2.
白い壁の部屋で、あたしは寝台に横たわって点滴を受けていた。
透明な液体が、気の遠くなるような速度で落ちていくのを、ぼんやりと眺める。
結果は――『ハズレ』だった。
診察時間はとっくに終っていたけれど、伯母さんが前に勤めていた病院から 独立したという産婦人科の先生は、黙って検査をしてくれた。
伯母さんと同世代の女医さんで、どうやら胃が荒れているようだということと、
貧血の疑いがあるから診てもらうようにということを、静かに話してくれた。
先月ひいた風邪のせいか、ケンちゃんの言うようなストレスなのか、分からないけど。
どこかで『アタリ』だと思い込んでしまっていたせいも、あるのかも知れない。
「――夏菜、どうだ?」
「あ、うん。……大丈夫」
カーテンの向こうから声がして、心配そうな顔のケンちゃんが横の椅子に腰を下ろした。
「……ごめんね」
「いや。貧血みたいだから、やっぱり大きいとこで診てもらったほうがいいな」
「うん。それと……あの……」
「ああ。――それは、まあ、仕方ないだろ」
苦笑したケンちゃんが、そっとあたしの前髪を直してくれた。
「そう思わせるようにしたのは俺だし?」
おどけて言う声に、あたしも苦笑する。
「――お袋が言うみたいに、いい加減じゃないつもりだけど」
「……うん」
「あそこで聞かれちまったのは迂闊だったな。……実は、さ」
少し言いにくそうに声を落として、あたしの枕元に肘を付く。
「俺、予定外に出来たらしいから」
「え?」
「看護学校を出て、仕事始めたばかりの頃に親父と知り合って――ま、いわゆる『できちゃった』てヤツで」
「そうなの?」
「うん。お袋はまだ十九だったかな……いろいろ揉めたらしいけど、おかげ様で産んでいただきまして」
「……知らなかった」
「そりゃ、あんまり堂々と言える話じゃないよな」
だからあんなに怒ってたんだろうか。自分がしたような苦労をさせたくない、とか。
正直に言って、ハズレだったことでは安心してしまっている。やっぱりあたしはまだ、自分のことだけで精一杯で――でも。
でも、もし、本当にアタリだったら、どうしたんだろう。あの時の、消したくない、という想いは、嘘だったんだろうか。
「俺はわりとすぐに保育所に行かされて、やっとお袋の仕事が軌道に乗った頃に、 今度は良が出来てさ。いやもう、大騒ぎだったね」
「へえ……」
「その頃には仕事を続ける女性も増えてたから、なんとかなったみたいだけど」
「……あんたは、余計なことばかり言うんじゃないわよ」
ふいに頭の上から聞こえた声に、ケンちゃんが首をすくめた。
「何でいつも気配消してくるかな」
「おまえが鈍いの。……夏菜ちゃん、落ち着いた?」
「……うん。ごめんなさい、お騒がせして……」
「それはいいから、早くちゃんと診てもらいなさい。貧血はしっかり治しておかないと」
「はい」
「静子には電話しといたから。点滴が終ったら一緒に帰りましょ。――賢一、あんたはもう部屋に帰りなさい」
「え、俺?」
「当たり前でしょう。明日も仕事なんじゃないの」
「うん、まあ、そうだけど……」
「泊まってってもいいけど、朝が大変でしょ。早く帰って、ご飯食べて寝なさいよ。夏菜ちゃんは大丈夫だから」
なんだか二人で叱られているみたいな気がして、目が合ったケンちゃんが顔をしかめてみせるた。
「寝不足で仕事になるような会社なら何も言わないけど?」
「ああ、はいはい、分かりました。――明日、電話するよ」
あたしに向けて言ったケンちゃんの声がひどく優しくて、あたしは泣き出してしまいそうになる。
伯母さんが黙って部屋を出ていくのを見て、ケンちゃんが息を吐いた。
「……勘の良すぎる母親ってのも、困るんだよな」
「え?」
目尻からこぼれそうになった涙を押さえたあたしの手を軽く握って、その目元にそっと唇を当ててくれる。
