居酒屋というには少し洒落た感じの広い店に、20数名が集まっている。
薄暗く照明を落とした広い店の一角を借り切って、一日早いクリスマスソングをBGMに、
ほとんどがスーツ姿の一団はそこそこ盛り上がってくれていた。
「おーい幹事、飲み物追加ー」
「へいへい何でございましょうー」
待ち合わせの人数確認から始まって、僕と碧はみんなの世話に明け暮れていた。
ちょっとイタリアンの入った料理と、種類の豊富なカクテルで女の子に人気のあるこの店は、琴子が僕に教えてくれた。
モノトーンのインテリアに、落ち着いた照明。ところどころに置かれた花のアレンジに、スポットライトが当たっている。
団体用のブースの他はカウンターや小さいテーブル席で、静かに女の子と話すのに向いていそうな感じだ。
『誰を連れて来ようか、考えてるんでしょ』そう言って笑いながら僕を睨んだ琴子の顔が浮かぶ。
そんなことを言いながら、琴子はいつも僕の『次の彼女』を頭に置いているようだった。
選ぶ服、軽い煙草、僕に似合う髪形。
人に対するものの言い方。問題にぶつかった時の考え方。
僕の中に残る琴子のカケラは、今でも僕をあの頃と同じ色に染めていた。
――もう二度と、関わることなどないと知っていても。
「お疲れ」
明るい声とともに、僕のグラスが音を立てた。
テーブルに置かれたグラスと勝手に乾杯をした碧が、笑っている。
「ああ、お疲れ」
そう言い返してグラスを取り上げ、碧のグラスと合わせる。
「そっちは、会計済んだ?」
そう言われて僕は、膝に置いたバッグの中から封筒を取り出した。
「えー、男子が俺も入れて14人な。ほい、OK。人数分あるよ」
「じゃ、こっちは女子8名ね。よろしく」
受け取った封筒の中身を合わせて、バッグに戻す。
あとの追加分は個人で支払うことになっていたから、帰りにこれをレジに出せば済む。
「みんな、割りと静かだね」
「そうだな。久しぶりに会ったからって、はしゃぐような年でもないだろ」
「いやあねぇ。いきなりおっさんになっちゃって」
「とりあえず、まだハゲてないぞ。腹も出てないし」
「そう言ってるうちに、ビール腹になるのよね。おでこのあたりもヤバイわよ、爽平」
真顔で言われた台詞に、思わず生え際に手をやってしまった。
にやりと笑った碧が、再びその笑顔を消して僕の頭を見る。
「な、何だよ、そんなにヤバイか?」
「……じゃなくて、変わらないね」
「あ?」
「その髪型」
琴子と付き合うようになって、僕は髪を伸ばした。
中学高校と野球部にいた僕は、ほとんどスポーツ刈りがトレードマークだったから、
大学に入ってどんな髪型が似合うのか全然分からなかった。
長い方が似合うよ、と言ったのは琴子だ。
中途半端に耳にかかる長さの髪を、僕は無意識にかき上げた。
「あー……今さら変えるのも面倒だからな」
「そう?」
「……それよりおまえ、あれからどうした?」
声を落としていった言葉に、グラスを弄んでいた碧の手が止まる。
「あれからって?」
「もう、落ち着いた」
「――うん、まあ、ね」
「でもさ」
僕は、なんとかして碧を元気づけたかった。
岡田のことを忘れろとは言わないけれど、終わったことが確実なら、早く吹っ切って元気になってほしかった。
あの笑顔に、会いたいと思った。
「落ち込むくらいに人を好きになれたのは、いいことなんじゃないか?
――何にしろ、何かの感情を持つのは悪いことじゃない。いつか、それが何かのエネルギーになるもんでさ。
今は落ち込んでも、悩んでも、いろいろ考える時間があって良かったと思える時が来るっていうか……」
うまく話せている自信はなかった。
それでも、少なくとも、僕の気持ちは伝わっていると思っていた。
なのに、顔を上げた僕を見る碧の瞳は、今にも泣き出しそうだった。
「……碧?」
「それ、琴子さんに言われたことだね」
「――え?」
「そうだよ。爽平が就職のことで親と揉めてさ、自分の思い通りにならなくて悔しいって話したら、
彼女がそう言ってくれたって、嬉しそうに話してたじゃない」
「え、そ、……そうだっけ」
「……やっぱり、そうなんだね」
うろたえて視線を泳がせる僕から目をそらして、テーブルのグラスを見つめる。
「爽平の中には、琴子さんがいる。それは、ずっと消えないんだね」
「……そんなことは……」
思わず、テーブルの上の煙草に手を伸ばしていた。
一瞬早く、碧がその白い箱を手に取る。
「これもそう。琴子さんに言われたからでしょ。あのスーツも、髪型も、考え方も――。
爽平は、ずっと、琴子さんのものなんだ」
「――関係ねぇよ」
思いがけず、低い声が出た。
碧が顔を上げる気配を左側で感じながら、僕は碧の手から煙草の箱を取り返した。
「俺は俺だ。琴子のことは、関係ない。――俺がどんな考え方でも、どんな好みでも――
おまえにも、関係のないことだろ」
誰が、こんな冷たい台詞を言っているんだろう。
どうして、怒ったように目を合わせずに、こんなことを言っているんだろう。
『忘れないよ』
琴子の声が聞こえる。
『そーちゃんはきっと、私を忘れる時が来る。それでいいの。でも、私は、忘れない』
いっそのこと、全部忘れると言ってほしかった。
はっきり、さよならを、言えたなら良かった。
