銀色のシェーカーを振る彼の手に、いつも見とれてしまう。
何を考えているのか分からない無表情。
『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』の時だけ微かに上がる口の端。
一度くらい、思い切り笑った顔が見てみたいなあ、と、思う。
カウンターにいるのは、30代くらいのカップルが1組。
彼女の前に置かれたグラスに、彼がシェーカーから淡いブルーの液体を注ぐ。
「お待たせしました」
コースターを指で押すようにしてグラスを少し前に出すと、彼女が目を上げて微笑んだ。
それに合わせて軽く頭を下げると、無表情のままレモンをスライスし始める。
「……しおちゃん」
「あ、はい」
小声で呼びかけられて、あたしは思わず背中を伸ばした。
「もうすぐ7時だから、在庫チェックして」
「はい」
材料の発注を出す時間だ。あたしはメモを手に、お酒や野菜などの残りをチェックする。
大学に入って1人暮らしを始めて、この店でバイトをするようになって半年が経つ。
授業が終る夕方から夜10時頃まで、週に3日。
店長が出てくる8時までの3〜4時間は、いつも野上さんと2人だ。
でも、休憩も交代で取るし、帰りも一緒にならないからゆっくり話をすることもできない。
半年経ってようやくあたしは、松田さんから史織ちゃんになり、
いつの間にか、しおちゃんと呼んでもらえるようになった。
今では店長も、もう1人のバイトの中津さんも『しおちゃん』と呼ぶけれど、
最初にそう呼んだのは野上さんだったと思う。
これは、すごいことなんじゃないだろうか。
と言ってもあたしのほうは、彼のタイムカードを見て下の名前が『良』ということを知ったけど、
なかなかそうは呼べない。
――いつか、史織、って呼んでくれる時が来たら、呼べるのかな。
カウンターの下にしゃがんでそんなことを考えていると、野上さんが冷たく見下ろして言った。
「時間。発注」
「はいっ」
あたしは慌ててカウンターの奥へ行き、発注のメールを送信した。
ほんとに、いつになったら、彼の素顔に触れることができるんだろう。
カウンターのカップルが席を立つと、また2人きりになってしまった。
店長が来るまで1時間もない。何か話くらいできないかな。
この半年で彼から聞き出せたのは、彼が『自称』フリーターだということ。
なんとなくフラフラしているうちにここの仕事が気に入ったからと、結構前から働いているらしい。
それだけ。
肝心の『彼女』の有無だとか、そういうことは聞けてない。
そっちに話を持っていこうとすると、はぐらかされてしまうし――。
レジで釣銭のチェックをしている野上さんを時々見ながら、拭き掃除をする。
何か言おうかと口を開きかけた時、入り口のドアが音を立てて開いた。
「呼〜ばれて飛び出て〜」
「……呼んでねぇ」
入ってきた人を見て、野上さんが顔をしかめる。
「あれ、2人だけ? おジャマ?」
「ああ、ジャマジャマ。客じゃないヤツは、邪魔」
「いやん、良ちゃん意地悪。客ですよ、客」
明るく登場した男の人は、桐谷さん。
前にちょっとここでバイトしてたことがあって、その頃は特に親しくなかったんだけど、
ある日フラっと店に遊びに来て、再会した野上さんと意気投合したらしい。
年は野上さんより3つ下の22歳。ここから電車で2駅のところにある会社に勤めている。
で、野上さんと同じ年の彼女がいて、半分一緒に暮らしてるようなものだ、と。
……あたしからは何も聞いてないんだけど、桐谷さんが自分からみんな話してくれた。あっけらかんと。
「しおちゃん、俺、水割り。ダブルね」
「俺に言え、俺に。こいつは雑用担当」
「えー。俺、メイドインしおちゃんがいいー」
あたしは笑って、水割りの用意をする。
凝ったカクテルは野上さんや店長にまかせるけど、このくらいはあたしにも作れるし。
「蓮、何か食うか」
野上さんが冷蔵庫を開けながら言う。
少なくともあたしは、彼が自分から声をかけたり、
こんなにたくさん話すのは桐谷さんに対してしか見たことがない。
「いや。もうちょっとしたら、あいつ帰って来るし」
素直に嬉しそうな桐谷さんの言葉に、野上さんが肩をすくめて天井を見上げた。
そんなしぐさも、桐谷さんがいる時にしか見られないので少し嬉しい。
水割りのグラスの中身が半分に減ったところで、桐谷さんが思い出したように言った。
「そうだ、良、おまえ今度いつ行くの」
「あー……来月には発てるかな。とりあえず手続きは済んだし」
「どのくらい行ってんの」
「さあ。今度はそんなに長くないと思う。向こうで残した単位を……」
そこまで言った野上さんが、あたしに気付いたように黙る。
あたしは曖昧に笑って、カウンターの奥に向かった。
「え、何、しおちゃんに話してないの?」
「……別に話すようなことじゃないだろ」
「隠すようなことでもないだろ。しばらく消えるんだし」
消える? 向こうって、単位って、手続きって、何のことだろう。
「おーいしおちゃん、戻っておいでー」
桐谷さんの声に、あたしはそっと顔を出した。
「はい、説明する。黙って消えない」
「……黙って行くつもりはないって。店長も中津さんも知ってるんだし」
「だからしおちゃんにも話す。ホレ」
困った顔になった野上さんが、やっとあたしのほうを見た。
「……何つうか……俺、前にイギリスに留学しててさ。こっちの大学は途中でやめたんだけど……
向こうで建築とか興味が出てきて、勉強するようになって、何度か行ったり来たりして、
でも残ってる単位とかあって……」
「がー! はっきり言え、はっきり!」
「うるせぇな! 言ってるだろが! ……だから、来月の半ばにはイギリスに行くんだ。
たぶん、1年ちょっとくらい」
「……ここ、やめちゃうんですか」
「うーん、とりあえずは。もう1人誰か入れてもらわないと回らないだろ。……戻れたら、戻りたいけど」
「戻れるんじゃないの? 前も2つ返事で復帰できたじゃん」
「あの時はちょうど人いなかったからな。……それに今度は、さすがに就職する方向で考えないと」
「おまえ結局根は真面目なんだよなぁ」
「……遺伝だよ」
「そうそう。こいつの兄貴も頭固くて……しおちゃん?」
あたしは、声が出なかった。
微かに膝が震えているのが分かる。
野上さんが、イギリスに行ってしまう。この店をやめて、1年以上会えない。
あたしのことなんか、忘れてしまう。
「え……おい、大丈夫?」
桐谷さんの声が遠くに聞こえる。野上さんは?どうして何も言わないの?
あたしの足元に、水滴が落ちた。顔を拭おうと思うのに、手に力が入らない。
――あたし、泣いてるんだ。
と、野上さんが腕を伸ばして、あたしの手首をつかんで引いた。
あたしが彼の体の影になるように隠すと、いつもの無表情な声が、いらっしゃいませ、と聞こえた。
いけない、仕事中なんだ。こんな顔でいたらダメだ。
「3名様ですね? どうぞ」
言いながらさりげなく、あたしをカウンターの奥の小部屋へ押しやってくれる。
「しおちゃん、休憩入って」
囁かれた言葉に、あたしは頷くことしかできなかった。
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