クローゼットの扉に手をかけたまま、僕は5分ほど迷っていたらしい。
点けっ放しのテレビの右上に表示されたデジタル時計の時刻が、7:48になったのに気付いてひとつ舌打ちをする。
結局、ダークグレイや茶系に混じってそこにある、明るいオリーブグリーンのスーツを取り出した。
それは、あいつへのつまらない意地なのかも知れない。
半年ぶりに会う同級生は、このスーツの意味を知っている。
もう、あの頃とは違うということを証明するために、僕はブルーのネクタイを選んだ。
12月に入って、風はその冷たさを増している。
夕方6時を過ぎた街は、すっかり夜の華やかさを手に入れていた。
黒い皮のコートの前をしっかりと合わせて、マフラーを巻いていない首をすくめるようにして、
待ち合わせの店のドアを開ける。
白木の明るい店内は、すでにクリスマス一色だった。
レジの横の大きなツリーは赤や金のリボンで飾られ、あちこちに豆電球が点滅している。
その一番奥のテーブルで、グレーのスーツの彼女が片手を上げた。
「よ」
「おう」
エアコンの暖かい空気に息をついて、コートの前を開けながら向かいの席に座る。
現れたスーツの色に、彼女が鼻の頭にしわを寄せた。
「何だよ?」
「別に」
互いにすました顔をして、僕はコーヒーを注文する。
「相変わらず新入社員みたいなカッコしてんなあ、碧」
「新入社員ですから。爽平は何? 季節逆行してんじゃないの?」
「いや、この季節だからこそこういう色をだな。――俺も新人ですから、名前のとおり爽やかに行こうかと」
「どこへでも行って。はい、これ女子の分の葉書ね」
「お、ご苦労」
僕はそう言うと、10枚にも満たない葉書の束を受け取った。
「何だ、これしか来ないの? 冷たいなあ、女子は」
「こんな時期にやるほうが間違ってるの。地元に帰ったコも多いし、こっちで就職してたって、帰省しちゃうでしょ」
「忘年会兼ねてやれたらいいと思ったんだけどな」
「それこそ、会社の忘年会のほうが大事でしょ。みんな新人なんだから」
「だったら最初からそう言えよ」
12月の23日に、この春卒業した仲間との同窓会を計画していた。
どういうわけか、高校に入学した時からくされ縁のこいつ――早坂碧と、僕、滝本爽平が幹事になってしまったから。
いくらなんでも会社まで一緒のはずもなく、卒業して以来ほとんど連絡を取っていなかった同級生に、
碧は開口一番『ああ、何?』と冷たく言ってくれた。
忙しかったのか、何かイヤなことでもあったのか、最初の同窓会の日時などを相談する僕に、
まかせるから適当に決めて、と言ったのはそっちじゃなかったのか。
それを思い出したのか、僕がテーブルに放り投げた男子の参加葉書を手に取って、僕を見上げた。
「……ま、今回はこれで行こうか」
「どこにでも行けよ」
言い返した僕の足を蹴飛ばして、アヒルみたいに口を尖らせてから笑った。
高校生の時と変わらないその笑顔に、僕は片頬だけで笑い返した。
「じゃあな」
「ん」
地下鉄で帰る碧と別れた僕は、自分の乗る路線のホームに向かって歩き出した。
切符を買って改札を抜ける僕の耳に、聞こえるはずのない声が蘇る。
『そーちゃん!』
僕は思わず足を止め、振り返って苦笑した。
――そんなはずはないのに。
あの頃の僕には、掃いて捨てるほどの時間があった。
そして彼女は就職が決まって、卒業に向けて慌しい日々を過ごしていた。
だから僕は、一緒に過ごすその時間が自分にとって貴重なものだということを示すために、
必要以上に早足で駆け抜けていたように思う。
待ち合わせの場所から目的地まで電車で移動する時など、こんなふうに急ぎ足で改札を抜けた。
僕だって忙しいんだと、この時間を無駄にしたくないんだと。
なんて、バカな意地を張っていたんだろう。
財布を出そうとする彼女を無視して二人分の切符を買い、先に立って歩く僕に彼女は走って追い付いてきた。