喉の奥に溜まっていた不快な塊がそれだけで消えていくような気がして、あたしはその魔法をかけた唇に指先を触れる。
微かに笑ったケンちゃんが、静かに髪を撫でてくれた。
「今日は、ゆっくり休め」
「うん」
「俺も……」
「……何?」
「いや、何でもない。今度の休みにそっちに行くから。――じゃ」
もう一度あたしの髪をくしゃっと撫でて、ケンちゃんが立ち上がると、カーテンの向こうに消えた。
しばらく一人で点滴の落ちるのを眺めていると、少しうとうとしてしまう。 いつの間にか近くに人の気配がして、あたしは目を開けた。
「……伯母さん?」
「なあに?」
姿は見えないけれど、すぐに返事がした。
「そこにいるの?」
「いるわよ。どうしたの」
何も言わずにいると、伯母さんが近くに来てケンちゃんが座っていた椅子に腰を下ろした。
「気分悪い?」
「ううん……ごめんね」
「何を謝るの」
苦笑した伯母さんが、小さくため息を吐く。
「……まさか、あんた達がこうなるとはね」
「……」
「賢一はもう大人だし、自分の相手は自分で見つけるだろうと思ってたけど……」
「やっぱり、あたしじゃ……」
「違うわよ。何て言うのか……あの夏菜ちゃんが、もう、そんな年なんだなぁって、改めて思っただけよ」
あたしの額にかかった前髪を、伯母さんの指がそっと直す。 細い、柔らかい手だけれど、そのしぐさはケンちゃんと同じだった。
「そうね、もう二十歳なんだものね。……でも、本当にね、夏菜ちゃん。子供を育てるっていうのは、簡単じゃないの」
「……はい」
「静子もいるし、私も手伝えると思うけど、産んだその日から母親になれるってものじゃあないのよ」
そこまで言って、さっきのケンちゃんの話を思い出したのか、頬に刻まれた笑みが深くなる。
「子供と一緒に自分も育てているようなものだからかしら」
今のあたしは、自分を育てるので精一杯ってことかな。……確かに、そうかも知れない。
「伯母さんも、大変だった――?」
「まだまだ自分が子供だったから。お父さんに頼りたくても仕事が忙しいし、自分だって仕事がしたいと思ってたからね。
何でこんなことしなきゃいけないのって、正直思ったわ」
そうなのかな。あたしが今、急に母親になったら――どうなるんだろう。
毎日自由に遊んでいる友達と比べたり、やりたかったのにできなかった仕事と比べたりして、後悔するんだろうか。
「私はわがままで欲張りだから、仕事も子供も手放さなかったつもりだけど、賢一には迷惑かけたと思うわね」
「……そうかな」
「そうよ。ほとんど家にいなくて、小さい弟の世話を押し付けて」
何故か楽しそうに、伯母さんが笑う。それでもきっと、ケンちゃんを産んで良かったって、思ってるんだろうな。
あたしも――そう思えるようになりたい。
勉強をしても、仕事をしても、子供ができても、大変だろうけど。 いつか、これで良かったって笑っていたい。――ケンちゃんの、隣で。
「あたしも――なれるかな」
「なれるわよ。何にでも」
軽く言った伯母さんが、あたしの布団の端を叩く。
「あ、そろそろ点滴終るわね。そうそう、静子には余計なことは言ってないから。
――もう子供じゃないって言うのなら、二人でよく考えて、何でも話し合って決めなさい」
あたしは黙って頷いた。
子供じゃないって、言いたい。ケンちゃんの奥さんにだって、子供を産んで母親にだってなれるって言いたい。
けれど――あたしはまだいろんなものに守られてる。たくさんの人に。学生という身分に。
自分も、大事なものも守っていけるようになるには、どうすればいいんだろう。
ケンちゃんと、話がしたい。
ゆっくり、いろんなことを話したい。
こんな風に目指す場所がはっきりと見えない時に、いつも思い浮かべるのはあの笑顔。
――週末が、とても遠く感じた。
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