凍った地面を蹴ると、少し足が痛んだ。
分かった、と言って、背中を向けて、最初はゆっくりと歩いていたのに。
いつの間にかあたしは、息を切らして走っていた。
駅から家までの道。いつもの道。
待ち合わせの時間つぶしに入る本屋。顔なじみになった喫茶店。
どれも冷たいシャッターを下ろして、静まり返っている。
手をつないで歩いた道。
夜中に買い物に行ったコンビニだけが白く明るい光を投げる横を通って、隣の公園に入る。
ブランコの柵にもたれて息をつく。
冷たい空気に肺が痛くなって、目に涙が滲んでくる。
どうして、泣けないんだろう。
代わりにこみ上げてくるのは、笑い出したい衝動。
洟をすすって、目をしばたたいて、あたしは口を両手で覆った。
2月の夜の冷え切った空気が、差し込むように痛い。
呼吸をするたび、体の内側からひび割れていきそうだ。
早く、帰ろう。
ここから歩けば、5分もかからない。急いで帰って、部屋の暖房をつけてお風呂を沸かして。
温かい紅茶を淹れて、ゆっくり休もう。
泣くのは、それからにしよう。
どこか奥のほうから突き上げる震えが止まったら。喘ぐように繰り返す呼吸の乱れが治まったら。
1人で歩いて、帰ろう。
笑い合って帰った道。待ち合わせの場所まで急いだ道を通って。
遠くからサイレンが聞こえる。近くの家から柔らかな灯りがもれている。
小さな公園の隅にうずくまったあたしに気付く人は、誰もいない。
昼と夜とで、目に見える景色がまるで違ってしまうように。
いつもと同じ帰り道で聞いた言葉は、あたしの視界の色を変えてしまった。
たった1年一緒にいただけのあなたが少しづつ見せてくれた風景は、色を失くしていく。
明日から2人は他人になる。たとえどこかですれ違っても、視線を合わせても。
知り合う前よりもずっと、遠くに。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
痛いほどに冷たい空気が、吐き出される時には温かく感じられるように、
あたしの耳に飛び込んだ言葉も形を変えていくんだろうか。
そのために、何から手をつければいいんだろう。
こんなふうに、話の途中で遮って逃げ出しても、変えられるはずはない。
どうやって受け入れたらいいの。
彼の言った言葉も、変わっていく景色も、拒むように体が震える。
――どちらが先に手を伸ばしたのか、覚えていない。
気が付けば一番近くにいて、いつも笑い合って。
何でも話せた。怖いものなんてなかった。あなたがいれば。
いつからだろう。
飲み込んでいく言葉が、曖昧な笑顔が増えて。
送ってくれる帰り道で、彼が口を開くたびに怯えてた。
本当の『さよなら』を聞くことに怯えてた。
だから。
どちらかが先に手を離したわけでもない。
けれど。
あたしはその手を離さないように力をこめていた。
この道を通る時に手をつないでいることが、これからを証明してくれると信じて。
今日、彼がその言葉を紡ぐ時にも、手はつないだままだったのに。
走る足音が過ぎて行った。
しばらくして、あたしの視界に見慣れた靴が現れる。
軽く乱れた呼吸。何も言わない。
茶色の革のブーツが、とん、と一度地面を鳴らした。
「……何、やってんだよ」
そっちこそ。
なんでここにいるの。何しに来たの。
「早く帰れよ」
帰るわよ。放っておいて。もう話は分かったんだから。
「なあ」
ポケットに入れた両手は動かない。あたしを抱きしめることは、もうない。
長いため息をついて、大きな靴が消える。
あたしの隣に移動した影は、同じようにブランコの柵に腰を下ろした。
いつもなら取り出す煙草を、探す気配もない。
黙ったままで、同じ黒い地面を見つめていた。
「……寒いな」
仕方なく、ひとつ頷く。
「風邪ひくぞ」
もうひとつ。
すぐに帰るから。別に何をどうしようと思っているわけでもないから。
少しだけ、この嵐が過ぎ去るまでの時間をちょうだい。
次々に浮かんでくる言葉は、声にならない。
「……何か言えよ」
何を。
何を言えばいいの。言えば、何かが変わるというの。泣いて、叫んで、全部吐き出せば。
「どうして……」
分かってくれないの。
「どうしてって……だから、さっきも言ったけど――」
首を横に振る。
違う。そうじゃなくて。そんな言い訳を聞きたいんじゃなくて。
「なんか、ついて行けなくなったっていうのかな……前から思ってたけど」
知ってる。そんなことは。
