同窓会まであと1週間という夜、僕は碧からの電話を待っていた。
店も決まり、待ち合わせの予定もみんなに連絡し、あとは当日の集金のことだとか、
細かい打ち合わせをするから電話しろと言っておいたのだ。
土曜日の夜とはいえ、10時を過ぎている。
僕はしびれを切らして碧の携帯の番号を押した。
「――もしもし?」
『はい』
「……碧?」
『うん』
「何だよー、電話しろって言ったじゃんか。今、忙しい?」
『ううん。ごめん、寝てた』
「早ぇよ。どうする、かけ直すか」
『ん、いや、いいよ。ごめん。大丈夫』
あまり大丈夫には聞こえない。
「――なあ――泣いてたのか?」
『え。……なんで』
「そんな気がする。何かあったんなら、やっぱかけ直すわ」
『もー、どーしてあんたって』
碧の声が、少し明るくなった気がした。
笑っているのか泣いているのか分からない。
『案外鋭いと思うと、やっぱり鈍いのね。何かあったんなら聞こうかとか、言えないの』
「……何かあったんなら聞こうか」
『棒読みー』
「うるせぇな。話したいなら話せよ。聞いてやるから」
『偉そうー』
「ああもう、いいよ。聞かねぇよ。じゃあな」
『あー、うそうそ、ごめんってば』
「何なんだよ、おめぇはよ」
『爽平、今1人?』
「……1人だよ」
『女の子とか、連れ込んでないよね』
「連れ込む、とか言うな。そんなアテもございません。悪かったな」
『じゃ、今から行っていい?』
「はぁ?」
碧が部屋に来たことくらいはある。僕らが大学に入って、僕の実家が通学に不便だったから家を出て、
何ヶ月かに一度は遊びに来ていた。
大概他の友達と一緒だったし、碧1人で来た時は昼間の短い時間だったけど――。
「……こんな時間にか?」
『別に、襲おうなんて思ってないでしょ』
思ってるとでも言えればいいのかも知れない。
「んなわけねぇだろ」
『ならいいじゃん。話聞いてくれんじゃないの?』
「まあ……いいけどさ。じゃあ、駅に着いたら電話しろよ」
『うん。帰りは車で送ってね』
「……へいへい」
泊まっていく気はないらしい。当たり前か。
くだらない独り言に苦笑して、風呂のスイッチを切ると、台所でお湯を沸かす。
狭い部屋の空気が、急に暖かくなったような気がした。
ほんの10分ほどで電話が鳴り、僕は慌てて最寄の駅に走った。
「碧!」
「よ、ご苦労」
「何だよ、早いな。家にいたんじゃないのか」
「うん。外にいた」
「おまえ、寝てたとか言ってなかったか」
「そうだっけ? まあいいじゃん、細かいことは」
そう言うと、先に立って歩いて行く。
5分も歩けば僕のアパートだ。やけに早足で歩く碧に追い付きながら、突然部屋に来ると言った理由を考えていた。
部屋の鍵を開けて、玄関の灯りを点けた時に、それを思い付く。
「ああ、そうか」
「……何よ?」
靴を脱いで上がりながら、碧が怪訝そうに僕を見上げる。
「岡田のとこで寝てたんだな?」
言った途端、腹にパンチが入った。
「……ってー……おまえ、マジで痛ぇよ」
「元テニス部ですから。スナップには自信があるの」
「手加減しろっての……」
呟きながら紅茶を淹れて、ベッドを背もたれ代わりに座った碧の前のテーブルに置く。
大学で同じゼミにいた岡田俊哉と、碧が付き合っていることを知ったのは3年の時だった。
その頃僕は、サークルの先輩である琴子に夢中で、その話を聞いてもなんとも思わなかった。
僕が琴子と付き合って、少しづつ距離ができて、その間も碧と岡田は続いていたらしい。
隣の駅の近くに住む岡田の部屋には、僕も何度か遊びに行っていた。
――そこから来たなら、こんなにすぐに着いたのも納得いくんだけど。
「で、何があったのさ」
「……別に」
「正直に言えって。岡田とケンカでもしたんだろ? で、泣きながら出て来た、と。
あいつ心配してんじゃないか? 俺が電話してやろうか」
「――ちょっと待てっての」
黙って紅茶を飲んでいた碧が、ため息と一緒にそう言う。
「そんなんじゃないわよ。第一、」
言いかけて黙り、カップをテーブルに置く。
「彼とは、もうダメだから」
「……え……そうなのか?」
「うん。……多分」
「多分、て何だよ。まだ別れてないんだろ? ちゃんと話し合えよ」
「……ふーん」
どこか虚ろだった碧の瞳が、意地悪そうな光を帯びる。
冷たく見える色の中に、どこか熱を持っているような感じがして、何故か、とても綺麗に見えた。
その瞳に捕らわれて動けない僕を嘲笑うように、唇の端を上げる。
「爽平が、そういうこと言うんだ。結局琴子さんとはどうなってるわけ?
