
「――ううん。なんでもない」
ケンちゃんの鎖骨のあたりに耳をつけて、目を閉じる。どこかで雪の落ちる音。ラジオからは古い洋楽。
何て曲だろう、静かで、温かくて、少し眠くなる。
「”What a Wonderful World”」
「え?」
頭の上で囁かれた声に顔を上げると、ケンちゃんが微笑んだ。
「この曲」
「……の、タイトル?」
「そう」
どこかで聴いたことがある。たぶん、テレビとかでもよく使われているんだろうな。
ゆっくりとフェイドアウトしていく曲に耳を澄ませていると、それに重なるように始まった次の曲に合わせて、
ケンちゃんが低い声で口ずさむ。
珍しいな。こんなふうにリラックスしているケンちゃんはひさしぶりで、なんだか嬉しくなる。
これは何て曲? と訊こうとして上げた目が、ケンちゃんの視線と合った。
優しく笑っていた瞳から、すっと真剣な表情になる瞬間が、そのまま凍らせてしまいたいほどに、好きだと思う。
どちらからともなく瞼を伏せて、唇が触れ合う。
――何も、言わなくていい。
会えない時間の不安だとか、これから先に出すべき結論とか、みんな溶けてしまえばいい。
ケンちゃんの首に腕を回して引き寄せると、肩に回された腕に力がこもる。顔を離して見つめ合う瞳が、ふっと和らいだ。
「ケンちゃん」
「……うん?」
「そろそろ帰そうと思ってるでしょ」
「……」
「ほら、当たった」
笑ったあたしに顔をしかめて、ケンちゃんの右手が額を小突いた。
「いったー」
「おまえは最近、俺の言おうとしてることを読み過ぎ」
「だって分かるんだもん」
おでこを擦りながら見上げると、苦笑したケンちゃんがため息を吐く。
「……ま、俺が分かり易いんだけどな」
「うん」
今度はこめかみをグリグリされた。
「ひぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
「だから、その変な反応やめろ」
抱き上げられた時と同じように、ひょい、と膝の上から降ろされる。
立ち上がったケンちゃんが、コンポのスイッチを切って上着を手にした。
「あのね、あたし……」
「夕飯、何にする?」
「えっ」
「泊まってくんだろ? スーパーまで行かないと、うちにはロクな食い物ないぞ」
「うん」
勢い良くベッドから降りたあたしを見て細められる瞳。
その腕の温かさも、囁く声も。
全部が、あたしにとっての、素晴らしい世界だから
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