それでも、電話をくれたから。会えば、笑ってくれたから。
このまま一緒にいられるんじゃないかって、思ってた。
「……だから」
「もういい」
「じゃあ、帰ろう。こんなとこにいないでさ。送ってくから」
もう一度、首を横に振る。
「……1人で、帰れるから。大丈夫」
ダイジョウブ。そう言えたらきっと、大丈夫。
「そういうわけに行くかよ。もう夜中だし」
そう。あなたはそういう人だね。優しくて。言ってることは、いつも正しい。
その笑顔の向こうに、本当に思っていることに、なかなか近付けない。
どうしようもなく、遠い。
公園の前の道を、帰宅途中らしいおじさんが1人足早に過ぎる。
訝しげな一瞬の視線に、彼が舌打ちをする。
「なあ、もう困らせんなよ」
ここにいてなんて、言ってないのに。1人で帰るって、言ってるのに。
それでもあたしはきっと、あなたを困らせてる。
「……頼むからさ、もう……」
唇を噛む気配。立ち上がった影が、あたしの前に回りこむ。
「……これ以上、嫌いにさせんなよ」
笑いたいのか、泣きたいのか、分からない。
多分あたしは泣きたいんだ。でもどこかで、そのための回路がひとつ、外れてしまったんだ。
あたしはゆっくりと顔を上げて、つらそうに見下ろす瞳を見上げて笑った。
「……これ以上嫌いになりようがあるの?」
なんてイヤな台詞。拗ねて、いじけて、駄々をこねてる。
「そうじゃなくて。……嫌いになりたくないから言ってるんだ。
このままじゃ、ダメか? おまえのこと好きなままでいたら……」
何をバカなこと言ってるんだろう。好きなままでいられるなら、何も言わずにいたはずなのに。
「嫌いになんか、なりたくない。俺は――」
言いかける彼の目の前に片手を広げて、あたしは立ち上がった。
冷え切った体が、音を立てそうだ。
唇が震えているのは、きっと寒さのせい。
あなたは、そうね。こうして、いい思い出にしてしまえばそれでいい。
理由を捜して、ひとつひとつ拾い上げて、昇華させていくのは、あたし。
だから忙しいのよ。
これから家に帰って、たくさん泣かないと。
あなたがうやむやにしたことを拾い集めて、消していかないと。
「――分かった。帰る」
歩き出したあたしに、彼は黙ってついてきた。
緩い上り坂。おとなしい犬がいる家。
この道を何度も1人で通るのは、あたしなんだから。
明日から違う色に見えるこの町に、少しでも早く慣れなくちゃいけない。
いつもは、彼が少し前を歩いていた。
つないだ手を引っ張るように歩く彼の背中を見るのが、好きだった。
嫌いになってくれていい。思い出にしたいなら。
あなたを好きなままでいるあたしは、きっとあなたを忘れる。
いつか、きっと。
家の前で立ち止まったあたしに、彼が口を開きかけて、黙った。
「じゃあ」
あたしは笑って、片手を上げる。
「……じゃあ、な」
元気で、とか、またね、とか。
そんな言葉はいらないから。
あたしは振り向かずにドアを開け、背中でドアを閉めた。
そのまま座り込んでしまう。
慣れた部屋の空気に、あたしの体を覆っていた呪縛がとけた。
どうやっても出てこなかった涙が、あとからあとから溢れる。
これは、始まり。
いつかすべてをゼロにするまで、あたしの中の戦いは続く。
――さようならが、今日でした。
あと書きです。
えー、こちらは以前、出稼ぎ携帯サイト「book in
pocket」に掲載されていましたSSです。
名前すらない2人の短いお話ですね。
「別れの瞬間」というただそれだけのことですが、そこに見える景色を書いてみました。
長い人生、転ばない人はいません。
転んで、地面に這いつくばって見えるものは何だったでしょうか。
その時に見えたものを、自分の中でどう吸収していけばいいのでしょうか。
誰かに恋をして、2人で歩いていって、気持ちがすれ違って離れていく時。
それはどうしようもなく、自分と相手の中に生身の「人間」を見る瞬間じゃないかと思います。
ある意味では、戦いです。ライバルがいなくても、恋愛はバトルです。
そしてその戦いは決して無駄にはなりません。
勝ち負けを決めるのは結局自分ですから、勝とうと思えば勝てるんですよ(笑)。
この坂をひとつ乗り越えて、またひとつ成長できる。
そんな坂道であってほしいと思います。
お付き合い下さってどうもありがとうございました。
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