ちゃんとはっきり別れるって話したの? 彼女から連絡が来なくなってそれっきりなんて、それでいいの?」
矢継ぎ早に僕を責めた碧の瞳の色が、すっと醒める。
「……だからさ、そんな簡単なものじゃないでしょ。……話し合えるなら、何も……」
そこまで言って、碧が声を詰まらせた。
見る見るうちに、瞳の中に涙の膜が張り詰めていく。
「お、おい」
「……ごめん。爽平には関係ないのにね。まあ、そんなわけで……ダメだから」
「――悪い、変なこと訊いて」
「ううん。それで慰めてくれようとしたわけでしょ。大丈夫。もう、平気だから」
感情のこもっていない平坦な台詞は、およそ碧らしくなかった。
いつでも明るくて、無邪気で、その笑顔はいつも、僕のエネルギーになった。
くだらない冗談に笑う時、学校の行事で遅くまで話し合う時、ふと視線が合った時の碧の瞳に、僕は救われていた。
友達のことや進路のことで悩んだり、好きな子ができたり、そんな変化の中で、
いつも隣にいて笑ってくれる碧だけは、変わらずに僕の中に存在していたんだ。
――もう、あの頃とは違う。
無邪気なだけの恋愛なんてできないだろう。一晩寝れば忘れるような悩みなんてないだろう。
だから、その哀しい顔も、今の碧のもので。
なのに、碧がそんな顔をしていることが、僕はたまらなくつらかった。
僕の知らない碧が、ここにいることが。
「――俺、岡田と話してみようか」
ふと口をついて出た言葉に、碧が慌てて顔を上げた。
「何言ってんのよ。そんな必要ないって。――別に、あたしが一方的に振られたとかいうんじゃないし。
彼が悪いわけでもないわよ。そんなことしないで」
「……うん」
岡田を責めるつもりはなかった。本人同士の問題に、僕が入れるものじゃない。
――でも、碧の瞳からあの笑顔を奪った岡田の存在が不快だった。
なんて、身勝手な話だろう。
「……ごめんね。なんとなく落ち込んでただけ。話したらすっきりしたから」
そんなふうに無理をした笑顔も、僕が欲しいものとは違うのに。
「いや、いいよ。まあ、元気出せよな――そろそろ帰らないとまずいだろ。送るよ」
そして僕はやっぱり、笑ってこう言うことしかできないんだ。
車で碧の家まで、30分もあれば着く。
僕はその間、彼女にかける言葉をずっと探していた。
同窓会の話をしながら、車は夜の空いた道を走って行く。
――岡田からは、欠席の葉書が届いていた。
だから、気にせず楽しもうなんてこと、言えるはずもなかった。
あの角を曲がれば、碧の家に着く。
気の利いた台詞なんて言えない。あの頃のように、僕の隣で笑っていてほしいなんて勝手なことも言えない。
あいつと、別れたからって。
僕は軽く頭を振って、その考えを追い払った。
社会人になって、急に1人になって、最初の冬は思いがけない冷たさを運んで来た。
毎日バカな話に笑い転げていた友達にも、滅多に会うことはない。
夢中で追いかけていたあの柔らかな笑顔にも、二度と会うことはない。
それが、今隣にいる碧の優しさを求める理由になるなんて、ただの甘えだ。
――僕は、何も言えないまま、角を曲がって車を停めた。
「ありがと」
「え?」
「送ってくれて」
「ああ、いや。……家、大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。じゃ」
笑ってドアを開けようとした碧の視線を捕まえる。
「あ、あのさ」
「……何?」
「えー……元気、出せよ」
「分かったってば」
「まあ、ほら、やっぱ次の男見つけるとかさ」
そう言った僕の顔を、碧の瞳が見据える。――どこか、哀しげな色をして。
「例えば――俺にしとくとか、さ」
「………」
何を言い出す気なんだろう。怒ったような泣きたいような碧の瞳に、ものすごく悪いことをした気分になる。
「いや、冗談だって、怒るなよ――悪かった」
「そうだね」
囁くように掠れた声で、碧が呟いた。
「それが一番いいのかも知れない」
顔を上げた碧の表情が、途端に和らいだものになる。僕は――動けなかった。
「なんて、ね」
「は?」
「こっちも冗談だから、安心して。じゃ、今日はありがと。来週、よろしくね」
それだけ言うと、僕の二の腕のあたりに軽くパンチを入れて、車を降りた。
――碧の笑顔の代わりに、後悔と自己嫌悪とを隣に乗せた僕は、そのまま車を出した。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||