何度か鏡で自分の顔をチェックして、やっと店の中に戻った。
女性2人と男性1人のお客は楽しそうに談笑していて、その前にはすでに3人分のグラスが並んでいた。
ミックスナッツの用意をしていた野上さんが、あたしの顔を見て黙って頷く。
カウンターの桐谷さんがにっこり笑って手を振ってくれた。
「……大丈夫?」
グラスを磨くあたしに、桐谷さんが小声で訊いてくれる。あたしは笑って、すみません、と呟いた。
「しおちゃん」
「はい」
「クラッカーとチーズ、出しといて」
「はい」
いつものように、変わりなく、仕事を進める。
「……さあて、んじゃ、俺はそろそろ行くかな、と」
桐谷さんが席を立って、水割りの代金をあたしに渡した。
「ごめんね、余計なこと言って」
「……いえ、すみません、大丈夫です」
「あいつも自分で鋭いと思ってるわりに鈍いから……おっと」
野上さんの視線に気付いてニヤリと笑うと、急に真顔になった。
「良」
「……分かってるって」
「ならばヨシ。じゃ、しおちゃん、またね」
桐谷さんが帰ってしまうと、あとはまた完全に仕事モードになった。
余計なことは話さず、互いの持ち場をこなしていく。
そのうち店長が来て、お客も増えて来て、遅番の中津さんと入れ違いに、
あたしはバイトを上がる時間になった。
ここからあたしの部屋まで、バスなら10分くらい。
でもこの時間には動いてないから、いつも歩いて帰ってしまう。
広い通りがほとんどだから、危ないこともないし。
ずっと押さえ込んでいた自分の中の声を、呼び出してみる。
野上さんが、行ってしまう。あの店をやめてイギリスに行って、日本に帰って来たら就職して。
もう、会えないのかも知れない。
自分がこんなにショックを受けているのが、意外だった。
ちょっとカッコいいな、とか、笑った顔が見たいな、とか、その程度だった。
好きだとか嫌いだとか、そんなつもりじゃなかったのに。
でも、しおちゃん、と呼んでくれるようになった時。桐谷さんと話す自然な顔が見られる時。
あたしは、とても嬉しかった。
それが、彼を好きだということなんだろうか。
だから、泣いたりしたんだろうか。
後ろから、走る足音が聞こえた。なんとなく振り向いたあたしは、そのまま足を止める。
「……よ。お疲れ」
「の、野上さん?」
軽く息を切らした野上さんは、お店の制服の上に私服のブルゾンを羽織っている。
「どうしたんですか?」
「いや、休憩。ちょうど空いてきたから。……そこまで送るよ」
「でも……」
「大丈夫」
そう言うと、少し先に立って歩き始めた。
あたしは急いで歩調を速め、彼に並んで歩く。
「しおちゃん」
「……はい」
「……ごめんな、驚かせて」
「あ、いえ、あたしが勝手に……ごめんなさい、泣くつもりなんてなかったんですけど……」
「うん。びっくりした」
「……ですよね」
苦笑して、しばらくは黙って歩く。
少し長めの彼の髪が、夜風に煽られて揺れた。
茶色がかった瞳の色。いつか、その瞳が優しく細められるのを、見たいと思っていた。
――もう、きっと、かなわないことだけど。
「……あのさ」
「はい」
「俺、向こうには1年くらい行ってるし、戻ったらいい加減に就職しないとならないけど
……別に消えるわけじゃないから」
「……え?」
「だから、消えてなくなるつもりは今のところないから……えー……」
すごく言いづらそうに頭を掻くと、歩調を緩めてあたしを見下ろした。
「たまには店にも行くし。……すぐ、帰ってくるから」
「……はい」
また、泣きたくなってきた。どうしたんだろう。あたしは、こんなに泣き虫だったんだろうか。
「で、まあ、これは蓮のヤツに言われて気付いたんだけど……しおちゃん」
「はい」
「俺が、他人を……特に女の子を名前で呼ぶってのは、なんか、珍しいことらしい」
「は?」
「しおちゃんを最初にしおちゃんて呼んだのも俺らしいし……なんだか、つい呼んじまったんだけど」
「……嬉しかったです」
「あー……そう?」
「はい」
「うん、まあ、だから……帰ってくるから」
「はい」
他に何も言えない。嬉しくて。口を開けばその温かさが逃げて行きそうで。
上着のポケットを探っていた野上さんが、何か小さな箱を取り出した。
煙草かと思ったら、それは、チョコレートだった。
「あ、食う?」
「……はい」
金色の紙に包まれた1粒をあたしの手に乗せ、自分でも1つ取って口に運ぶ。
「いや、ちょっと疲れた時とかさ、気分転換にちょうどいいんだよ。俺、酒も煙草もダメだし」
「あ、そうなんですか」
「うん。客が吸うのは仕方ないけど、あそこの仕事で一番イヤなのが煙だな。酒は作るだけだからいい」
あたしも包み紙を剥いて、チョコレートを口に入れた。
ゆっくりと溶け出してくる甘みに、自然に頬が緩む。
野上さんが甘い物を好きだなんて、すごく意外だった。
「……おかしいか?」
「え、いえ、そんな……」
あたしはつい、笑い出してしまう。
「……おかしいんだな」
「ご、ごめんなさい、ちょっと意外なだけで、ええ」
「いいよ、笑えよ」
ムッとした顔をしていた野上さんが、いきなり吹き出した。そのまま声を抑えて笑い出す。
ああもう、今日はびっくりすることばかり。
並んで歩きながら、2人で笑えるなんて。
あんなに見たいと思っていた彼の笑顔を見た途端、どうしようもなく泣きたくなるなんて。
「……とりあえず、今度メシでも食いに行くか」
「はい」
頷いたあたしは、きっと笑えていたと思う。
「じゃあ、食事のあとはケーキのおいしい所に行きましょう。あたし、奢りますから」
一瞬顔をしかめた彼が、笑って頷いた。
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