『そーちゃんってば! もうちょっとゆっくり歩いてよ』
僕はたった今気が付いたというように『ああ、悪い』とだけ答えた。
彼女のほうを振り向きもせずに。
――混んだ電車の中で、コートの下のスーツの襟を無意識に掴む。
このスーツを、選んでくれた時の笑顔が浮かぶ。
僕の就職が決まって、2着目のスーツを作る時に、彼女は一緒に行くと言い出した。
たった1年早く生まれて、たった1年早く社会人になった彼女が、その時ますます遠くなった気がした。
ひとつくらいこんな色のスーツがあるといいよと、自分ではまず選ばないような色を選んだ。
それすらも、社会に出ている彼女の、僕とは違う視点のような気がして少し哀しくなった。
ベージュを基調にしたネクタイを合わせて『そーちゃんも、もう大人だね』などとふざけたように言っていた。
琴子。
僕より先に卒業したあの日から少しづつ距離を置いていったのは、君の優しさだったのかも知れない。
スーツを選んで、卒業祝いにとネクタイを買ってくれて――それから、会うこともない。
1人きりのアパートは、冬になるとなおさら寒さが身に染みる。
待っている家族がいること、部屋に灯りが点いていることのありがたさを実感している僕は、やっぱり少し寂しいんだろう。
仕事にもだいぶ慣れてきた。
まだまだ、自分の判断で行動できることなどたかが知れているし、仕事が面白いと思える日は遠そうだけれど。
会社の中でどこに自分の身を置いたらいいのか分からないような心細さは、薄れてきたように思う。
暖房が回って風呂が沸くのを待つ間、部屋着に着替えた僕は煙草を取り出した。
白いパッケージに、ふと指を止める。
琴子と付き合う前は、もっときつい煙草を吸っていた。
体に悪いから止めなよ、という琴子に、なんだかんだと理由をつけて止めずにいた。
――簡単に言うことを聞く男だと、思われたくなかったから。
そんな僕に琴子が出した折衷案がこれだ。
タールが1mgという軽い煙草。最初はひどく物足りなくて、却って本数が増えてしまった。
なのに、今になってもこの明るい色のパッケージをポケットに入れていることや、
2日で一箱という約束をきっちり守っていること。
――結局、僕は。
爽平はね、琴子さんの影を追ってばかりなのよ。
碧がそう言ったのは、就職して2ヶ月ほどたった頃だ。
初夏という季節に合うような気がして、僕はあのスーツを着て碧に会った。
長い付き合いで、どちらからともなく連絡は取り合っていたから、近況報告に食事でもしようということになったのだ。
見慣れないスーツ姿で、長かった髪を短く切った碧に、少なからず緊張した。
学生の頃は時々思い出したようにしていた化粧も自然にできるようになっていて、急に大人に見えた。
『綺麗になったな』などという台詞をさらりと言える僕なら、こうやって週末の部屋を1人で暖めることもないわけだけど。
言いたくて言えない台詞を飲み込んだ僕に、碧は笑って、そのスーツいいね、と言ってくれた。
僕は琴子のことを褒められたような気がして、彼女が選んでくれたことを話した。
よっぽど嬉しそうな顔をしていたんだろうか。
頭の上から足の先まで、僕の体に視線を走らせた碧は、ため息をついてそう言った。
琴子さんの影、か。
碧に言わせれば、それは本当の琴子とは少し違うらしい。
僕が見てきた、想い描いてきた彼女の影。
その話をしてから、碧はなんとなく不機嫌になった。
たまに電話をしても、昔ほどは話が弾まない。
そんなふうにして半年。僕は碧と話すきっかけがほしいのもあって、同窓会の日取りを決めた。
――あいつは、なんであんなにいつも不機嫌なんだろう。
そして僕は、どうしてその機嫌の悪い顔が、合間に覗く無邪気な笑顔が、気になるんだろう。
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