今、どこで何をしているのかも知らない。
――彼女の現在を知るのが、怖かった。
どこかで元気に暮らしている。仕事をして。友達と笑い合って。――僕の知らない、誰かの腕に抱かれて。
「分かった」
碧がテーブルに手をついて、立ち上がった。
そのまま、店を出ていく。
――僕は、またつまらない意地を張ったことにすら、気付かずにいた。
カウントダウンが終る。
自分の部屋のテレビ画面に新年を祝う花火が上がるのを、ぼんやりと眺めていた。
実家には帰らなかった。
たいして遠くもないし、正月休み中に一度顔を出せばいいだろう。
家族や親戚とにぎやかに過ごすよりも、今年はこうやって1人でいたい。
きっと、寂しいのには違いない。
だからこそこうして1人で過ごす一週間で、何かを切り替えたいと思っていた。
あれから、碧とは連絡を取っていない。
あいつははっきりしたやつだから、いつまでも琴子のことを引きずって煮え切らない僕が、腹立たしいのだろう。
何度か電話をかけようとして、やめた。
何をどう言えばいいのかなんて、分からなかった。
誰かにバカにされても、情けないと笑われても、僕の中に琴子がいることは、僕の誇りだったはずだ。
彼女がいいと思う人間になること、どこかに、彼女の匂いを残すことが、僕の存在を決定付けていた。
琴子じゃない誰かの言うことなんて、何の意味も持たなかったんだ。
それなのに。
碧の瞳の色が、僕を責める。
泣き出すのを堪えるような笑顔が、消えない。
あいつには岡田がいて、僕には琴子がいて、それで良かった。
友達として笑い合えることで、充分だった。
――もう、あの頃とは違う――。
僕も、琴子も、岡田も、――碧も。
忘れてくれ、琴子。
僕の中の君は消さない。教えてくれた優しい時間は、消えない。
それでも僕は――君を忘れるから。
君がすべてだった、君しかいらなかった自分を、忘れるから。
どこかで、幸せでいてくれたら、それでいい。
空になった煙草の箱を握り潰した僕は、部屋の隅に向かって放り投げた。
年明け最初の営業をしていた床屋を出て、その足で碧の家に向かった。
何を話すか、まとまりゃしない。
でも、あの笑顔をつなぎ止める努力はしなきゃいけない。
あの頃とは違う僕らは、意地を張ってもすぐに会えるわけじゃないから。
笑い合える時間は、大事にしたいから。
携帯を取り出してかけようとした時、家から出てくる碧と目が合った。
「……爽平?」
「よお」
「何してんの。って……ああっ!」
「な、何だよ」
「その頭……」
分かってる。
やり過ぎたとは思ったんだ。床屋のオヤジに何度も『これでいいんですか?』と訊かれた。
まるで高校球児のような5分刈りの頭を指差して、碧は固まっていた。
と、思う間もなく、弾けるように笑い出す。
「そんなにおかしいか?」
「や、だって、それじゃまるで……」
「高校生みたいだって言うんだろ? いいんだよ。こうしたかったんだから」
ひとしきり笑ったあとで、背伸びをした碧が僕の頭を撫でる。
「あははは、芝生みたーい」
「うるせぇ、触んなよ」
中身まで高校生に戻ってしまったような会話に、2人同時に吹き出す。
「ねえ、爽平」
「ん?」
「どうしてここに来たの」
「……どうしてって……」
うまくごまかす言葉を探している僕がいた。それを押さえ付けて、僕はひとつ息を吸い込む。
「おまえを怒らせるつもりはなかった。……彼女のことは、とっくに終ってて、そんなのは俺も分かってて……。
でも、何もなかったことにする気はないから、俺の中にある彼女は消えないから」
そこまで言った僕を見つめる碧の瞳は――優しかった。
「消すことはないけど、忘れる。大事だとは思うけど、こだわらない。
そこから始めようと思って――それを、言いに来た」
言い終えた僕の胸を、碧の小さなコブシが叩く。
「――おまえ、いちいち殴らなきゃ話もできんのか」
軽くむせながら言った僕を、碧は頬を膨らませて睨んだ。
「このくらいいいでしょ、ずっと待ってたんだから」
「……何を」
「爽平が、顔を上げてくれるのを。言っとくけど、あたしが落ち込んでたのはあんたのせいよ。
岡田君とは、卒業する前に終ってたんだから」
「――はあ?」
「気付かれちゃったんだからしょうがないわ。あたしは、高校の時から爽平しか見てなかった。
岡田君のことは好きだったけど――どうしても、爽平でなきゃダメだった。だから、別れたの」
「――いつ」
「就職が決まる頃かな。爽平が琴子さんに夢中になってる頃よ」
「じゃなくて、おまえ、いつから俺のこと――」
「最初に会った時からよ。高校に入って、同じクラスになった時からずっとよ。どうだ、参ったか」
何故か偉そうに言って胸を張る碧の瞳が、揺れていた。
「――参った。……ゴメン」
そう言って笑う僕の髪を、碧が洗髪でもするみたいにがしがし撫でる。
「ねえこれ、ちょっと色明るくするとかしたら? 少しは高校生っぽくならないかもよ」
「……そうか。会社でヤバくない程度に染めるかな」
「あんたほんと、素直過ぎ」
今度は脇腹にパンチが入った。
――この笑顔を手に入れるために、僕は腹筋を鍛える必要があるかも知れない。
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