電話の向こうで、言葉を選ぶ気配がしている。
私は時計を見ながら、相手に気付かれないようにため息をついた。
「――じゃあ、今年は帰って来られないのね?」
遠慮がちな声が伝わる。
責める口調にならないように、それでも、もしかしたら責めるような言い方のほうが
母親としては自然なのかも知れない、そんなふうに迷っている声だった。
「ごめんね。春頃には顔を出すから。お父さんにもそう言っておいてくれますか?」
ああ、つい敬語になってしまった。
それをごまかすように、慌てて付け加える。
「今年はほら、最初の年だから色々お付き合いもあって……。大丈夫、元気にしてるから」
「そう。そうね、早く会社に慣れたほうがいいものね」
「うん。あ、お義母さん、ごめんね、今日これからちょっと約束があるから」
おかあさん。
音にしたら同じはずなのに、その微妙なニュアンスは多分伝わってしまっている。
「ああそうなの、ごめんなさいね、長くなって。じゃあ、体に気を付けて」
「はい。よいお年をね」
なるべく楽しそうな声になるように、そう言って電話を切った。
――私を産んだ母は、高校2年の年に亡くなった。
病気がちな人で、1年入院したあとであっけなく逝ってしまった。
私が高校を卒業し、短大に入った年に、父は義母と再婚した。
やっぱり。
そう思ったけれど、言わずにおいた。
母が入院している時から、父に女の人がいるのは分かっていたから。
早晩そんな日が来るだろうとは思っていた。
卒業前であれば、地元の短大になんか行かなかった。
子供っぽいと笑われても、私は実家で暮らすことが息苦しかった。
義母は、悪い人じゃない。
とても気を遣ってくれる。痛々しいほどに。
そして私も、父も、気を遣ってしまっていると思う。
いけない、時間に遅れてしまう。
慌しく靴を履き、部屋を出て駅に向かった。
地下鉄の駅から歩いて10分ほど。
この小さな部屋が、ただひとつ私が私でいられる場所だった――今までは。
どうしてだろう。
無口で、無愛想で、抱えきれない傷を1人で背負ってきた彼。
自分の弱さや、得られるはずの幸福から、背を向けてきた人。
何も言わなくても、笑った顔が見られなくても、彼のまわりの空気が暖かいと思えるようになったのは。
いつから、私はこんなに彼が必要になってしまったんだろう。
階段を駆け降りて、その看板に気付いた。
『10時34分、当駅構内において人身事故が発生しました。
その為、上下線とも運転を見合わせております』
――事故――。
とっさに、彼の通るルートを考える。
大丈夫、地上を走る電車に乗って来るはず。
私は今降りたばかりの階段を登って、JRの駅まで急ぎながら彼女のことを思い出した。
あまりにも早く、あまりにも儚く、消えてしまったあなた。
『誰も代わりになんてなれない』
そう言いながら私は、少しでもあなた近づきたいと思っています。
彼が見つめていたあなたの笑顔に、少しづつでも。
JRの駅に着いて、ちょうどホームに入って来た電車に飛び乗る。
でも、30分は遅刻してしまうな。メールで知らせておかないと――。
携帯が、ない。
慌ててバッグの中を探るけど、いつものポケットにも、底のほうにも、入っていなかった。
さっき出て来た部屋の中を思い返す。
忘れそうになって、手に持って靴を履いて――玄関の、靴箱の上に置いてきた。
どうしよう。
私は腕時計が苦手で、いつも携帯を時計代わりにしている。
どこかに時間が分かるものはないかと、電車の窓から外を見るけど無駄だった。
これが、駅に着く前なら家まで取りに戻るのに。
ここから電車で引き返して携帯を取ってくるより、待ち合わせ場所まで行ったほうがいい。
それは分かっているけど――どこかの公衆電話から連絡できないかしら。
ダメ。彼の電話番号は携帯のメモリーに入っていて、頭で覚えていない。
とにかく急いで行くしかない。……帰ってしまうかも知れないけれど。
会社の帰りなどに、時々食事に誘ってくれることはあった。
でも、こんなふうに休みの日に待ち合わせて出かけるなんて初めてなのに。
泣きたくなってきた。
私はガラス越しに冬の空を見上げて、会ったこともない彼女に祈る。
――どうか、彼を怒らせてしまいませんように。
今日この日が、また少し距離を縮めるきっかけになってくれますように。
ごめんなさい。勝手なお願いです。
でも、あなたの笑顔が、私の目指す場所だから。
待ち合わせはコンコースの時計の下。
無情にも時計の針は、私が37分も遅刻したことを示していた。
駆け込んだ広場に、彼の姿はない。
やっぱり、怒って帰ってしまったんだ。
息を切らせて、それでもどこかに彼のいた形跡を探して、まわりを見渡す。
――いない。
当たり前だ。連絡もせずにこんなに遅れてしまったんだもの。
このまま帰って、彼に連絡して謝るしかない。
もう、地下鉄は復旧したかしら。
そう思って地下鉄の乗り場まで歩き、切符売り場に並ぶ。
改札には事故を知らせる看板が出ていたけれど、電車はもう動いているようだった。
財布を出そうとしてバッグを探っていた右手を、ふいに誰かがつかんだ。
「――上村さん!」
「良かった――ここにいたのか」
大きく息を吐いて、私の腕をひいて人混みを抜ける。
「ごめんなさい、携帯を忘れて来てしまって……」
「ああ、そうか。何度かけても出ないから。おまえの乗る駅だろ、事故があったの」
「そうです。それで、地下鉄が使えなくて遅れて――ごめんなさい」
「いや。なかなか来ないからこっちまで来て、事故があったって聞いて――。
家にも携帯にも通じないから、巻き込まれたんじゃないかと思って……」
そう言って、私の腕をつかんだ手に軽く力をこめた。
「……まさか、おまえまで――」
自分の発したその言葉に頬を打たれたように、彼の顔が一瞬痛みに歪む。
「……ごめん」
私は慌てて首を横に振った。何度も。
「ごめんなさい、心配かけて。……ありがとう」
笑おうとした。なのに、言葉の最後は涙に揺れてしまった。
彼が困った顔で私の腕を離し、しばらくためらったあとで背中を軽く叩いてくれた。
「良かった。無事で。――まあ、携帯忘れたのは、あとでお茶でも奢ってもらうから」
優しく笑ってくれた瞳に、私も微笑み返す。
きっと、あなたの笑顔には敵わない。
彼の中に住むあなたには、届かない。
それでも、ここで笑っていていいですか。
私の今いる場所で、私のままの笑顔で。
――誰も、代わりにはなれない。
私も、義母も。
自分にできるすべてで、この笑顔を守るしか、術がない。
「――行こうか。映画始まっちまうぞ」
「はい。……ねえ、年末は実家に帰るの?」
「そうだな……今年は帰ろうかと思ってる。おまえは?」
「――私も、帰ります」
映画が終わったら、義母の好きなお菓子をお土産に買おう。
そして、母の匂いの残るあの家で、たくさん話をしよう。
――私は、ここにいる。
ここから、歩き出す。
届かない場所からの、笑顔に応えて。
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