1.
隣が空き家になったのは、あたしが小学校三年生の時だった。
昔は大きな家が建っていた土地に新築の小さな家が二軒建てられ、 その一軒にうちと同じくらいの世代の家族が住んでいた。
そこの家の子と遊んだりもしたらしいけれど、よく覚えていない。
二、三年後にご主人の転勤か何かで隣が引っ越して、それと前後するように、伯父さんが亡くなった。
母の姉である伯母さんと、その息子のケンちゃん、良くんが隣に引っ越して来ると聞いた時、 あたしはあんまり嬉しくなかった。
一番チビのあたしは、どうしてもミソッカスで。年上の男の子二人の従兄となんか、遊んでもらえるわけもないし。
仕事に忙しい伯母さんとも、あまり会うことはない。
小、中学生の頃のあたしは、たくさんの『保護者』に囲まれている気分で面白くなかった。
今、目の前で強張った表情を浮かべて立っている人に、あたしはあの頃の自分の視点を重ねてしまう。
「――いや、ちょっと待ってくれ」
ケンちゃんがあたしを背中に庇うようにして、腰を浮かせた。
「ちょっと待ってじゃないでしょう。どういうことなの、これは」
「だから、まだ何も確かめてないんだって。とにかく、近いうちに医者に連れていくから」
「……夏菜ちゃん、どうなの」
言われたあたしは、ケンちゃんの影で身をすくめた。
「まだ分からないって言ってるだろう」
「賢一には訊いてないわ。夏菜ちゃんの体が、どうなのかってことよ」
伯母さんは、看護師だ。
担当は外科だと聞いたけど、勤めている病院には産科もあるし――当然、伯母さんにだって覚えのあることだから。
どうなんだろう。
自分が一番訊きたい。
最近、ずっと体調が悪かった。食欲がなくて、何を食べてもおいしくない。喉の奥が詰まる感じがして、体がだるい。
これが、そうなんだろうか。
否定する材料は、もう十日も遅れていた。
学校に行っても、バイトに行っても、頭の隅でそのことがグルグル回っている。
「――分からない、けど……」
「そうかも知れないのね? 何日遅れてるの」
「おい、待てって」
あたしの顔を覗きこもうとした伯母さんの前に、ケンちゃんが片手を広げる。
「夏菜を責めることないだろ」
「責めてるわけじゃないわよ」
「じゃあ、少し待ってくれよ。ちゃんと確かめて、それから話すから」
「――少なくとも、可能性はあるのね?」
一瞬、あたしと目を合わせたケンちゃんが、黙って頷いた。
パン、という音がして、ケンちゃんが顔をしかめる。
伯母さんが平手でケンちゃんの頬を叩いたと気付いたあたしは、思わず立ち上がった。
「やだ、どうして」
「――夏菜、座ってろ」
「何を、考えてるの」
青い顔をした伯母さんの声が、微かに震えていた。
「もう三十になろうっていうのに、そのくらいの自覚もないの? 同じ年頃の娘さんとは違うのよ」
どう違うの。何を自覚しろというの。何が、いけないの。
「自覚がないわけじゃない。ちゃんと考えてるよ」
「何を? あんたは良くても、夏菜ちゃんはまだ学生なのよ。これからって時に、よくそんな無責任なことが言えるわね」
あたしはなんとなく、妙な違和感を覚えた。
これを言うのが、あたしの両親ならまだ分かる。どうして、伯母さんがこんなことを言うんだろう。
それは――あたしじゃ、ケンちゃんにはふさわしくないって、こと。
「いい? 子供を育てるっていうのはそんな簡単なことじゃないのよ。あんたは男だからいいわ。 何も生活変わらないんだもの。でも、産んで育てるほうには、大変なことなの」
「そのくらい、分かってる」
「何が分かってるっていうの、あんたに何ができるっていうの。子供じゃないんだから、ちゃんと考えて行動しなさい」
「……あたしだって、子供じゃない」
「夏菜」
「伯母さん、あたしじゃダメ? ケンちゃんの子供産む資格なんて、ないの?」
「何言ってるの。――そうじゃなくて、夏菜ちゃんはまだ学校もあるし、
やっと二十歳になったとこでしょう? ……こんなに早くなくたって」
「関係ない」
あたしは伯母さんの目を見て言った。震えそうになる声を抑えるように、両手を握り締める。
「まだ分からないけど――もし、もし、そうなんだとしたら、産みたい。勉強なんて、またできるもの。
今失くすものがあっても、それでも、ここにいるなら、消せない」
伯母さんが唇を噛んだ。
あたしを見上げるケンちゃんの瞳が、怖いくらいに真剣で、あたしは必死に次の言葉を捜す。
「だから、あたし、――」
ぐらりと、天井が回った。急に視界が狭まり、胃の底が冷たくなる感じがする。
「夏菜!」
立ち上がったケンちゃんに支えられて、あたしは口を押さえた。
イヤだ、こんなの。どうしてみんな、そんな怖い顔してるの。この子が可哀想。あたしは、絶対、消したりできない――。
「賢一、あんた車は」
「いや、今日は電車。会社から直接だから」
「じゃあ、タクシー呼ぶわ。早く診てもらわないと」
「うん」
どこか遠くで聞こえる会話に、あたしは首を横に振った。
「……病院なんて、行かない」
「バカ、じっとしてろ」
「イヤ。伯母さんの病院、なんて――」
「うちで診てもらうわけないでしょう。――大丈夫、知り合いのやってる所があるから。心配しなくていいわ」
伯母さんの手が、軽くあたしの背中に触れた。
柔らかい、温かい手。
あたしはこの手を覚えてる。小さい頃に、そっと頭を撫でてくれた手。
ケンちゃんや良くんについて行けなくて泣いたあたしを、抱き上げてくれた手。
こんなふうに、柔らかく、温かく、あたしは誰かを包めるんだろうか。
学校の勉強も、友達との付き合いも、これからするであろう仕事も、すべて捨てて、守れるんだろうか。
「ケンちゃん、ケンちゃん――」
「すぐ車来るから。吐きそうか? 苦しい?」
「イヤ。こんなのイヤ。どうして、いけないの」
「大丈夫だ、落ち着け」
「ケンちゃん、あたし――」
「いいから、もうしゃべるな」
玄関で物音がした。ケンちゃんに抱きかかえられるようにして歩くけれど、地面がふわふわとして足がもつれる。
車は夜の道を、病院に向かって走り出した。
|